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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

世界を図式化せずに物語る ~『風立ちぬ』感想

アニメ 風立ちぬ スタジオジブリ

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 『風立ちぬ』については、以前『たまこまーけっと』と絡めてかなり長々と書いたことがあるんですけど、単独の記事がないことに気がついたので、テレビ初放映に便乗してみました。

 記事中はネタバレがありますので、ご注意ください。


◯両義性へのこだわり

 このアニメの次郎の作画で印象的なのはメガネの表現で、斜めから彼の顔を捉えたときに、目が二組あるように描かれているカットがたびたび登場するんですよね。本物の目と、レンズ越しの目。次郎が虫みたいな「多眼」にみえるんですが、そういう手間がかかる表現をわざわざやっている。

 これは、物事のさまざまな側面を総合的・立体的に捉えようとするこの作品の視点を表しているのかな?と思ってしまったぐらい、『風立ちぬ』を観ていて強く感じるのは、物事の両義性にこだわった表現の多さです。ある同じ物事が、状況によって「善きもの」としても「悪しきもの」としてもあらわれる、という表現。

 たとえば「風」「火」「水」という、タルコフスキーと並ぶ宮崎アニメ三元素(?)についてみてみると、こんな感じです。


・風
 善=次郎と菜穂子の出会いをとりもつ

 悪=風に吹かれた菜穂子が吐血する

・火
 善=タバコの火(くつろぎ、愉しみの素)

 悪=街や本(知識)を焼く

・水
 善=別荘地での、次郎と菜穂子の邂逅の背景(命の源のイメージ)

 悪=雨に濡れた菜穂子の病状が悪化(死を呼び込むイメージ)


 ほかにも、カプローニの設計した戦争の道具=爆撃機に、人々が乗り込んで楽しそうに騒いでいるシーンなんかも印象的でしたね。このように、物語のなかでひとつの物事に両極端なふたつの意味が付与されるということは、突き詰めていくと「対立」が無効化されることにつながります。

 ふつう物語は、対立構図を設定することでストーリーを盛り上げようとします。善と悪の闘い、主人公とライバルの争い(スポーツの試合でも、恋でもなんでも)。この「対立」が熾烈なものであればあるほど、物語は盛り上がりをみせます。

 

ドラマには対立が必要だ。主人公のいる場所と、欲しいものがある場所とのあいだに立ちふさがる何かを置くことで、緊張感やサスペンスが生まれ、観客の関心を惹きつけることができるのだ。

(クリストファー・ボグラー&デイビッド・マッケナ『物語の法則 ~強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』)


 でも『風立ちぬ』は、このようなセオリー通りに「対立」を持ち込んで物語(ドラマ)を盛り上げようとはしません。


◯対立構図の排除

 この作品での「対立」の扱いについて印象的なのが、次郎が会議で軍の幹部たちに過大な要求をつきつけられて「全力を尽くします」を連発するシーン。

 上司の「おまえ(軍の連中の話を)きいてないな」という指摘に、次郎はあっさり「はい」とうなずきます。ここで「ただ ”美しい飛行機” を作りたい次郎」と「より優れた ”兵器” を作るように要求してくる軍」という「対立」を持ち込めば、物語は盛り上がるんですけど、それをやらない。宮崎監督は、インタビュー*1でこんな発言をしています。

 

ーー:いわゆる戦後的なアプローチで、主人公対軍とか、対戦争っていう対立の構図を作れば、ある意味高揚感は生まれるんですけど。

宮崎:いや、最低の映画になりますよ。大っ嫌いです!会議ばっかりやってる映画。

宮崎駿インタビュー『Cut』2013年9月号)


 ここでの「会議」は、二つの意見を戦わせる「対立」の構図を指しているのかな、と思うんですが、それを否定している。カリオストロ伯爵やムスカ大佐みたいな明確な「悪役」と主人公の対決はやらないぞ、と*2

