北野映画、「遊び」の意味の変遷 ~『ソナチネ』『菊次郎の夏』感想
8月ももうすぐ終り。「今年もまた夏らしいことができなかった…」というガッカリ感がヤバいので、せめてもの夏のしめくくりにキタノブルーでも!と思いたって、何本かまとめて北野映画を観返すなど。今回はその中から『ソナチネ』と『菊次郎の夏』の感想です。
これらの映画のなかで大人たちが興じる「子供の遊び」が、物語のなかでもつ意味の変化に着目して、北野映画の作風の変遷を追ってみたいとおもいます。
『ソナチネ』『HANA-BI』『菊次郎の夏』のネタバレを含みますので、ご注意ください。
◯3本のロード・ムービー
『ソナチネ』(1993年)はいまでも北野映画の代表作といって良い作品ですが、『HANA-BI』(1998年)と『菊次郎の夏』(1999年)はかなりの程度、この『ソナチネ』を意識して作られた作品だと思われます。
つまり、3作とも俳優としての「ビートたけし」が主演しており、さらにロード・ムービーとしての体裁をもっている。
『ソナチネ』は、人生に疲れた男が孤独に死に向かっていく「片道切符のロード・ムービー」。そして、1994年のあのバイク事故をはさんで制作された『HANA-BI』は、やはり片道のロード・ムービーではありますが、不治の病に冒された妻によりそって、積極的に死に赴く男の姿が描かれました。
(公開当時、北野武は「いままでの映画は死に逃げこんでたけど、今回は死に向かっていった感じがする」というようなコメントを出していました。)
そして、少年(擬似的な息子)とともに、「母をたずねる旅」にでる『菊次郎の夏』で、俳優・ビートたけしは、ついに旅路から生還します。ビートたけしが北野映画のなかで死ななかったのは、出演5作目にして、なんとこれが初めて*1。
その意味で『菊次郎の夏』は、それまでの北野映画につきまとっていた暗い影に落とし前をつけた、初期北野映画の総決算的な映画と位置づけることができます。1人で死に逃げこむ映画から、妻に寄りそって死に向かっていく映画をはさんで、ついに息子とともに生還する映画へ。
◯
ではここからは、おなじロード・ムービーの枠組みを採用しながら、まったく正反対の内容と結末をもつ『ソナチネ』と『菊次郎の夏』を対比させて見ていきます。
◯はみだし者
北野映画には、つねに「社会からのはみだし者」が登場します。とくに初期の作品では執拗に、社会で居場所をなくした人間が追いつめられていく様子を繰り返し描いています。
『ソナチネ』の主人公、村川もそんな1人。ヤクザ稼業に嫌気がさしていたところに組の裏切りにあい、沖縄の片隅にある海辺の家に身を隠すことになります。
美しく人気のない浜辺で、子分たちと花火やフリスビーといった子供のような遊びに興じる毎日。しかしそこにも追っ手の影がちらつきはじめ、やがて仲間が次々と殺されていく。
いっぽう『菊次郎の夏』の主人公、菊次郎はヤクザくずれのチンピラ中年で、妻に働かせて自分は昼間からブラブラしています。表社会どころか、裏社会にも居場所のない男。そんな有り余る時間をもてあます菊次郎が、ひょんななりゆきから、少年が母親を訪ねる旅に渋々付きあうことになります。
◯
映画のなかでともに時間をもてあまし、子供の遊びに夢中になる村川と菊次郎。しかしこの2人には、様々な点で違いがあります。たとえば、性欲。
◯性欲
村川には、奇妙なぐらい性欲がありません。
映画の前半、東京のキャバクラのシーンでも女達にまったく興味を示しませんし、後半、沖縄で出会った女の再三のアプローチにも乗りません。
(村川の前で胸をはだけてみせた女にたいして「平気でおっぱい出しちゃうんだもんな。凄いよな」と乾いた笑いをみせるシーンは印象的です。)
いっぽう、菊次郎は性欲が有り余っています。
