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『ハウンター』感想:抑圧の連鎖と、その終焉

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 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督『ハウンター』(2013年)の感想です。

 近年ではドラマでの活動が目立つナタリにとっての、いまのところ最後の「劇場用映画」(この定義も揺らいでいるのでカギ括弧つき)。
 


Haunter Official Trailer #1 (2013) - Abigail Breslin Movie HD

 

 この監督については、長編デビュー作『キューブ』(1997年)から『スプライス』(2009年)までのキャリアをざっと振り返るような記事を書いたことがあったんですが、今回の記事はその補完という位置づけです。

 

『スプライス』感想:抑圧と反発の連鎖

 
 テーマや物語構成の面において、『ハウンター』はかなりの程度、ナタリの前作『スプライス』と対になる作品として構想されています。

 本文中では両作の対照関係にふれる都合上、『ハウンター』にくわえて『スプライス』のネタバレもしているので、ご了承ください。

 


ヴィンチェンゾ・ナタリのテーマ

 くわしくは上にリンクをあげた記事を読んでいただきたいのですが、ヴィンチェンゾ・ナタリはデビュー当初から一貫して「システムと、その抑圧を受ける個人の関係」というテーマを扱っている監督です。

 たとえば、長編デビュー作『キューブ』。無作為に拉致されてきた登場人物たちが何の説明もなく巨大な迷路に放りこまれ、そこからの脱出をはかるというサスペンスですが、この映画における「迷路」は、人間がつくりだす政治・経済・産業・文化などの総体=「世界というシステム」のメタファーになっていました。

 


CUBEキューブ(冒頭シーン)

 

 登場人物たち=われわれ人類全員はシステムによって抑圧され、そこから脱出しようとあがくんだけど、じつは日々の仕事や生活のなかの何気ない行動を通じて、システムの建造・維持に加担してもいる(たとえば私はアマゾンのプライム会費を払って『ハウンター』を観ましたが、この行動は文化や産業や政治などなど、あらゆる方面に関わりがあります)。

 そしてそのシステムはあまりにも巨大で、全てが複雑に絡み合っているために、誰一人として全体像を把握することができない。

 つまり『キューブ』は、すべての人がシステムによって「抑圧される側」であると同時に「抑圧する側」でもある(あらざるを得ない)という、加害と被害が切り分けられない現代の複雑さを描いた寓話で、それを低予算でもって一級のエンターテインメントに仕立てあげた手腕が見事でした。

 このように、デビュー作でいきなり長大な射程をもつシステム観を提示した(してしまった?)ナタリは、その後の作品でテーマの縮小化/具体化に向かいます。

 『カンパニー・マン』で主人公を抑圧するのは「大企業」という全体像を把握することが可能なスケールのシステムであり*1、『スプライス』では「大企業による抑圧」と「母性による抑圧」が一体化した形で描かれていた。

 抽象的で巨大な「世界というシステム」を扱っていた『キューブ』から、しだいに題材が絞り込まれて具体的になってくるんですね。これを、テーマの射程が短くなったとマイナスに捉えるか、あるいはフォーカスが絞られたとプラスに捉えるかは、意見が分かれるところだと思います。

 

  

◯世代をまたぐ抑圧の連鎖

 「大企業による抑圧」と「母性による抑圧」が一体化した形で描かれた『スプライス』ですが、ストーリーの全面に出てきたのは「母性による抑圧」のほうでした。

  


Splice Trailer

 

 『スプライス』は、遺伝子科学者である主人公カップルが、人間と動物の遺伝子を結合して新種の生命体を誕生させたことによって始まる恐怖を描くSFホラーです。

 主人公のひとりであるヒロインのエルサは、少女時代に母親から虐待といえるような異常な束縛を受けて育ち、母親的なものに反発を感じていました。

 だから彼女は、上司である抑圧的な女性社長の背後に母親の影を見いだし、反発します(『スプライス』では社長が「女性」であることは物語上のポイントであるため、あえて強調して表記しています)。実験中止という社長命令を無視して、新種の生命体を創りだしてしまう。

 しかし、いざ自分が母親としてのポジションに立つと、こんどは娘的な存在(自分が実験により創りだした生命体・ドレン)を抑圧する側にまわってしまう。母子一体の関係をキープし、ドレンを自分の支配下に置こうとするのですね。

