ねざめ堂

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「スクールアイドル・プロジェクト 第0話」としての『ラブライブ!The School Idol Movie』

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 公開時に観逃していた劇場版*1をようやくフォローできたので感想です。

 「神モブ」(通称)のテレビ版からのキャラ変更を起点に、あれこれ考えたことなど(ネタバレ注意)。

 

◯テレビ版とのコンセプトの違い

 観終えてまず思ったのは、テレビ版と今回の劇場版では、ストーリーにこそ連続性があるものの、コンセプトはかなり違うんだなーということだった。

 テレビ版が「μ’sというスクールアイドルグループについての物語」を追っていたのに対して、劇場版は、これから拡大展開されていく「 ”スクールアイドル・プロジェクト” の序章」としての比重が大きかったような印象を受けたのだ。

 折しも先日、「スクールアイドル・プロジェクト」の第2弾として「Aqours」を主役に据えた『ラブライブ!サンシャイン!!』( Official Web Site)のアニメ化が発表された。

 そのようにこれから「世代交代制」を採用しつつ続いていく「スクールアイドル・プロジェクト」の礎となる「ラブライブ!」というシステム(スクールアイドルの祭典)を、解散するμ’sが後進アイドルたちへの「置き土産」として拡張整備する物語。それが今回の劇場版だったように思う。

・「μ’sの物語」を描いたテレビ版

・「ラブライブ!システム」の拡張整備に力点が置かれた劇場版

 というコンセプトの違い。

 

◯「神モブ」のキャラ変更

 そのような、テレビ版から劇場版へのコンセプトの変化の影響を被って、事実上のキャラ変更を余儀なくされたのが「神モブ」だ。

 

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(テレビ版より 左:1期3話 右:2期12話)

 
 彼女たちにはセリフも「ヒデコ・フミコ・ミカ」というキャラクター名もあるので実際には「モブ」ではないけれど、これはまあ愛称(とはいえ「ヒ・フ・ミ」って「モブ①・②・③」みたいなネーミング…)。

 「神モブ」はテレビ版において「ファン代表」的なポジションで、μ’sのアイドルとしての成長をその黎明期から見守り、励まし、ときには叱り、的確にサポートしていた存在。そのあまりにも「よく出来たファン」っぷりから「神モブ」の愛称で親しまれていた…のだが。

 劇場版での彼女たちの言動は、テレビ版とはずいぶん様子が違う。

 

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 「次のライブ?絶対ない!」という穂乃果をイスに縛り付け、口にはガムテープを貼り付けてライブの開催を迫る「神モブ」。ここでは、μ’sに寄せるファンとしての期待が、暴力的な「依存」にまで高まっていて、ほとんどアイドル版『ミザリー』である。こ、こんな子たちだったっけ?

 この文章を書いている時点で、ウィキペディアの『ラブライブ!』のページには「ヒデコ・フミコ・ミカ」の3人は「テレビアニメ版のみに登場」という記述がある(いずれ修正される可能性あり)。

 実際には彼女たちは劇場版にも登場しているんだけど、でも思わずそう書いちゃった気持ちもわかる。それほどまでに、劇場版の3人はテレビ版とは「別キャラ」なのだ。

 

◯劇場版での「輝きのカタチ」の限定

 「μ’sの物語」、つまり「μ’sというスクールアイドルグループの成長と輝きを見守る」というコンセプトでストーリーを組み立てていたテレビ版では、μ’sを裏方としてサポートする行為もまた、「輝き」のひとつの形として成立していた。

 だからファン代表である「神モブ」のサポートの数々(雪かきで道を作ったり、衣装を届けたり)も尊いものとして描かれていた。表舞台に立つ人間と、それを裏方として支える人間。「輝き」には様々なカタチがあり得る。「チューバは影で支えるのが仕事なのだよ、塚本君!」

 しかし、劇場版は「ファンとしてアイドルに ”期待する” ばかりではなくて、自らもアイドルに ”なる”」ことを「輝き」追求の手段として強く打ち出し、ファンたちがスクールアイドル活動にチャレンジすることのできる「ラブライブ!システム」の拡張整備を目指すμ’sの姿を描いた。

 劇中で、ファンの「期待」がときに「依存」や「暴力」にも変わり得ることを描き出したあとに、「人に期待を背負わせるのではなくて、自分で行動を起こしてみては?」という、それ自体はとてもまっとうなオファーをしているんだけど、その「行動」が「ファンからアイドルへのクラスチェンジ」という非常に限定的な形で表現されているのだ。