 対立構図を排除して、価値判断のフィルターを通さずに、物事の両義性が孕む矛盾を作品世界に受け入れる。このような映画の基本姿勢をあらわした、次郎の友人のセリフがありました。


「貧乏な国が飛行機を持ちたがる。そのおかげで俺たちは飛行機を作れる。矛盾だ。」


 でも、次郎も友人も飛行機を作る。矛盾を矛盾のまま受け入れる、作品のこのような姿勢について、高橋源一郎はこんなふうに述べています。

 

つまり、矛盾があってもいいってことなんだよね。汚れたものを受け入れるぐらいなら俺は死ぬ、って原理主義でしょ?「生きりゃいいんだ」っていう確信が宮崎さんのアニメの中にはあって。

(「高橋源一郎、『風立ちぬ』を読み解く」 『Cut』2013年9月号)*3

 

 次郎が、夢のなか(クリエイターたちの集合的無意識?)で、最初にカプローニに見せた飛行機は真っ白でした。次郎個人のイデアとしての「美しい夢」。

 やがて、会社の勉強会で同僚たちに「理想の飛行機」の姿を説明しているシーンで、イメージの中の機体に日の丸が刻印される。このシーンをよくみると、最初、次郎が喋っているときは機体は純白なのに、同僚達の視線に機体がさらされたカットから日の丸があらわれる、という演出になっています。

 次郎個人の「美しい夢」をカタチにすることは次郎だけの力では実現不可能で、国が莫大な資金を払うことによって、はじめて「戦闘機」という現実のカタチになり得る。次郎は「(理想の飛行機は)機関銃を積まなければ実現できるんだけど」といいつつ、その案を断念します。

 イデアとしての真っ白な飛行機は、そのままでは現実のカタチにならない。「美しい夢」が、時代や状況によっては戦争の道具=「呪われた夢」としてあらわれ得る、という両義性。でも、次郎は彼がたまたま生まれた時代のなかで、精一杯飛行機を作る。

 作品はそのように、次郎の夢がカタチになった背景を彼に背負わせます。でも、次郎を弁護も断罪もしません。

 

(次郎の戦争責任を)断罪する人は断罪すればよろしい。そうやって生きなさい。でも全員が反戦活動をしたり、社会主義者になって牢屋に入るわけにいかないから。職業をもつことは、どうしても加担するという側面をもっている。それはもうモダニズムの中に入ってるんだと思っているんです。

宮崎駿インタビュー『Cut』2013年9月号)


 すべてが複雑に接続された社会のなかで、正義の側に立ったつもりで誰かを断罪すれば、その非難はブーメランのように「社会生活をとおしてモダニズムというシステムの維持に加担している」自分にかえってくる、という認識*4

 システムの「外」に立つことの不可能性については、かつて村上春樹もこんな風に書いていました。

 

隅から隅まで網が張られている。網の外にはまた別の網がある。何処にもいけない。石をなげれば、それはワープして自分のところに戻ってくる。本当にそうなのだ。

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』)


 このような認識にもとづいて、『風立ちぬ』は、ドラマを盛り上げることのできる対立構図を「あえて」排除しているのですが、こうした物語上の操作は、主人公・次郎のキャラクター造形にも関わってきます。


◯何を考えているのかわかりにくい主人公

 最初に、次郎がメガネのせいで、「アングルによっては虫みたいな多眼にみえる」と書きましたが、虫が何を考えているのかわからないのと同様に…とまでいうと言いすぎですけど、次郎もかなり考えの読みにくいキャラクターでした。主人公なのに、何を考えているのかよくわからない。

 いきなり一般論になりますけど、「世界をどのようなものとして解釈するか?」については、いろんな解釈可能性がありますよね。信じている宗教とか、イデオロギーとか、個人的な信条によって。