 それに対する反発として、こんどはドレン側のエレクトラ・コンプレックス型物語が駆動する…といった具合に、親・子・孫の三世代にわたる抑圧と反発の連鎖が、抜けだすことの難しい「システム」として確立されてしまうさまが描かれていきます。

 下の図も以前の記事にあげたものですが、ヒロインのエルサを中心にこの図を眺めてみると、このシステムにおいては『キューブ』と同様に「抑圧する側」と「抑圧される側」の立場が重なっていることがわかると思います。加害と被害の二重性。

 

 

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 いっぽう、当記事の本題である『ハウンター』では「父性による抑圧」が世代をまたぐ形で描かれます。

 この映画では「1950年代」「1980年代」「2010年代」という3つの時代が平行して描かれ、それぞれの間には約30年のブランクがある。30年というのはだいたい親子の年齢差、1世代の年数ですね(あくまで現在の先進国の平均を当てはめれば、ということですが)。

 1985年に製作された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、「1955年」「1985年」「2015年」をそれぞれ「過去」「現在」「未来」として扱い、親・子・孫に相当する世代間の物語を描いていましたが*2、『ハウンター』はそれと同様の構造を備えています。

 …と、やや話が先走ってしまいましたが、このあたりで作品のあらすじをネタバレ込みで振り返っておきましょう。

 

 

◯『ハウンター』あらすじ

 3つの時間軸が重なり合い、謎の解明が小出しにされる展開で受け手を引き込む『ハウンター』ですが、ラストまで観ると、わりとよく見かけるパターンのふたつの設定をひとつに合体させた物語であることがわかります。


・ループもの
・「じつは主人公は死んでいた」系心霊もの


 もちろん、よく見かける設定だから悪いということは全くなくて、大事なのはそれらの組み合わせ方とか見せ方(物語を切り取るアングルや、情報の出し方の順序など)ですよね。

 『ハウンター』はそこに工夫がこらされているのですが、ここではそうした語りの工夫をいったん無視して、作中の出来事をクロノジカルに振り返ってみます。

 

                    ◯



・1950年代(殺人犯の属する時代)
ある少年が両親を殺害。成長した彼は1953年を皮切りに、若い女性を誘拐しては殺害し、家の地下の焼却炉で焼く…という凶行を長年にわたって繰り返す。死亡した彼はその後、家に取り憑く悪霊として復活する。

・1980年代(ヒロインの属する時代)
ヒロイン一家が悪霊の憑く家に引っ越してくる。一家の父親に取り憑いた悪霊は、ヒロインの15歳の誕生日の前日に、父親自身を含む家族全員を殺害させる。その後「誕生日の前日を繰り返すループ世界」を家のなかに構築し、一家の霊をそこに閉じ込める。

・2010年代(準ヒロインの属する時代)
ヒロインの幽霊はループから覚醒し、自分がすでに死亡していることに気づく。一方、新たに引っ越してきた準ヒロイン一家の父親に、再び悪霊の手が伸びる。危機を察知したヒロインと準ヒロインは交信を開始し、協力して悪霊に立ち向かう。準ヒロインの肉体に憑依したヒロインは悪霊を撃退し、一家の霊はループ世界から解放される。

 

                    ◯

 

 以上が『ハウンター』で起こるおおよその出来事です。

 この物語の世界では3つの時間軸が重なり合い、それぞれのあいだには親・子・孫に相当する世代的なギャップが存在する。各世代にはそれぞれメインとなるキャラクターが配置されており、その三者が交流することで物語が動いていく。

 (殺人犯が両親を殺害したのは1950年代よりも前のことであり、彼は70年代の前半までに渡って凶行を繰り返しますが、作劇上は「1950年代に属するキャラクター」として扱われていると考えます。この点については後ほど触れます。)

 こうしたゴースト・ストーリーをやろうとする場合、通常は作品が製作された2010年代を「現在」に設定して、生者である準ヒロインの視点から「かつてこの家ではこんなことがあった」という「過去」の謎が解き明かされていく…みたいなパターンになることが多そうですよね。

