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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『スプライス』感想:抑圧と反発の連鎖

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 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督『スプライス』(2009年)の感想です。

 この監督は『キューブ』だけの一発屋扱いを受けてしまうことが多くて、実際『スプライス』も興行的には恵まれなかった映画。

 …ではあるんですが、でもこれは『ザ・フライ』とか『インビジブル』などに代表される「研究室(ラボ)ものホラー」(今適当に考えたジャンル)の佳作の1本だと思います。もっと当たっても良かったのになー。 

 

 以下の本文では『スプライス』にくわえて、同監督の『キューブ』『カンパニー・マン』『ナッシング』のネタバレをしていますので、ご了承ください。

 

ヴィンチェンゾ・ナタリのテーマ

 『スプライス』の感想に入るまえに、話の「まくら」として、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督が一貫して描いているテーマについて簡単に触れておきたいと思います。

 ナタリ監督が『スプライス』の前に撮った映画は、短編やドキュメンタリーを除くと3本。

・『CUBE キューブ』(1997年)
・『カンパニー・マン』(2002年)
・『NOTHING ナッシング』(2003年)

 寡作ですね。「撮らなかった」というよりは、予算などの問題で「撮れなかった」という事情もあるようですが、とにかくこの3本の映画では「システムと、システムの抑圧を受ける個人の関係」という共通したテーマが描かれています*1

                    ◯

 このテーマがもっとも抽象化・純化された形で、かつ巨大な視座のもとに展開されたのが、監督の長編デビュー作『キューブ』。複数の立方体(キューブ)が連なって構成される謎の迷路に、事情もわからずに突然放り込まれた男女6人の脱出劇です。

 登場人物たちは「この迷路はいったい何なのか?自分たちはなぜここに送り込まれたのか?」を議論し、ある人は「政府による陰謀論」を強固に主張しますが、キューブの秘密のほんの一端を知る男性はその説を却下します。

「理解しがたいだろうが、陰謀じゃない。黒幕などいない。何の展望もなく行われている計画だ。分かるか?独裁者などいないんだ。ビッグ・ブラザーは君を監視してなどいないんだ」

「誰も彼もがシステムの一部なんだ。(…)僕らは目の前にある日々の仕事をこなすことに精一杯だ。全体像はあまりに複雑すぎて、誰にも把握できない。僕らがここに閉じ込められているのは、僕らがシステムをコントロールできないからだ」

 つまり、この作品の迷路は、世界というシステムのメタファーになっています。そこには「コイツを倒せばハッピーエンド」というような、全てをコントロールする黒幕は存在しないし、明確な悪意(意図)すらない。

 登場人物たち=「われわれ人類全員」は、自分で自分をそのシステムに閉じ込めており(あるいは、われわれ自身がシステムを構成する部品の一つ一つであり)、しかも、そもそもは自分たちが作りはじめたはずの政治・経済・産業などのシステムは際限なく巨大化し、複雑に絡み合い、もはや誰にもその暴走が止められなくなっている。

 『キューブ』で表現されているのは、そのような世界認識(人間には、世界というシステムを認識・制御することは不可能だ...という認識)です。

                    ◯

 つづく『カンパニー・マン』では、企業(システム)と個人の関係が描かれます。

 ハイテク企業同士のスパイ戦争に身を投じ、システムによる徹底的な監視・管理を受ける主人公の受難劇として進行するこの映画では「企業がいかに個人のアイデンティティーを抑圧・剥奪するか」が執拗に描かれており*2、つまり企業が明確な「悪役」として設定されています。

 『キューブ』みたいな視座に立てば「黒幕」なんていないけれど、もうちょっと話のスケールを小さくしてみるとそうとばかりも言えないよ...みたいな話でしょうか。

 そしてラストでは「巨大企業(=システム)に対するフリーランス(=個人)の勝利」「企業の強欲な利潤追求にたいする個人的な動機= ”愛” の勝利」が謳いあげられており、初見時にはその衒いのなさに「!?」とあっけにとられた覚えがあります*3*4