「少年との旅費に」と妻から渡された金を懐にストリップ小屋の前で逡巡し、その金を競輪につぎこんで得た儲けで、キャバクラで豪遊。さらに少年が会いにいくという母親が美人と知るやはげしく食いつき、「お前のかあちゃんとおれ、できちゃうかもな。やっちゃったりしてな」とデレデレします。
◯暴力
暴力への態度も、村川と菊次郎には(シリアスとコミカル、という映画のトーンの差を超えて)大きな違いがあります。
最初期の北野映画の特徴として、執拗な暴力描写があげられます。たとえば初監督作品『その男、凶暴につき』(1989年)での有名な尋問シーン。ビートたけし演じる刑事は、相手の俳優の顔が赤く腫上がるまで何度も平手打ちを続けます。それまで観客が見たことのないような、生々しく執拗な暴力。
でも『ソナチネ』の村川は、性欲同様、暴力にももはや執着をみせません。映画の前半、自分をハメた相手を殴るシーンだけは熱くなっていますが、それ以降はいたって事務的というか「殺す必要があるから殺す」という醒めた態度*2。
冷酷というのとも違う、他人や自分の生死がもうどうでもいいといった一種投げやりな態度が目につきます。菊次郎が血気盛んなチンピラとして描かれ、あちこちでケンカを売りまくっているのとは対照的です。
そしてこれら性欲や暴力への態度の差は、村川と菊次郎の「生への執着」の差、ひいては映画全体のベクトルの違い(「生」と「死」どちらに向かうか)と直結しています。
◯勝者と敗者
村川は、大きくはないですが自分の事務所を構えた、裏社会でそれなりに成功した男です。彼はその成功をやっかまれて、謀略に陥れられます*3。
いっぽう菊次郎は、完全に社会的な敗者として描かれます。競輪場のシーンで、転倒した選手が観客の罵声をあびながらコースの外に運びだされる映像がありますが、あれは菊次郎のポジションを表しているのでしょう。競争社会のコースから外れてしまった敗者・はみだし者。
菊次郎は少年のビギナーズ・ラックに助けられて、一時的に賭けに勝利しキャバクラで豪遊しますが、この夜遊びシーンに、競輪の鐘が鳴らされる映像が印象的に重ねられます。競輪の金属的な鐘の音は、勝者と敗者を厳密に峻別するゼロサムゲームを象徴する響き。そのゲームに勝利したものだけが享受できる、大人の遊び。
映画の後半、「天使の鈴」の優しい調べに導かれてあつまった大人たちが夢中になる「子供の遊び」とは対照的です。
◯遊び
村川と菊次郎はそれぞれ旅の途中で、子供のような遊びに興じます。村川は自分の子分と、菊次郎は少年や、やはり昼間からブラブラしているはみだし者たちと。でも、両者が遊びに向かう動機や態度は正反対です。
村川の「遊び」へののめりこみ方には、少年期への退行といった雰囲気がつきまといます。女の子を意識しはじめる前の「男の子の世界」への逃避(これは、彼の極端な性欲のなさとも対応します)。
それに加えて、言動の端々から感じさせる「死ぬまでの暇つぶし」といったニヒルさ。たとえば、あまりに遊んでばかりの村川に業を煮やした子分が、彼を問いただす場面。
「兄貴、なにバカなことやってるんですか」
「やることねーもん」(うすら笑い)
いっぽう菊次郎の「遊び」には、母親のことで傷ついた少年を癒す、というポジティヴな目的があります。母に捨てられた少年に、自身の境遇を重ねる菊次郎。彼は自分の母親を老人ホームまで訪ねていきますが、声をかける勇気が出せずに、結局そのまま帰ってきてしまう。
ふさぎ込む菊次郎に、仲間のひとりが声をかけます。
「一緒に遊びましょ。子供が可哀想ですよ」
「遊ぶよ。うるせえなぁ」(憮然と)
そこから菊次郎は、少年と思い切り遊ぶことを通じて彼の傷を癒し、擬似的な父親の役割を果たすことで、自身も大人としての自覚に(少しだけ)目覚めます。「遊び」に逃げこんだ村川と、「遊び」に向かっていった菊次郎。