 でも『ハウンター』はあえて真ん中の1980年代を「現在」に設定して、死者の視点から物語を語ってみせるという、やや捻った構成をとっています。

 このような構成がとられた理由としては、物語上の謎や捻った展開が受け手の興味を惹きつけるから、というのがもちろん大きいでしょう。ですが、1980年代がメインの舞台に設定されたことについてはもうひとつ、作品のテーマと関連した理由があると思われます。


 

 
レーガン政権下のアメリ

 映画がスタートして10分過ぎあたりのところで、ヒロインの家のテレビにレーガン大統領が映しだされます。作中の時代が(とりあえずは)1980年代であるという情報を観客に提示しているシーン。

 

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 テレビの音声が聞き取り辛いですが、もしかすると1986年から実施された税制改革に関する会見の模様でしょうか?(「抜本的な税制改革法案にこれから署名する」みたいなセリフが聞こえるのですが、違ったらすみません)。ヒロイン一家が殺害されたのは1985年4月なので、そのあたりの映像だとは思うのですが。

 レーガン政権下、1980年代のアメリカは、表面的な好景気の裏側で貿易赤字財政赤字が膨大に膨らみ、経済危機への懸念が高まっていました(MMTなんてまだ誰も言い出してなかった…と思う)。86年の税制改革もその対策の一環で、会見の模様は、当時のそうした不安定な情勢を想い起こさせる映像です。

 また、バブルの上昇気流に乗った日本企業によるアメリカ資産のえげつない買い漁りが始まり、激しいジャパンバッシングが起きた時代でもある。

 そういう、アメリカ人のプライドを揺るがすような情勢への裏返しとして、経済的にも軍事的にも世界を圧倒していた1950年代=「古き良き時代のアメリカ」へ回帰しよう、という流れが力をもっていました。

 近年ドナルド・トランプによって脚光をあびた「(Let's) Make America Great Again」というスローガンは、もともとは1980年の大統領選でレーガン陣営が打ち出したものですが、ここでの「Again」は1950年代のアメリカを志向しているんですね。

 もうひとつロナルド・レーガンが掲げたスローガンに「家族の価値(Family Value)」というのもあります。

 これは父親を権威の中心に据えた、やはり1950年代の「古き良きアメリカ」的な家族形態(家父長制)を理想とし、そこから外れた家族形態を排除するような(すなわち離婚家庭や未婚出産への無理解、反同性愛・反フェミニズムのニュアンスを含んだ)価値観で、当時の保守層から大きな支持を集めました。

 そんな感じで80年代のアメリカは、経済不安や長く続いた社会変革の波にたいする反動として保守化に傾き、50年代ノスタルジーが強まっていた。

 (以下、この記事の中では何度か「保守」とか「保守化」といった言葉を使いますが、これは「旧来からある体系的な思想としての保守主義」ではなく、新保守主義 ~さらにいえば、社会に広まった新保守主義「未満」の「あのころの〇〇は良かった(らしい)」という懐古的ムードを指します。むろんそうした美しい「あのころ」には、後世による美化・捏造が多分に含まれます。)

 さきほど挙げた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、劇中でレーガン大統領が小ネタでいじられて本人が気に入っていたことでも有名な作品ですが、これも1950年代をフィーチャーすることで、公開当時の「あのころのアメリカは良かったよなムード」に上手く乗っかって ~日本でいうところの『三丁目の夕日』的に~ 大ヒットした、という側面があったようです(娯楽映画としての出来自体もとても良かったですが)。

 


Back To The Future (1985) Theatrical Trailer - Michael J. Fox Movie HD

 

 


◯ヒロインの造形

 もちろん、そういうムードに乗れない人達というのも一定数いて、この映画のヒロインもおそらくそのひとり。彼女は常にアイラインを強調したゴスっぽいメイクをして、スージー・アンド・ザ・バンシーズのTシャツを中心に黒ずくめの格好をしています。

  

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 70年代後半から90年代前半にかけて活動したスージー・アンド・ザ・バンシーズは、ゴシック・ロックに括られる「こともある」バンド。くわえて彼女の部屋には、デヴィッド・ボウイザ・キュアージョイ・ディヴィジョンなどのポスターが貼られていますが、これらは全て、ゴシック・ロックに直接的・間接的に影響を与えたと言われるミュージシャンです。