 「システムと個人の関係」を描きながらも『キューブ』とは様々な面で対照的で、「巨大な視座にたてば人類はもう絶望的かもしれないけど、問題を小分けにすればまだできることはあるはずだ」…みたいな監督の生真面目さが垣間見えた感じがした映画でした。

                    ◯

 続く低予算のコメディ『ナッシング』では、前2作から一転して「世界から一切の "抑圧" が消えたらどうなるか?」というシチュエーションが提示されます。

 女性がらみのトラブル(ここがポイント)に起因する、さまざまな社会的 "抑圧" にウンザリした中年男二人が「ぜんぶ消えてなくなれ!」と念じると、自分たちの家を除いた世界の全てが消滅してしまう*5

 そのようなプレッシャーゼロの状況下では、人間は自らを抑圧する対象を捏造してしまう…という、これもまた「システムと、システムの抑圧を受ける個人の関係」テーマのバリエーション、ひっくり返しですね。

 ラストは、紆余曲折のすえに全てが消滅した真っ白な世界で、身体すら消滅した男二人の「頭部」が互いの友情を再確認する…というホモソーシャル万歳!な奇妙な結末で、監督がどの程度マジにこれを描いているのかが読み切れない…という不気味さが良い味を醸し出しています。

  

◯『スプライス

 「まくら」がちょっと長くなりましたが、本題『スプライス』の話。

 『ナッシング』で女性が排除された世界での男達の愛憎劇を描いた反動なのか(?)『スプライス』で展開されるのは「母親の娘にたいする抑圧と、娘の反発」が連鎖していくという物語。この映画では「システムによる抑圧」と「母性による抑圧」とが一体化しており、おもに物語の表面に出てくるのは「母性の抑圧」の要素です。

 そして、そのような女たちのハードなパワーゲームの物語のなかで、男たちは笑ってしまうぐらいの「添え物」扱いを受けています。

                    ◯

 まずはストーリーをざっと振り返ってみます。

 遺伝子科学者のカップル、エルサとクライヴは、人間と動物の遺伝子を結合させる技術を発見し、ふたりの研究所のスポンサーである製薬会社の社長に実験の許可を求めます。が、倫理的・経済的理由(とくに後者が大)から返事はノー。

 それでも二人は秘密裡に実験を敢行し、その結果まったく新しい生命体「ドレン」が誕生します。

 ドレンは急速に成長し、それにともない人間の女性に似た外見を獲得していきます。やがて研究室ではドレンの存在を隠しきれなくなったため、空き家になっていたエルサの生家に移してかくまうことになるのですが、そのころからエルサはしだいにドレンへの抑圧的な態度を強めていき、ドレンもまたエルサへの反発をつのらせてく…と、これが中盤までの大まかなストーリーです。

 エルサの生家が登場するあたりで、観客に提示される重要な情報がふたつあります。

①ドレンを創るにあたって、エルサはクライヴに内緒で、彼女自身の遺伝子を使っていたこと
②エルサが母親から虐待に近い抑圧をうけながら少女時代を過ごしたこと

 両方とも親子関係…「母親」に関する情報ですね。

 まず①について。それまでにもエルサとドレンが擬似的な母娘関係にあることを示唆するシーンはいくつかあって、たとえば生まれたばかりのドレンがなかなか食べ物を受けつけず、でもエルサやクライブの好物であるフリスク(?)みたいな砂糖菓子は喜んで食べる…というあたりなどは、ドレンの嗜好がまるで親子のように二人に似ている、と思わせるシーンだったわけですが、

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 実際に遺伝的にエルサとドレンは母娘関係にあった、ということが明かされます。

 ドレンが研究室の人工子宮のような装置から誕生するシーンで、ドレンを引っ張りだそうとしたエルサは毒針に刺されて失神しかけますが、これも母親としての痛み...出産時の「陣痛」を連想させる表現になっていました。

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◯「システム+母親」としての社長の存在

 そのように、遺伝的に母娘関係にあるエルサとドレン。エルサはドレンを熱心に可愛がり、クライブは「実験対象にのめり込み過ぎでは」という危惧をつのらせていきます。

 しかし、そんな母娘関係に変調がおとずれるのが、ドレンがエルサの生家である農場に移送されるあたり。このころから、エルサは「娘を甘やかす母親」とは違った顔…「娘を抑圧する母親」としての顔をみせるようになります。そしてその原因が、②「エルサと、彼女の母親との関係」にあることが明らかになってくる。