そして、社会に居場所のないはみだし者として、ありあまる時間をもつ菊次郎たちだからこそ、「天使」として傷ついた少年にとことん付きあって遊んであげることができた...というあたりについては、以前の記事(「はみだし者」の存在意義 〜 僕らはみんな河合荘 感想 )でも書いたことがありました。
◯名前の獲得
「遊び」を通じて、少年時代へと退行していった村川。
彼は「自分の生死などどうでもいい」という投げやりな態度のまま組の抗争に勝利して生き残りますが、結局は女が自分を待っていることを知りながら自殺します。
いっぽう大人としての責任感から、思い切り「遊び」にのめりこんだ菊次郎は、少年とともに旅のスタート地点である浅草へと無事帰還。そしてラストシーン、少年との別れの場面。
それまで劇中では「あんた」とか「おじちゃん」としか呼ばれていなかった彼は、少年に名前を尋ねられて、照れ笑いを浮かべながら答えます。
「菊次郎だよ、バカ野郎!」
これ、「めりーくりすます、ミスターローレンス!」(アルカイック・スマイル)に匹敵する必殺のセリフ・表情です。このシーン、ビートたけしじゃないと絶対成立しないよな、ずるいよなー…。
映画としては、ここで初めて菊次郎は名前を獲得したわけで、「名前」の獲得や奪還がキャラクターの成長を表す、というのはストーリーテリングの定石。『菊次郎の夏』はタイトル通り、少年よりもむしろ、中年男・菊次郎の「成長物語」でした*4。
◯むすび
同じロード・ムービーでありながら、まったく対照的な内容をもつ『ソナチネ』と『菊次郎の夏』。
じつは、公開当時にリアルタイムで『菊次郎の夏』をみたときは「今ひとつだなあ…やっぱ事故のあと、たけしってセンス鈍くなったよなあ」とか生意気にも思っておりました。
『3-4x10月』や『ソナチネ』といった初期の映画があまりにも好きすぎて、その後の妙にポジティヴな変化が受け入れ難かった。
◯
事故前の作品はすごく虚無感が強いというか、「死」にむかって余分なものをひたすら削ぎ落としていくような、シャープな凄みを湛えていました。
余分な説明の排除(セリフも映像も)、音楽の排除(『3-4x10月』)、カット割りも凝ったカメラアングルもどんどん減らす「引き算」の美学。
そういう「わかる奴だけわかれ」という純度の高さ、研ぎすまされ感がたまらなかったわけですが、その結果『ソナチネ』は(内外の映画人や批評家筋からは非常に評価が高く、カンヌにも招待され、タランティーノのプロデュースで全米公開までされたのに)国内の興行的には大コケ。私の記憶が正しければ、たしか2週間ぐらいで打ち切りになったと思います。
(wikiを信用するなら、制作費5億円で興収が8千万円…。当時『北野ファンクラブ』で「もう日本のお前らなんか相手にしねえよバカ野郎!これからはヨーロッパだ!」と吠えていた北野監督の姿を覚えてます。)
一方、事故から復帰したあとの作品は「足し算」になっていきました。ストーリーは(前ほどは)虚無的ではなくなり、それまでは省いていたような説明的なカットや、アングルの「遊び」も増えてきた。それがなんだか、透明な魅力のあった北野映画にまじってきた「不純物」におもえて、イヤだったわけです。
◯
でも今では、その不純さが「生きていく上で抱え込まなければいけない諸々」を引き受けた結果なのだな、と思うようになりました。
芸人としてのビートたけしは、お笑いについて、矛盾した発言をしています。
「クラス全体がどっと笑うのはギャグとしてはたいしたことなくて、4~5人が本気でゲラゲラ笑うのが高級な笑い」というのと、「芸人なら公民館のおばちゃんたちを笑わせられなきゃいけない」(両方とも大意)。