 これらのポスターがヒロインと同じフレームに収まっているシーンが、映画が始まって5分ほどのところで登場します。彼女のファッションと同じく、開始早々にヒロインのキャラクター性を印象づけるシーン。

 手前に座っているヒロインと奥のポスターとのあいだに「シルエット」「横顔」という類似点が周到に演出されており、彼女とこれらの音楽の親和性の高さが強調されています。

 

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 もっと後のほうでは、ゴスとはあまり関係ないザ・スミスのポスターが貼ってあることもわかるのですが、これもネクラなイギリスのミュージシャンつながりということで…。

 そのザ・スミスも含めて、全体としてこのヒロインは、保守的でイケイケな80年代アメリカのメインストリームとは相容れないものを感じている女の子なのだろうな、ということが伺えるラインナップです。*3

 これら数々のポスターやゴスっぽいメイク、黒ずくめのファッションは「このヒロインは周囲への違和感を抱えている」という、言ってしまえばある程度記号的なキャラ描写の一環なのだろうと。もしも彼女が2019年に生きるキャラクターだったら、ビリー・アイリッシュを聴いていたかもしれないですね。*4

 ところで、「映画におけるゴス」というとまっさきに名前が浮かぶ監督のひとりがティム・バートンで、この人の映画では、社会への違和感がしばしばゴスっぽい意匠によって表現されています。

 たとえば、初期の代表的『シザーハンズ』(1990)。1950~60年代の保守的な町を舞台に、町の住人たちと、外部からやってきた「異物」=ジョニー・デップ演じる人造人間とのあいだに生じる軋轢を描いた作品ですが、カラフルで人工的な町並みと人々のファッション、そこから浮きまくるモノトーンでゴスなジョニー・デップの対比が強烈でした。

 


Edward Scissorhands (1990) Trailer #1 | Movieclips Classic Trailers

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 『シザーハンズ』製作当時のアメリカには、前述したような「古き良きアメリカ」への憧憬がありました。そうした世相への違和感を体現するのがジョニー・デップのゴス・メイク。

 ものすごく雑に図式的な言い方をしてしまうと、『シザーハンズ』には「80年代保守の “古き良きアメリカ” ノスタルジー vs. ゴス」という対立項が(メタレベルで)含まれるのですが、似たような対立項が『ハウンター』にも見て取れます。

 「古き良きアメリカ」をお手本にしたさまざまなスローガンを唱えるロナルド・レーガンと、ヒロインのゴス・メイク、スージー・アンド・ザ・バンシーズのTシャツ。

 ここに、殺人犯が連続殺人に手を染めはじめたのがやはり1950年代だった…という設定を考え合わせると、『ハウンター』劇中の「現在」が1980年代に設定された理由が浮かび上がってきます。
 

 

 

ティーンエイジャーの発見

 殺人犯が少年時代に両親を殺害するシーンで、印象的に映し出される十字架と聖書。母親の首にかかった十字架のペンダント(イエス像がついているのでカトリック?)と、父親の手元の聖書が、いちいちアップで映し出されています。観客の印象に残るように映像的に強調されている。文章だったら太字で書かれている感じですね。

 彼の両親は敬虔なキリスト教信者だったのだろうということが伺えるシーン。

 

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 彼が両親を殺害した理由については劇中での説明がないので、これは私の想像にすぎませんが、少年時代の犯人は宗教的に厳格な、保守的な価値観をもつ両親によってある種の抑圧を受けて育ったのではないか…とここでは仮定してみます。その抑圧への反発として、少年は両親の殺害に及んだ、と。

 殺人犯が最初に両親以外の人を殺したのは1953年。レイトショーの映画を観た帰りのティーンエイジャーの少女が襲われるのですが、この「ティーンエイジャー」という区分がアメリカで一般化したのは、第二次世界大戦後のことだそうです。

 昔は扶養される「子供」と、独り立ちした「大人」という区分しか存在しなかった。ところが、戦後に経済が豊かになり(第二次世界大戦は経済的にはほぼアメリカの一人勝ちでした)生活に余裕のある家庭が増えたために、もう子供ではないけれど、働きに出るほどには大人でもないどっちつかずの層=「ティーンエイジャー」が発見 / 認識された。