 『スプライス』のバックボーンになっている「母親の娘にたいする抑圧の連鎖」が表に出てくるのですが、エルサはこの物語において「母親」と「娘」、ふたつのポジションを兼ねたキャラクターです。ドレンにたいしては抑圧的な「母親」として振る舞うエルサ。かつて自分が母親から受けたような虐待を、ドレンに対してふるってしまう。

 いっぽうエルサの「娘としての母親への反発」も描かれていて、この物語のなかで「絶対的な母親」のポジションにいるのが、製薬会社の女性社長です(この映画では、社長が「女性」であることは物語上のポイントになっているので、あえて強調しています)。

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  画像は初登場時の社長ですが、ドン・コルレオーネばりに顔が影に隠れていて、ラスボス感満々ですね。ナタリ監督が「システムによる抑圧」にこだわり続けていることは前置きでも触れましたが、『スプライス』では「冷徹に営利を追求する企業(システム)」と「抑圧的な母性」が、この社長のキャラクターに一体化されています。

 

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 エルサはこの社長の背後に自分の母親の影を見ている…と考えると、ドレンを創り出すにあたってのエルサの「暴走」にも説明がつきます。

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 実際にドレンを誕生させるところまでは踏み込むつもりのなかったクライヴの制止を振り切って、強引に実験を進めようとするエルサ。

 初見のときは「なんでこの人こんなムチャするの?」とイラッときたんだけど(いや、ムチャしてくれないと物語が進まないんだけど)、でもこの行動の背後には「企業システムへの反発」にくわえて「娘による母親への反発」という動機も設定されていたんですね。物語の都合でキャラクターが不自然な行動をとっているわけではないのです。

  

Nerd

 主人公カップルは「オタク(nerd)」を自認し、研究所の名前にも「N.E.R.D.」と命名しています。

 これはおもに「科学オタク」みたいなニュアンスだと思われますが*6、ふたりの寝室には、日本のマンガ?をモチーフにしたとおぼしきポスターも飾られていたり(知識不足のため元ネタはわからず)。

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 それで、この映画の「オタク」には「未成熟」みたいなニュアンスが付与されているようで、実際二人の社長への反発にはやや子供じみたところがあります。抑圧的な母親と、それに反発するオタクな子供たち、という構図(ふたりの言動…たとえば、社長とのミーティングに向かう道すがら砂糖菓子をむさぼっているシーンなんかも子供っぽかったですね)。

 でも、エルサが、実験で誕生した生き物に「ドレン(dren)」… nerdのつづりを「逆転」させた名前をつけたあたりから、エルサの物語上のポジションも「娘 → 母親」へと「逆転」。

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 やがては、ドレンにたいして自分が母親から受けた虐待をなぞるような行動に出てしまうようになります。

 さらに、成長したドレンがクライヴに性的な関心を寄せ始めるにともなって、「ライバル」であるエルサへの反発を強めたこともあり(母娘のエレクトラ・コンプレックスっぽい物語の駆動)、女の闘いは次第にヒートアップ。

 ついにはエルサがドレンを裸で台に縛り付け、毒針を切除する…という、肉体的な虐待を連想させる事態にまで発展します(ドレンがかなり人間に近い容姿をもっているので、ここはけっこう痛々しいです。ただし、毒針はすぐに再生)。


◯男たちの不憫さ

 そんな女(メス)たちのドラマのなかで、男(オス)たちは気の毒なほどぞんざいな扱いを受けています(このあたりは監督の前作『ナッシング』とホントに真逆)。

 多くの人がギョッとするであろう、クライヴとドレンのセックスシーン(倫理的にヤバいものを見てる感あるよね…)。オーガズムに達したクライヴをドレンの毒針が狙うのですが、ここで「種付けの終わったオスは用済み」という、"野性の王国" めいたシビアな映画内ルールが提示されます。

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 ここでは、エルサの乱入によってクライヴはいったん命拾い。