 これはやっぱり、「スクールアイドル・プロジェクト」の今後の展開から逆算した結果「ファンからアイドルへのクラスチェンジ」を肯定的に描く、というストーリーが導き出されたのかなー?と思うんだけど、こうした展開のなかで「神モブ」がいつも通り「よく出来たファン / 裏方」としてサポート役に徹していると、ストーリーに混乱が生じる。

 以上のような理由から、「神モブ」が「キャラ変更」の要請を受けたのではないか。ファンとしてμ’sをサポートする存在から、過大なプレッシャーをかけて追いつめる存在へ。

 

◯ファンの消失と、出現する「スクールアイドルのセカイ」

 そしてクライマックスのラストライブでは、ファン代表だった「神モブ」もついにアイドルにクラスチェンジし、世界は輝けるスクールアイドルたちで埋め尽くされる。

 

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 美しいシーンなんだけど、ここでは、ファン(観客)の存在は(ほぼ)消失している。テレビ版のライブシーンでは、男性を含むファンの姿が描写されていたことを思うと、やはりテレビ版と劇場版とのコンセプトの違いに思い至らざるを得ない*2

 「神モブ」の存在を通して「アイドルを裏方として支えること」も「輝き」のひとつの形として描いていたテレビ版とは違い、「輝き」の獲得方法を「ファンからアイドルへのクラスチェンジ」という一点に集約して表現した劇場版では、アイドルを応援するファンの姿は混乱の元なのだ。

 そして、ファンも運営スタッフの姿も消失した「スクールアイドルのセカイ」が出現する。

 このような「輝きの獲得=アイドルになること」という「セカイ」にあって、かろうじて描かれる「非=アイドル」的存在、たとえばμ’sメンバーの母親たちや、穂乃果の両親の立場は危うい。

 もちろん「スクールアイドル」は「自分で行動を起こすこと」のメタファーで、穂乃果の両親がラストライブの会場におらず、「あえて」自分の家の前で踊っているのは「輝きはアイドル限定のものではない」ことの表現になっている…という見方は可能だ*3

 ただ、劇場版で描かれたストーリーは、そうした「輝き」の多様さ、外側への広がりを促すものではなくて、むしろ「スクールアイドルのセカイ」の内側へと集束させていくベクトルを強く持つものだった。そして、そのようなストーリーにあって、「ファン」さながらにサイリウムを持って踊る穂乃果の父親の存在を支える基盤は、ひどく脆いものに見える。

 大勢のスクールアイドル達が踊る姿は壮観なのだけれど、同時に「非=アイドルの立場の危うさ」が浮上してきてしまう、というジレンマをこのライブシーンに感じてしまうのだ。

 

◯密室性の解除

 このラストライブだけで判断してしまうと、劇場版はスクールアイドル以外の存在を排除した「セカイ」に退行して終幕している、という印象も受けてしまいかねないんだけど、そうした密室性を解除するのに役立っていたのが、前半で描かれたニューヨーク旅行のパート。

 仲間からはぐれた穂乃果が「未来の穂乃果」*4のような女性シンガーと出会うシーンは、穂乃果がスクールアイドルという「期限付きの輝き」のなかで自分の欲望の対象(歌)を発見し、一人になっても歌い続けるであろうことを示唆していた*5

 この女性シンガー(≒ 未来の穂乃果)が、異国の地の街角で、まばらな観客を前にマイク1本で歌っているという「下積み感」が良くて、ここで作品に、クライマックスで出現した「スクールアイドルのセカイ」の外側の「世界」が導入されている。

 スクールアイドルとして輝いた少女たちは、そこで得たものを抱いて、いずれは外の世界に出ていく…という「未来軸」が作品の前半部分に挿入されているわけで、これは上手い操作だなーと感心してしまった。

 作品トータルのバランスとしては、密室性を(ギリギリ)回避しつつ、ラストは最も濃厚な、ノイズの除去された「スクールアイドルのセカイ」を提示して締めくくるための操作。

 

◯「ラブライブ!システム」の拡張整備

 劇場版でのμ’sを中心にしたスクールアイドルたちの活躍によって、「ラブライブ!」は「アキバドーム」で開催されるほどの大規模な大会に成長した、ということが告げられるラスト。

 ここで拡張整備された「ラブライブ!システム」をベースにして、「普通の少女がスクールアイドルとして輝く」という物語がこれから代々紡がれていくわけで(作品の内側でも、外側の「スクールアイドル・プロジェクト」でも)、ここに至ってμ’sは「ラブライブ!システムの母」みたいな存在になっている。