 そして作品内で主人公の考えが説明されると、彼・彼女が「世界をどのように捉えているのか?」「どのような世界が理想であると考えているのか?」という体系が作品内に出来上がっていきます。そして、ときにはその理想と現実、あるいは他者の理想との「衝突」=「対立」が発生する*5

 でも『風立ちぬ』の場合は、次郎が「世界」をどう捉えているのかがわかりにくい。そして価値判断が提示されない「世界」では、対立構図も発生しません。

 このような次郎の「考えの読めなさ」もまた「あえて」の演出であったことは、監督もインタビューで明言しています。

 

「アニメーションだと、主人公にすぐカメラを据える。そいつが何をいうか、どういう感情を持っているか、どういう表現をしようとしているのかをすぐ説明しようとする。そういうことで説明できない男なんだっていう。だから、ほっといたら斜め前からバストショットで本人をつかまえるなんて画面をいっぱい作っちゃうんだけど、途中からそれを減らそうと。こっちを向いてしゃべらない男になってます。横顔とか、後ろ向きとかね。そういう存在なんだっていう。」

「人間の脳味噌のなかなんか、覗けないんですよ。そんなの顔見たってわかりゃしないんです。」

宮崎駿インタビュー『Cut』2013年9月号)


 多くの物語は(すくなくとも、エンタメ畑の多くの物語は)、主人公の感情、内面を説明することで、彼・彼女がどんな世界観をもっているのかを明らかにし、観客の感情移入を誘います。でも『風立ちぬ』では、それをやらない。次郎の声のキャストとして庵野秀明を迎えた理由のひとつにも「なにを考えているのかよくわからないところが良い」というものがあったようです*6*7


◯むすび 「カタマリ」として表現される「世界」

 くり返しになりますが、主人公の考え、「脳味噌のなか」が説明されないということは、作品の「世界」が主人公の価値判断によって体系づけられない、ということです。

 「世界」はあらかじめ「カオスのカタマリ」として存在して、そこにコスモス(秩序)を与えるのが、「世界をどのようなものとして捉えるか」という個人個人の価値判断の作業=「物語化」である…という一般論に照らしていえば、『風立ちぬ』では、次郎からみた「物語」は提示されません。映画のなかの次郎は、か弱い「個」として「カオスのカタマリとしての世界」に放り込まれて、その中で精一杯「生きる」だけです。

 この、「世界」が図式化以前の「カタマリ」として表現されている感覚は作品全体を貫いています。この作品は、とにかく「分けない」。大火事の最中にタバコを吸うような物事の両義性の表現もそうですし、結核を患った菜穂子と次郎は、キスもセックスもします。そして次郎は菜穂子の前でタバコだって吸う。人間サイドからみた身体に良い事も悪い事も、善も悪も、全部が未分類に一緒くたになった「カタマリ」が「世界」である、という感覚。

 (だから、現実問題として病人のまえでタバコを吸う行為がどうかというよりも、あれは「表現」として捉えたほうが面白いと思います。この作品の音声にモノラル録音が採用されたのも、この「カタマリ」感と関係あるんじゃないか、と思ったり。)

 物語を語ることは、ある程度「世界」を図式化(秩序化)して表現することで、作品が複数の立場=「世界」のぶつかり合いという重層性をそなえていたとしても、そこは変わりません。それで宮崎アニメでいえば、『もののけ姫』とか『千と千尋』あたりまでは、作中の「世界」がわりとはっきり図式化できたんですよね。「こっち側とあっち側」とか「自然と文明の対立」とか。

 それが『ハウル』あたりから次第にややこしくなってきて、『ポニョ』では海(=母性)の世界にそれまでの世界が呑み込まれてしまった。これ、物語の型としてこの「次」ってあるの?と思っていたら、こんどは「世界をカタマリとしてそのまま表現する」というところまで行ってしまった。「多眼」で立体的に捉えられた図式化以前の「世界」のカタマリが、ガン!と観客の前に置かれる感じ。

 

                    ◯

 