 その後、自然死したと思われたドレンが「オス」に性転換して蘇るあたりから、映画は男どもがバタバタと死んでいくクライマックスへ。まず、ドレンの存在を知った会社のイヤミな上司(♂)と、クライヴの弟が農場にやってきますが、ものすごくあっさりとドレンに殺られます。

 続いてクライヴもドレンに襲われ、さらにドレンはエルサをレイプしてしまう(ここもヤバいよなあ…)。

 そのような「父を殺して母と寝る」エディプス・コンプレックス型物語が駆動…と思ったとたんに、ドレンはエルサに撲殺されます。やっぱり種付けの終わったオスは用済みなのね。あっという間に男(オス)の死体が4つ転がり、生き残ったのはエルサのみ*7


◯むすび:母娘の和解?

 映画のラストシーンは、会社の社長室。二人きりで差し向かうエルサと社長。

 ドレンにレイプされたエルサは子供を妊娠し、会社と「その子供を産む」(そしておそらく、子供を新薬製造のための実験に提供する)という契約を交わした模様で、これは「システムに抗った個人が、でも結局はシステムに回収されていく」というエンディングです。

 ドレンのエルサへの反発も、エルサの社長(会社システム)への反発も全部無になり、結局は巨大企業の総取り...という、「個人の勝利」を高らかに謳いあげた『カンパニー・マン』とは真逆の終わり方。

 そして社長は、冷徹に営利を追求する会社システム側を代表する存在…なのですが、でも、ここで彼女はエルサにたいして、まるで母親のような人間味のある顔を垣間見せるんですね。

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「断っても誰も非難しない。中絶して立ち去ってもいいのよ」

 ドレンとエルサの子供は、製薬会社にとって莫大な利益を生む宝の山だと思われますが、それを堕ろしても良い、と。エルサは産むという意思を変えませんが、ここではつねに営利を優先し、抑圧的に振る舞ってきた社長がはじめて「個人 / 母親」としての一面を見せています。

 窓辺に佇むエルサと、その肩にためらいがちに手を添えた社長のシルエット。システム / 母性に全てが回収されたバッドエンドにも見えますが、母と娘の和解がついに成立した...というラストにも見えないこともない。

 このラストのそういう「見えないこともない」みたいな宙ぶらりんな感じが好きです。

 

 ※ナタリ監督の短編『エレヴェイテッド』の感想記事も書きました。

  

 

*1:もちろん、さまざまな作品で取り上げられる極めてポピュラーなテーマですが、ナタリ監督は一貫してこのテーマに拘っている、という点を重視しています。

*2:ナタリ監督の映画では、個人のアイデンティティーを代表する「名前」は常に重要な意味をもちますが、『カンパニー・マン』では、その「名前」が企業(システム)にいいように書き換えられて(蹂躙されて)しまいます。

*3:いつもは原案や脚本にクレジットされているナタリが、この映画に関してはノークレジットなんだけど、そのあたりの事情は影響しているんでしょうか。

*4:バッドエンドじゃない『未来世紀ブラジル』感もある映画です。ああいうバッドエンドは「世の中に余裕があってこそ」という部分があるので、いまの世相では作り辛そう。ちなみにナタリはテリー・ギリアムの『ローズ・イン・タイドランド』のメイキングを撮っているらしいんだけど、未見です。

*5:実際には「世界が消えた」のか、逆に主人公たちが「世界の外にはじき出された」のかは定かではありません。テレビ番組が普通に放映されている点を考慮すると「世界の外にはじき出された」説が有力?

*6:NerdGeekの違いについての参考記事→ 単純に「オタク」とするのはちょっと違う「Geek(ギーク)」と「Nerd(ナード)」 - GIGAZINE

*7:まるで男根のようなデザインの「ジンジャーとフレッド」も、オス同士で壮絶に殺しあって物語から退場します。もちろん「ドレンの性別が変化する」というクライマックスへの伏線とか、「生命はコントロールできない」というメッセージ(冷や汗がでちゃう言葉)的な意味で重要なシーンではあるんだけど、それにしても…のオスの不遇さ。