 その結果、1950年代は『理由なき反抗』(1955年)に代表されるような映画やロックンロールなど、それまでにはなかったティーンエイジャー向けの文化が一気に噴出した時代になりました。当然、親世代との軋轢も激しかった。被害者の女の子みたいな「夜遊びするティーンエイジャー」は、そうした新しい潮流の代表という感じなんですね。

 


Rebel Without a Cause - Trailer

 そういう新しいタイプの女の子が殺人犯に殺される。この殺人犯は保守的な自分の両親を殺しているわけだけど、彼は「旧世代に反逆する人物」というよりは、むしろ「旧世代の抑圧によって産み出された怪物」というふうに捉えることができるんじゃないかと思います。

 『ファイト・クラブ』(1999年)を観た人は、あの映画でブラッド・ピットが演じた反消費社会のカリスマ=タイラー・ダーデンが、じつは消費社会の産物であり、ミラーイメージにすぎなかった…というあの感じを思い出してみてください(これもまた、現代における抑圧と被抑圧の切り分け難さを見事に捉えた傑作でした)。

 あるいはゴジラが水爆実験によって産み出されたとか、そういう「時代や社会状況が産んだ怪物」というニュアンスが『ハウンター』の殺人犯には付与されているのではないか、と。「個」としての悪にとどまらない、時代の歪みを反映した悪という物語上のポジションですね。

 この殺人犯のキャラクターに、1950年代という時代性が染み付いていることは、音楽の使い方によっても明示されています。

 悪霊となった殺人犯はヒロインと準ヒロインの父親にそれぞれ取り憑きますが、取り憑かれた父親がガレージで車の修理をしているシーンでは共通して、ラジオから50年代のポップスが流れている(ジョニー・エンジェル 『ザ・ストーリー・オブ・ラブ』1958年)。

 このオールディーズが、ヒロインの好む70~80年代のゴシック・ロックやポストパンクと対比されていることは明らかです。

 (ヒロインと準ヒロインの交霊手段となる『ピーターと狼』~「庭の外」に出る事を禁じられた少年がその禁を破り、森の狼を退治する物語~ の使い方にも表れているように、この映画における音楽はシーンの雰囲気づくりという範疇を超えて、ストーリーにおいて能動的な役割を果たしています。また、『ピーターと狼』の収録された「回転するレコード盤」は、ヒロインの囚われているループの暗示だと思われます。彼女はその回り続けるレコード盤から針を上げることができる人物なんですね。)

 

 

 

◯50年代ノスタルジーと悪霊の復活


 もう予想がつくと思いますが、『ハウンター』のメインの舞台が1980年代に設定された理由は、この時期に「古き良きアメリカ」への懐古ムードが台頭したことと関連しています。

 保守的な抑圧のもとに誕生した怪物=殺人犯は、1950~60年代をつうじて新時代の若者たちを殺害していきました。殺人犯の遺したスクラップ・ブックによると、彼の連続殺人は1972年あたりまでは続いたらしい。

 

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 殺人の記録が70年代の前半で止まっているのは、この時期に社会変革の運動がいっそう先鋭化し(家父長制を激しく批判したラディカル・フェミニズムの登場など)、50年代の「落とし子」である殺人犯のパワーが弱まった、ということなのかもしれない。あるいは、たんに加齢によって体力が低下したのかもしれませんが。

 いずれにせよ殺人犯は1983年に死亡し、そののち、生前に輪をかけて邪悪な悪霊としての復活をとげます。この時期が、レーガン政権のもとでの保守主義の復活とシンクロしているんですね。

 このように、悪霊とレーガン政権のイメージが結びついていることは、レーガンの映像が登場するシーンの演出によっても強調されています。

 家の地下室に隠された秘密に気づきかけるヒロイン。するとヒロインを威嚇するように洗濯機の蓋が大きな音をたて、不通であるはずの電話のベルがけたたましく鳴りはじめます。

 後に明らかになるように、この映画における電話は悪霊とヒロインの交信手段であり(ヒロインと準ヒロインの交信手段であるウィジャボードや『ピーターと狼』との対応)、ここでかかってくる電話は「余計なことに首を突っ込むな」という犯人からの警告なのですが、その不穏な雰囲気と呼応するようにレーガンの映像が登場する。

