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「はみだし者」の存在意義 〜 僕らはみんな河合荘 感想

 

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※『僕らはみんな河合荘』第6話『もしかして』のネタバレがありますのでご注意ください。

 

 アニメやまんがにでてくる「下宿」や「寮」って、「変人の巣窟」なことが多いですね。とくに、そこが作品のメイン舞台の場合。

 作り手は「おもしろい話」を作ろうとしているわけなので、個性的なキャラをたくさん出しておきたい。そういう事情もあるでしょう。その環境に、比較的常識人の主人公が放り込まれて、変わり者の住人たちに振りまわされる。

 こういう、共同生活の場を舞台にした「下宿もの」(勝手に命名)作品は『めぞん一刻』の昔から安定した人気があります*1。最近のアニメ化作品でいえば、「下宿もの」版『ハチミツとクローバー』といった趣の『さくら荘のペットな彼女』などが記憶に新しくて、『僕らはみんな河合荘』はその最新バージョンです。

 このタイプの作品で、常識人(=ツッコミ役)の主人公は、周囲の人から「ああ、あそこに住んでるんだ…かわいそうに」と同情の眼差しでみられたり、あるいは「あそこに住んでるんだ、じゃあキミも変わり者なんだね」というレッテルを貼られて困惑したりします。

 これはフィクションである作中の社会に、それでも常識と非常識の境界が設定されていることを表していて、常識人と非常識人のあいだに摩擦があることを示唆しています。ここをもう少し掘っていったときに行き当たるのが、社会の価値観から外れた「はみだし者」の存在意義、というテーマ。

 第6話はそのあたりがメインに描かれた回でした。

 

◯河合荘随一の「はみだし者」

 

 河合荘の住人たちは、程度の差こそあれみんな変わり者で、あんまり世の中で上手くやっていけるタイプじゃないんですが、そのなかでもいちばん社会からはみ出した存在に見えるのは、城崎(通称シロ)です。

 収入源の謎なんかもあっていろいろと想像をかきたてるキャラですが、第6話で重要なのは、シロが毎日ブラブラしていることができる身分にある、という点でした。

 冒頭に、財布を届けたシロが警官から不審の眼差しで見られる描写があるのが重要で、やっぱりシロはこの作品内の社会的価値観でみても怪しいよね、はみ出してるよね、という事実が視聴者に再認識される。

 作風的にそこまで露骨に描写はされないんですが、『河合荘』の世界も、はみだし者のシロを笑って許容してくれるユートピアではないんですね。

 いっぽう、この話で登場した小学生の千夏は、ふだんは学校社会にそれなりに順応している子です。そんな彼女が、ちょっとしたきっかけからクラス内で孤立してしまう。彼女が属する社会から弾かれてしまった。

 そんな彼女の孤独な放課後にのんびりと付き合ってあげられるのは、変人ぞろいの河合荘のなかでも、社会からドロップアウトしていて(少なくとも、しているように見えて)、ゆえに時間に縛られないシロだけでした。

 

◯『菊次郎の夏

 

 この話を観ていて思い出したのが、北野武監督『菊次郎の夏』(1999年)です。

 この映画でビートたけし演じる菊次郎が、やっぱり社会からドロップアウトした中年男でした。元ヤクザの、現在無職。表社会からも裏社会からも脱落して、妻に養ってもらっている彼が、ひょんなきっかけから、ある少年が母親を訪ねる旅に付き合うことになる、というロード・ムービーです。

 

 この少年は、自分の家庭環境が周囲の子たちと違う、という悩みを抱えています。社会で推奨されている「型」からはみ出してしまった、という疎外感。そんな彼の旅にのんびり付き合ってあげられるのは、社会からはみ出して、昼間からブラブラしている菊次郎だった、という物語。

 そして映画の後半、心に傷を負った少年に留保なしに寄り添ってあげるのは、やっぱり旅の途中で出会った「はみだし者」たちです。

 彼らは定職につかないで、ふらふらとあてもなくバイクでツーリングしたりしている人たちで、社会的にみれば無用の存在に見えます。でもそんな彼らだからこそ、傷を負った少年にとことんつきあって、一緒に遊んであげることができる。

 どうして芸人・ビートたけしが、はみ出し者集団としての「たけし軍団」を作ったのかとか、そういうところにも通じそうな内容。その人が役に立つか、社会に貢献しているかなんて、カタギの仕事をしているかどうかとか、そういう一つの物差しじゃ計れない。

