ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の短編映画『ELEVATED エレヴェイテッド』(1997年)の感想です。前回の『スプライス』感想記事のオマケ的な位置づけですが、この記事単体でも読めるようになっています。
ネタバレがありますので、ご注意ください。
◯ふたつの「常識」の衝突
約20分の短編『エレヴェイテッド』は、ナタリ監督の長編デビュー作『キューブ』の原型と位置づけられることが多いようで*1、たしかに両作にはいくつかの共通点があります。
(ほぼ)ワンシチュエーション・ワンセットものであること。「名前」が重要な要素として扱われていること(これはナタリ監督の全作品に共通)。閉鎖空間(エレベーター / キューブという「箱」)に閉じ込められた登場人物たちの心理劇としての側面をもつこと。
でも、大きく異なる点もあって、それは『キューブ』では描かれなかった「閉鎖空間の ”外側”」が『エレヴェイテッド』では描かれている、ということです*2。
◯
まずは『エレヴェイテッド』で描かれるシチュエーションを簡単に振り返ってみます。舞台は夜、どこかのオフィスビルのエレベーター。時刻は終業後のようで、乗客は中年女性一人と、熟年男性が一人だけ。エレベーターは地下の駐車場をめざして下降中。
そこに突然、血まみれの若者が大慌てで乗り込んで来て、エレベーターを強制停止したうえで、最上階に向かおうとする。唖然とするふたりに若者が説明します。「これは自分の血じゃない」「外には映画『エイリアン』に登場したような化物がいて、人々を殺しまくっている」「地下は危険だ、上階で助けを待つべきだ」。
当然ふたりは、青年を頭のおかしい殺人犯ではないかと疑い、エレベーター内に緊張が走る…と、これがだいたいのシチュエーションです。
◯
ここで起きているのは「ふたつの ”常識” の衝突」です。
最初にエレベーターに乗っていた中年女性と熟年男性は面識がなく、お互いどのような世界認識を持っていたかも不明ですが、でもおそらく次のような「常識」は共有していたことでしょう。
「現実世界では、エイリアンのような怪物が現れて人間を襲ったりはしない」
エレベーターという箱の「内側」は、そのような「常識」に満たされ、均衡が保たれています。しかし、そこに箱の「外側」から若者が乱入してきて、あらたな「常識」を主張する。
「外ではエイリアンのような怪物が徘徊し、人間を襲っている」
このふたつの「常識」…それまで箱の「内側」で支配的だった「常識」と、箱の「外側」からあらたに持ち込まれた「常識」のぶつかり合いのドラマが『エレヴェイテッド』で、つまりエレベーターという箱が社会のメタファーになっています(ここは『キューブ』と共通)。
◯
登場人物たちの年齢設定も示唆的で、「熟年」「中年」「若年」と、三つの世代が揃っている。「 "常識" にたいする世代間の認識のギャップ」がキャラクター配置に織り込まれているんですね。このうち、熟年男性は「それまでの常識」を強固に主張し、「怪物なんているわけがない」とエレベーターの「外側」に出て行ってしまう。
中年女性も、最初は熟年男性についていこうとしますが、すんでのところで気を変えて、エレベーターに残る。世代的にちょうど真ん中である彼女は、ふたつの「常識」のあいだで揺れ動いています。
その後すったもんだの末に、出て行った熟年男性の血まみれの死体がエレベーターに転がり込んできたあたりで中年女性の精神が限界に達し、若者をナイフでめった刺しにしてしまう。
そしてついに地下に到達したエレベーター。扉が開くと、「外側」から助けを求める人々が大挙してエレベーターに押し寄せてくる。エレベーターの「外側」は、若者の警告通り「怪物が徘徊し、人間を襲っている」という「あたらしい常識」が支配する世界になっていた…というラストです。
映画は、エレベーターの「内側」があたらしい「常識」に満たされ、狂気じみた表情を浮かべる中年女性の顔のアップで幕を閉じます。
この映画には実際の「怪物」は一切姿を見せませんが、「怪物」が本当にいたのかどうかよりも(「いた」というオチではあるんだろうけど)、それまでの「常識」があらたな「常識」とせめぎあっているときの混乱を描いた物語...という風にみると面白いのではないかなーと。
現実の世の中も「そんなアホな」と唖然とするような出来事が普通にニュースになる、これまでの「常識」が次々と崩れ落ちていく大転換期のまっただ中ですが、テンパったあまりに、誰かをめった刺しにするようなマネはしでかさないように気をつけたいと思いました。