 もう、ストーリーテリングの手法としてステージが違ってしまっているというか、宮崎監督、最後にスゴいところまで行ってしまったなあ、と思うのですが(こんなに挑戦的な映画が、よく興収120億とか行ったものです。ネームバリューってすごい 笑)。

 この作品を観終えて個人的に残ったのは「前向きな無常観」とでもいうような奇妙な感覚で、「どうせ個人は世界のなかで何もできないのさ」というニヒルな感じには不思議とならないんですね。

 作品では、「菜穂子の死」という形で、「カオスのカタマリとしての世界」の、人間の立場から見た不条理も描かれているんだけど、それが『武器よさらば』のラストのような虚無感に染まらない*8。無力感とか自分のちっぽけさは感じるんだけど、それでもなんかもう、たまたま生まれた時代のなかでそれなりにやっていくしかないよなあ、という「前向きな無常観」。

 この映画で描かれた「善きもの」としても「悪しきもの」としてもあらわれ得るテクノロジーは、もちろん原発などにも読み替え可能ですが、でも、たとえば反原発とか、あるいは原発推進とか、反戦とか、そういう特定の立場から何かを訴えている作品ではない。

 そういうイデオロギーの違いや、諸々の矛盾をすべて抱えこんだ「カタマリとしての世界」のなかでとにかく生きねば、というなんかもう巨大な作品で、これは「物語」の形式でないと表現できないことをやっているなあ、と思います。

 今回観直してあらためて、他からは得られない、何度観ても味わい尽くせない複雑な余韻をあたえてくれる、唯一無二の作品であることを再確認しました。

 

 

*1:このインタビューは、単行本『続・風の帰る場所 ー映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕をひいたのか』にも収録されています。

*2:さらにいえば、宮崎監督はこれらの悪役を「自分に近いキャラ」と認識していたという「ねじれ」があったようです。夏目漱石が『坊ちゃん』で、悪役の「赤シャツ」を「自分に近いキャラ」と捉えていた、というのに近いねじれ方。

*3:この記事は、単行本『続・風の帰る場所』には未収録です。すごく良い内容なので、入れてほしかった。

*4:関連記事→ サリーと鹿目まどか , トム・ヨークと堀越二郎 〜『モンスターズ・インク』感想 

*5:涼宮ハルヒ』のあの巧妙な設定=宇宙人・未来人・超能力者という立場ごとに、涼宮ハルヒという存在への認識・解釈が異なっている感じを思い出してもらっても良いかもしれません。

*6:NHKのドキュメンタリーで、監督がそのような発言をしていた覚えがあるんですが、放送日等のデータを忘れてしまった。すみません。でも、庵野さんの声で発せられる「綺麗だよ」といったストレートな台詞、個人的にはかなりキュンときました。あれ、イケボじゃないから良いんだな、と。

*7:高橋源一郎、『風立ちぬ』を読み解く」より→近代文学のいけないところは、人間には苦しみがあってそれはわかるはずだ、としてしまったことなんです。内面を開けてみせるのが近代文学だから。それを近代文学はやってきたんだけど、外側をみせるアニメが同じことをやったら変だよね。映画で、悩んでいるときは悩んでる顔をするとか、「悩んでるんだ」って声に出して言うとか、そんなのはインチキだってゴダールは言ってる。その通りだと思う。そもそも内面なんてあるかどうかわからないのに、アニメが頼っちゃいけないでしょう。」

*8:風立ちぬ』で重要なのは「愛する人の死」にともなうメロドラマの部分じゃなくて、そういうことが起こりうる「カタマリとしての世界」の理不尽さ、不条理の部分です。だから、療養所に死にに行く菜穂子のラストカットは後ろ姿だし、彼女の死にさいして嘆き悲しむ次郎の姿(=観客を泣かせられる「おいしい」シーン)も描かれない。あと、ヘミングウェイは大好きな作家のひとりで、もちろん「虚無感」も褒め言葉です。