 『魔法少女まどか☆マギカ』は、主人公が、世界中の魔法少女たちが絶望せずに活躍することのできるシステムを整備する、という物語だったけど*6、劇場版『ラブライブ!』もまた、システムの拡張整備の物語だった。

 それでラストでは、「ラブライブ!システムの母」としてのμ’sの存在が、後続のスクールアイドルたちによって、ほとんど神話的に継承されていく様子が描かれる。

 

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 逆光を活かした厳かな雰囲気。μ’sは「ラブライブ!」という概念になったのだ…。

 もともと「ミューズ」はギリシャ神話に登場する女神たちなので(μ’sと同じく9人)、この「まど神エンド」ならぬ「ミューズ神エンド」には妙に納得。

 

◯ふたつの決断

 ドームで開催されるほどの大規模な大会になった「ラブライブ!」が、どのようなシステムで、どのような人々によって運営されているのか、という部分は作中では描かれない(ここでシステムの話に突っ込んでいくと「キュゥべえ問題」が浮上してきたりもするんだけど、そんなことをやっていたら別アニメになってしまう)。

 ただ、アマチュアリズム寄りの「ラブライブ!」サイドでは描かれなかった「運営」というか、アイドルのバックにいる人々の存在について、プロになる決意を固めたA-RISEサイドではちらりと言及があった点は「行き届いてる」感があった。

 

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「私たちをこれからマネージメントしてくれるチームよ」
「マネージメント…」


 A-RISEはμ’sとは対照的に、プロとしてグループの継続を決意する。

 プロの世界で「選ばれた人間のみがなれる、皆のあこがれとしての輝き」を目指すべく活動の継続を選んだA-RISEと、スクールアイドルというアマチュアリズム寄りの「誰もがチャレンジできる、期間つきの輝き」のためにシステムを整備して解散していくμ’s、ふたつの決断を描いたラスト。

 

 ◯むすび

 …という感じで、劇中にふんだんに盛り込まれたライブやミュージカルシーンによって、ビジュアル的にはしっかりとμ’sメンバーをフィーチャーしながらも、ストーリー的には「μ’sの物語の最終章」というよりは「ラブライブ!システムの確立=スクールアイドル・プロジェクトの序章」として楽しめた劇場版だった。

 

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 ラストにドーン!と映し出されるロゴ。これから続いていく予定の「スクールアイドル・プロジェクト 第0話」というか。

 そもそもは学校システムを存続させる、という目的で結成されたμ’sでの活動を通して、メンバーそれぞれが自分の欲望を確認していくテレビ版。そして、後進のスクールアイドルたちも自分なりの輝きを掴めるように「ラブライブ!システム」を整備して去っていく劇場版。キレイな着地点だったと思う。

 最後に。のぞえりが尊いと思います!

 

*1:アニメと映画は別物のメディアだ、というこだわりから、なるべく「劇場版」という言葉を使うようにしています。『映画けいおん!』や『映画ハイ☆スピード!』も、自分のなかでは「劇場版」です。めんどくさい奴ですね。

*2:ラブライブ!』劇場版での「観客の消失」については、テレビ版との差異をとくに重視したいです。テレビ版では描かれていたものが、劇場版では描かれないことから生じる「欠性的な抵抗感」から何が見えてくるか。

*3:まだスクールアイドルではない穂乃果の妹たちが、ライブへの参加を他のスクールアイドルたちから歓迎されるシーンも「輝きの広がり」を表現したものだった、とは思います。だた、そのような細かいシーンや、家の前で踊る穂乃果の両親のような映像での「広がり」の表現が、全体のストーリーと噛み合っていない印象を受けました。

*4:彼女が本当にSF的に「未来の穂乃果」なのかどうかはぼかされているけれど、役割としてはそのような未来的存在だったと思います。他人であれば知り得ないはずの幼いころの穂乃果のエピソードを知っている、みたいなセリフもありました(「いつだって飛べる。あの頃のように」)。

*5:ここは、1期後半のストーリーの反転になっていました。1期では、廃校が回避されたことで当初の目的を見失ったμ’sが穂乃果脱退の危機に瀕しますが、穂乃果は「歌や踊りが好き」という自分の欲望を確認した結果グループに復帰します。それに対して劇場版の穂乃果は、μ’sが解散しても歌が好きだから一人でも歌う、という反転。

*6:より正確には、キュゥべえの作った「魔法少女を搾取するシステム」を、人間的なものとして上書きするという「システムの再定義」の話で、その意味ではピクサーの『モンスターズ・インク』と同系列の作品でした。→ 関連記事 『モンスターズ・インク』 ~システム再定義の物語