 はみ出してたっていいじゃん。家族の形が世間と違ったっていいじゃん、というオルタナを祝福する物語。

 

◯「ムダ」がムダじゃないピタゴラ装置

 

 ピタゴラ装置は、本来なら簡単にできることを、わざわざムダなプロセスを経て実現させる装置です。役に立たない、その「ムダ」を、プロセスごと楽しむ装置。それを、社会的にはムダな存在?に見えるシロと、一時的に彼女の属する社会から弾かれた千夏が一緒に作る。楽しい。

 千夏がシロを評した言葉。「社会のはみ出しものでも楽しく生きてて、見てて楽になる」。

 千夏は、本来は普通の社会でそれなりに上手くやっていけそうなタイプに見えます。そんな彼女が、シロの代表する、「効率」や、即物的に「役に立つ・立たない」という価値観では計れないものに満ちた世界でちょっとの間遊んで、元気になって、また元の社会に戻っていく。

 ちょっとぐらいはみだした人にも居場所がある、色々なタイプの人たちが共存できる、そういう多様性を許容できるバッファがあったほうが社会にとってもいいよね、というエピソード。河合荘とシロが、はみ出し、傷ついた千夏の一時的なシェルターとして機能したように。

 

◯「こうありたい自分」でいられる共同体

 

 クラス単位でハブられてしまった千夏が、あまりにも簡単に友達と仲直りしている、というツッコミは考えられます。

 たとえば、これが『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2期たのしみ!)だったら、そんなに簡単に関係修復はできなかったと思うんですね。実際『俺ガイル』には小学生たちの人間関係を扱った、そのようなエピソードもありました。でも、そのあたりは扱っているテーマの違いだと思います。

 一本のストーリーの中で何を描くか?という取捨選択のなかで、『俺ガイル』は人間関係の難しさ、シビアさを、『河合荘』ははみだし者の存在意義、というテーマを採った。スポットを千夏にあてるか、シロにあてるかという選択です。そして、住子さんのシロへのフォロー。そんなはみだし者のシロを受け入れてくれる場所としての河合荘。

 もちろんタイトル『僕らはみんな河合荘』の通り、つきつめていったら私たちはみんな多かれ少なかれ可哀想、弱っちかったりヘンだったりする存在なんだし、世の中にちょっとぐらいは、お互いそれを認め合える場所があったほうがいいんじゃない?という感覚がこの作品には流れています。

 『河合荘』とおなじ原作者(宮原るり)による『恋愛ラボ』では、主人公の二人、リコとマキが「自分らしさ」を抑圧したキャラで、世間から求められるイメージ(乙女キャラ、王子様キャラ)と「本来こうありたい自分」とのギャップに戸惑っている。そんな彼女たちが自分を解放できる共同体が「恋愛ラボ」、という位置づけでした。

 「ありたい自分」でいられる共同体は、アニメによって「下宿」「部活」「生徒会」「(スクール)アイドル」「バイト先」など様々な形をとりますが、第6話は河合荘のそういった側面もはっきりと描かれていて、染みるエピソードでした。

 ヒロインの律(超めんどくさかわいい!)がわざわざ皆のいる広間で本を読んでいて、そんな彼女をかまうでも無視するでもなく、皆が自然にふるまってくれる河合荘のあの感じ。うらやましい。

 

◯おまけ

 

 夏も近づいてきたことなので、菊次郎の夏』テーマ曲『Summer』。

 映画公開当時は、『3-4x10月』や『ソナチネ』の頃のようなシャープさが後退していたことが不満で「たけしも鈍ったなあ」なんてナマいってました。すみません。いまでは毎夏泣きながら観てます。

 正直にいうと、北野映画久石譲の音楽って相性がいまひとつだったと思うんですが、この映画に関しては別。この曲のおかげで、映画の叙情性が何段階もアップしていたと思います。映像が音楽に助けられているシーンもあったり。

 トヨタ・カローラのCMに使われたことでもおなじみ、と書きかけて気づいたけど、あのCMってもう10年以上前なのか。恐ろしい…

 


【高音質】久石譲 - Summer - YouTube

 

 

 

 

*1:さらにルーツを遡ることもできるだろうけど、残念ながらそこまでの知識がない。すみません。まんが・アニメにこだわらなければ、テレビ・ラジオドラマとか、落語の長屋ものあたりまで遡れるんでしょうか?