『リーサル・ウェポン』感想:1987年 のベトナム戦争映画
先日、子供のころ大好きだった『リーサル・ウェポン』をウン十年ぶりに観る機会がありました。
すごく楽しめたし、昔はわからなかったストーリー構成上のポイントなどにも気づけたので、そのあたりをメモ的に書き留めておきます。ネタバレ注意です。
〇1980年代のベトナム戦争映画ブーム
『リーサル・ウェポン』は、ベトナム戦争の後遺症を描いた映画です。
主人公コンビのリッグス、マータフ刑事をはじめとして、悪玉も全員ベトナム帰り。
ベトナム戦争に端を発する麻薬シンジケートが80年代のロサンゼルスで暗躍し、それをベトナム帰りの刑事コンビが叩き潰さんとする・・・
という、元ベトナム従軍組の内紛(同窓会?)の物語なんですよね。
この映画が公開された1987年のアメリカは、空前のベトナム戦争映画ブーム。
前年の『プラトーン』の大ヒットに続くように、あの戦争を題材にとった映画がつぎつぎと公開されていました。
87年公開のベトナム戦争映画を思いつくままに挙げてみると、
- 『フルメタル・ジャケット』
- 『グッドモーニング、ベトナム』
- 『ハンバーガー・ヒル』
- 『ディア・アメリカ 戦場からの手紙』
と、まだあるでしょうけど、『リーサル・ウェポン』も、このブームに片足首ぐらいを突っこんだ映画だ、ということは言えるとおもいます。
〇3つの軸
そんなふうにベトナム帰りのキャラクターが大勢登場する本作において、ドラマ上の軸になっているのはこの3人です。
- マータフ(ダニー・グローヴァー)
- リッグス(メル・ギブソン)
- ジョシュア(ゲイリー・ビジー)
主役のふたりはともかくとして、ジョシュアって誰だっけ? という方へ。ラストでリッグスと肉弾戦を繰りひろげたこの男です。
麻薬組織のトップ「将軍」に絶対的な忠誠を誓う殺人マシーン。
真っ白な肌と髪が印象的で、『リーサル・ウェポン』のノベライズ版では「白子(アルビノ)」と書かれていたキャラクターです。
黒人であるマータフの黒い肌・髪とは、ビジュアル的に正反対ですね。
『リーサル・ウェポン』は、この「ジョシュア=白」と「マータフ=黒」とのあいだで、「リッグス=中間色」が揺れ動く姿を描いたドラマです。
上に挙げた動画をみても、リッグスを演じるメル・ギブソンは、白人としては肌の色が濃いほうなので、ビジーとグローヴァーに挟まれると、両者の「中間」なのがわかりますね。
この中間的な肌の色は、リッグスの物語上の不安定なポジションを反映しています。
どういうことか。もうちょっと突っこんで見てみましょう。
〇ふたつの居場所(家庭と軍隊)
『リーサル・ウェポン』における「黒」=マータフは、ベトナムからの帰還後、自分自身の居場所・・・温かい「家庭」を築くことに成功したキャラクターです。
いっぽう、「白」=ジョシュアは、ベトナム戦争が終わってからも、「軍隊」に居場所を定めたキャラクター。
この両者、マータフ=黒と、ジョシュア=白は本作のストーリー上、対の存在として造形されたキャラクターです。
ふたりの対照関係がよく表れているのが、小さな「炎」を用いたふたつのシーン。
- マータフは、ケーキに立てた蝋燭の炎で家族から誕生日を祝われる
- ジョシュアは忠誠を示すため、ライターの炎で将軍に腕を焼かれる
まったく対照的な「炎」の使い方ですが、このふたつはともに、組織(家庭 / 軍隊)の成員の結びつきの強さを表現したシーンになっています。
戦争のあと、家庭という自分の居場所を自らの手で築きあげたマータフは、家族から炎で祝福を受ける。
それにたいして、戦後も軍隊に居残ることを選んだジョシュアは、上官から炎で焼かれる、という対照関係ですね。
ところで、おなじ組織でも、家庭は「共同体」、軍隊は「機能体」なんていう具合に区別して呼ばれることがあります。
両者の違いをざっくり説明すると、共同体(家庭、地域社会etc.)の役割は、構成員の居場所となること。
いっぽう、機能体(軍隊、会社etc.)の役割は、特定の目的を達成すること。