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 ここでヒロインのいる世界は悪霊のつくり出したループ世界、「ヒロインの誕生日の前日を永遠にループし続ける世界」ですが、これは彼女の個人的な成長の阻害と同時に、懐古的な価値観の台頭による「社会の発展の停滞」をも意味していると考えられます。

 ヒロイン一家は、恐ろしい現実問題(自分たちが「一家の長」のドメスティック・バイオレンスの果てに死亡したという事実)から目を逸らすことで、「ループする一日」というシステムに閉じ込められている。

 映画の後半に明らかになることですが、じつは家族は全員、意識のどこかでは世界のループに気付いており、事実を直視したくないが為にそこから目を逸らしていました(「メガネ」「洗濯物」「パワープラグ」の意図的な紛失)。その意味では、一家は自ら望んでシステムに閉じ込められていた、という言い方もできます。

 そのシステムのなかにいるあいだは先に進むことは望めないけれど、かわりに安心を得ることができる。ここでも「抑圧」と「被抑圧」の重なり合い。

  

f:id:tentofour:20190520230925j:plain「心配しなくても大丈夫だよ。このゲームと同じなんだ。いつも同じ迷路のなかにいて、絶対死なない。僕らはずっとこの家にいるべきなんだ」

 
 自分たちが閉じ込められているシステムを「迷路」に例えているあたり、『キューブ』を連想させるセリフです。

 やがて映画のクライマックス、ついに家族全員が事実を直視することによって、このシステムは崩壊。*5

 解放されたヒロインが家のドアを開け、光に包まれるラスト(これも『キューブ』のリフレイン)は、彼女の霊が天国にたどり着いたということではあるんだろうけど、「社会が前進する可能性」というニュアンスも感じとれます。

 全体的に、ちょっと作り手のイデオロギーやメッセージ性が反映されすぎなのでは?と思うところもあるんですけど(「全ては政治的である」というのとはまた別レベルの話として、物語はプロパガンダの道具ではないので)、でもここで交わされる父と娘のやりとり...「外には何があるの?」「望むものはなんでも」には涙ぐんじゃったりして。

 『ハウンター』の製作は2013年。現実にはこのあと、ふたたび「MAGA」をスローガンにしたトランプ政権の時代がやってきます。*6 

 


◯むすび

 最初のほうで触れたとおり、ナタリの前作『スプライス』では、母性の抑圧が三世代にわたって連鎖していきました。

 いっぽう『ハウンター』では、旧世代の抑圧の「落とし子」である悪霊に取り憑かれた1980年代と2010年代の父親たちが、自らの家族に抑圧を加えます。そしてその抑圧は、『スプライス』での母性原理的な「束縛」から、父性原理的な「切断」へとその種類を変えている。

 このように、父親によるドメスティック・バイオレンスが世代をまたいで連鎖していく物語が『ハウンター』で、その暴力は個々の父親の人間性に起因するものというよりも、殺人犯の悪霊が象徴する時代の歪み、旧弊な価値観やシステムに起因するものである…という描き方がされています。*7

 『スプライス』でやったのと同じように、『ハウンター』の物語を「3世代にわたる抑圧と反発の連鎖」という側面から図にしてみると、こんな感じでしょうか。*8

 

 

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 殺人犯の両親のところに「キリスト教保守派?」とありますが、作中そのあたりに立ち入った描写はないので、これはあくまで私の推測にすぎません。

 ただ、レーガン政権の重要な支持基盤としてキリスト教保守派(キリスト教原理主義者)の存在があり、当時政権との距離の近さが問題視されていた、という情報は付け加えておきます。

 (『シザーハンズ』で、保守的な町にあらわれた「異物」であるジョニー・デップに一番激烈な拒絶反応を示すのがキリスト教原理主義者の女性であるという設定も、映画製作当時のそのような世相を反映しているみたいです。)

 1980年代に生きたヒロインの霊が、2010年代に生きる準ヒロインの身体に憑依して、1950年代の悪霊による悲劇の連鎖を食い止める。

 そのような、自分の子供や孫の世代、未来への責任の物語という見方もできる映画だなあと思ったのですが、しかし今回の記事は「作品と社会を結びつけて一丁あがり」路線に傾きすぎたかもしれませぬ。