もちろんどちらも本当のことで、以前の北野映画は前者、事故後は後者のベクトルに移行していったのでしょう。
たとえば『菊次郎の夏』で、菊次郎が車にはねられるギャグシーンがあります。このシーンで、菊次郎にむかって突っ込む車を引きの画で映したあと、はね飛ばされて地面に突っ伏す菊次郎の横顔をアップで捉えたカットがはさまっている。
以前の北野映画なら省略されていたであろう「これはギャグですよ、コミカルなシーンですよ」という説明カットです。「公民館のおばちゃん」が安心して笑える映画。「もうお前らなんか相手にしねえよ!」といいつつ、やっぱり大衆性とのバランスを気にしてしまう。
でも一方で「ここ、もっとあざとく泣かせようと思えばできたのに」というシーンで「そこまではできん!」みたいな照れが垣間見えたりもする。
そういう「照れ」も含めてすごく良いんです、『菊次郎の夏』。いまでは『ソナチネ』と並んで大好きな映画です。
◯おまけ 音楽について
初期の北野映画で長らく音楽を担当していた久石譲。でも正直、久石さんと北野映画はあんまり相性が良くなかったと思います。
リアルで色調の抑制された初期の北野映画の映像とあわせるには、久石譲のメロディやアレンジは「原色」すぎるというか(もちろん、アニメとの相性は最高です。「風のとおり道」が流れない『となりのトトロ』なんて考えられない!)。
それだけに、北野監督が「ストーリーや人物がいままでよりもデフォルメされてる」と語った『菊次郎の夏』だけは、映像と音楽の相性がバッチリでした。デフォルメされてるということは、ちょっとアニメの方向性に近かったんですね。あの有名なテーマ曲がなかったら、映画の印象かなり違っただろうなあ。
テーマ曲の制作にあたって、北野監督は久石譲に「ジョージ・ウィンストンみたいな感じの曲」とオーダーしたそうです。こんなイメージだった?
George Winston, Summer - Living in the Country ...
*1:厳密にいえば『みんな~やってるか!』で演じた「透明人間推進協会博士」(なんだよそれ)は死にませんが、これはごくチョイ役なうえに、「ビートたけし」名義で監督された映画でもあるので、数に入れなくてよいでしょう。そしてこの作品自体が(本人も認めるように)「映画監督としての自殺」だったことも付け加えておきます(個人的にはけっこう好きな映画なんだけど)。バイク事故は、映画完成直後の出来事。
*2:映画の後半で自分をハメた相手を殺すときも、自分では手を下さずに、とどめを子分に任せてしまいます。ハメられた恨みとか仲間の仇とか、そういった感情がまったく感じられない「もうどうでもいい」というなげやりな感じ。
*3:北野映画において、ヤクザはほぼ「芸人」とイコールなのではないかと思います。ビートたけしはエッセイなどで、芸人はまっとうな社会に居場所がない人間がなるものだ、みたいなことをよく書いていますが、そのような人間の居場所、受け皿としての裏社会(=芸能界)。そこで成功をおさめて、はみだし者を集めた組(=たけし軍団)を構えるけれど、やがて周囲の裏切りで居場所を追われ、破滅していく。90年代前半なんて、まだビートたけしが芸人としてテレビ界の頂点に君臨していた時代ですが、そのまっただ中にこんな映画撮ってるんだから相当暗い人です。
*4:とはいえ、そんなに素朴に成長を描いているばかりでもなくて、たとえば少年にたいする責任感が芽生えはじめた直後の場面で、トウモロコシを盗んでせこく売ったりしているのが良い(もちろん窃盗が良いわけじゃなくて、作劇として良い、という意味)。人はそんなにいきなりは変われないですよね。私はなぜか、西洋近代的な「個人」観をベースにしたビルドゥングスロマン(成長物語)がちょっと苦手なので、これぐらいのいい加減なペースがホッとします。