よく、昭和の日本の会社組織は、本来機能体であるにもかかわらず、家庭のように共同体化する傾向が強かった、なんていわれます(良くも悪くも)。
こう考えると、ジョシュアって昭和のサラリーマンのお父さんみたいなキャラクターなんですね。
軍隊という居場所に過剰適応した結果、戦後も自分の居場所(共同体)を自分で作ることを放棄して、本来は機能体である軍隊に居ついてしまった男。
(彼の軍隊への過剰適応っぷり、強烈な帰属意識は、上官=将軍への盲目的な忠誠心という形で表現されます。)
そういう意味では、ジョシュアのなかでは戦争は終わっていない。
たまの日曜日、家に居場所がなくて、パチンコに行くしかないお父さん・・・みたいな哀愁を感じなくもないです。
〇シーソーゲーム
それで、さきほども触れたように、マーティン・リッグスは、ジョシュアとマータフとのあいだで揺れ動くキャラクターです。
- 結婚して家庭を築こうとした過去がある、という意味ではマータフ寄り
- 軍隊において、優秀な「兵器(ウェポン)」として活躍した過去がある、という意味ではジョシュア寄り
マータフ側とジョシュア側、どちらのサイドに転んでもおかしくない「中間」のキャラクターがリッグス、という配置になっている。
家庭を築くことに失敗した殺人兵器。
このような三者のシーソー的な関係性が、キャストの肌の色で視覚的に表現されているのが『リーサル・ウェポン』の面白いところです。
じつは映画の企画段階ではマータフを黒人にするというアイデアはなく、キャスティング・ディレクターの提案によってダニー・グローヴァーが起用された、とのこと。
本作のキャスティングはマリオン・ドハティという伝説的な人が担当しているそうですが、彼女が脚本を読み込んで「マータフが黒人のほうがジョシュアとの対照が際立つじゃん!」と判断したのかもしれません。
(というのは私の想像にすぎませんが、そうだとしたら流石ですね。)
〇むすび
そんな感じで、リッグスが「黒」と「白」のどちらに転ぶのか・・・というドラマを水面下で描いていた『リーサル・ウェポン』。
ラストのリッグスvs.ジョシュアの戦いは、リッグスが、自分自身の影と決着をつけるための戦いでもありました。
(いうまでもなく、ジョシュアは「もしもリッグスが闇堕ちしたら」という「if」的キャラクターでもあります。ルーク・スカイウォーカーにとってのダース・ヴェイダーですね。)
最後の最後にリッグスとマータフが協力してジョシュアを葬る・・・というシーンも、リッグスの天秤がマータフ側に傾き、シーソーゲームに決着がついた、という表現になっていました。
逆にいえば、リッグスが「自身の影」としてのジョシュアを葬るためには、一度彼の天秤がジョシュア側にぐっと傾く必要もあったのでしょう。
(マータフの娘が誘拐された際、リッグスが犯人一味を「殺しまくる」と静かにブチ切れるシーンがそれですね。殺人兵器としての本性むき出し。)
ベトナムからの帰還後、家庭=自らの居場所を築こうとしたけれど、それが果たせずに宙ぶらりんだったリッグス。
自身の影であるジョシュアを葬ったとき、ようやくリッグスにとってのベトナム戦争が終わった、といえるのかもしれません。これもまた、1987年のベトナム戦争映画。
この後、リッグスにとっての居場所=家庭は、シリーズを通してアメーバ状に拡大していきます。
(シリーズ最終作にあたる『4』のラストカットでは、リッグスやマータフの妻子、友人、同僚たちが、ひとつの「家族」として写真に納まっています。)
アメリカ映画における「家庭」の存在の重要性はよく指摘されるところですが、このシリーズ、「家」が攻撃・破壊の対象になる描写がほんっとに多いんですよね。
マータフの家は毎回お約束のように破壊されるし、『3』では逆に、悪党の建設する建売住宅を、リッグスたちが「お前らなんかに神聖な "家" を建てさせてたまるか」とばかりに焼き払う。
アメリカ人の「家庭」にたいするオブセッションを反映したシリーズとして観るのも面白いです。