 

 


◯余談

 ヒロイン一家が死亡したのは1985年の4月なんだけど、映画で使われてる1980年代の曲って、その後にリリースされたものが混じってるんですよね。

 エンド・クレジットで流れるスージー・アンド・ザ・バンシーズの『キリング・ジャー』は1988年の曲(アルバム『ピープ・ショー』収録)。

 


Siouxsie And The Banshees - The Killing Jar

 

 これについては、ヒロインがループから抜け出したあとにかかる曲なので「時間が進んだことを表している」…という解釈もできなくはないです。

 でももう1曲、Swedish fish というバンド(知らなかったけどカナダのバンドらしい)の『Clever Girl』は、私が調べた限りでは1986年の曲みたいなんですよね(EP『How Can You Sleep At Nigth?』収録)。 

 こういうストーリーを作る人達が使用曲の年代に無頓着なはずはないので、なにか物語上の仕掛けとかがあるのかなあと思うんだけど、どうなんでしょうか?

 

 

 

*1:ナタリの映画では「抑圧/被抑圧」の関係が二重写しの割り切れないものとして描かれていて、そこに誠実さが感じられるんだけど、『カンパニー・マン』では「抑圧する大企業」と「抑圧に抵抗する主人公」の関係がきっぱりと分かたれています。ストーリー上の紆余曲折はあれど、最終的には「ヒーローvs.悪」の二項対立の図式に落ち着いてしまう。私はナタリの映画はどれもけっこう好きなんですが、以上のような理由から『カンパニー・マン』はちょっと落ちるなーという感想をもっています。

*2:「孫」の世代、2015年の話は終盤セリフで登場するのみで、その年代が本格的に描かれるのは『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(1989年)になりますが。

*3:『ハウンター』の舞台がアメリカである、ということを示す明確な描写は、じつは劇中には登場しないのですが(ナタリはカナダ人で映画自体もカナダ製作)いずれにせよアメリカの政治や文化の影響を強く受ける地域の物語です。

*4:もちろん、ある人の好む音楽や映画を取りあげて「こういうのが好きな奴はこういう人間だろう」と判断するのは退屈な決めつけです。物語の登場人物について言うなら、「熱心な共和党支持者のデッドヘッズ」なんていたら面白いキャラクターになりそうですよね。ただ『ハウンター』は、そういう方向でのキャラクター描写の掘り下げを志向している映画ではない、ということです。キャラクターの複雑さや微妙な心理描写よりも、ストーリーの構造に重きの置かれた映画(ストラクチャー>テクスチャー)。実際ストーリー上の仕掛けはかなりの詰め込みっぷりで、「構造しかない」感はちょっとあります。

*5:抑圧的なシステムが崩壊するのは良いとして、その後に権力の空白状態が発生してしまうと、システムがあった時よりも悲劇的な混乱状態が訪れたり、あるいはより抑圧的なシステムが後釜に座ってしまったりします。だから悪いシステムがあったとして、それをやみくもに破壊すれば良いという話ではなくて、その後のビジョンが必要になってくる。そこにきちんと言及しているのが『モンスターズ・インク』や『魔法少女まどか☆マギカ』『サイコパス』といった作品です。→ 『モンスターズ・インク』と『魔法少女まどか☆マギカ』の感想 『PSYCO-PASS サイコパス』(1期)感想(『サイコパス』の感想では、本文中で話題が出た『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンというキャラクターについてもちょっと触れています。)

*6:2008年のオバマ政権誕生を背景にしながら、「全ては一対一のディールだ」というトランプ的価値観の台頭を予見的に描いたのが、アンドリュー・ドミニク監督『ジャッキー・コーガン』(2012年)です。→ 『ジャッキー・コーガン』感想 

*7:マイケル・ギルモア著『心臓を貫かれて 』(文春文庫) では、著者自身の家系を蝕むこうした暴力性が、アメリカの歴史と呼応しながら連鎖していくさまが詳細に記述されています。ものすごい本です。

*8:ナタリのデビュー短編『エレヴェイテッド』(1997年)においてすでに、『スプライス』や『ハウンター』で描かれた「3つの世代の間に発生するドラマ」の原型をみることができます。→ 『エレヴェイテッド』感想