『ドリーマーズ』感想(改訂版):アイム・セット・フリー
数年前にアップした、ベルナルド・ベルトルッチ監督『ドリーマーズ』(2003年)感想記事の改訂版です。元記事の文意は変えないままに、読み辛いと感じたところに手を入れました。
本文中では『ドリーマーズ』にくわえて、ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』のネタバレをしています。
The Dreamers (2003) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]
◯『恐るべき子供たち』との違い
原作はギルバート・アデアによる小説で、映画版の脚本も原作者自身が執筆しています。
私はこの原作小説を読んでいないのですが、でも『ドリーマーズ』のストーリーの下敷きになっているのは、あきらかにジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』ですよね。
社会と接点のない閉鎖環境下で、近親相姦的な関係にある姉弟が繰り広げるゲームに、部外者である主人公が巻き込まれていく…という筋立てはほぼ同じ。
でも『恐るべき子供たち』と『ドリーマーズ』は、筋立てが似通っているからこそ、結末、そして、それを通して提示されるテーマの違いが際だつ…という関係にあります。
◯ストーリー
『恐るべき子供たち』で描かれるのは、「あらかじめ定められた破滅の受容」という古典悲劇的な結末です。
俗世間と相容れない純粋な野蛮さを備えた姉弟は、自分たちの関係に割り込んできた主人公=部外者を最終的には拒絶し、閉鎖環境のなかで自らの純粋さに殉じる(自殺)、という結末をむかえます。
この作品において、低俗な社会と純粋な姉弟(とくに姉のほう)は、きっぱりとした対立関係にあるんですね。近代的な自我を持った個 vs. 社会という二項対立が物語の主軸になっており、両者の相容れなさ、この姉弟が社会のなかで生きられないという結末は、動かし難い運命的なものであるように見えます。
『ドリーマーズ』の姉弟もまた、両親のいないアパートという閉鎖環境のもと、主人公=部外者を巻き込んだゲーム(映画・酒・セックスに満ちた)に興じます。いっぽうアパートの外では、学生デモ隊と警官隊が衝突を繰り返す政治の季節、五月革命が始まっている。
姉弟はゲームに興じるいっぽうで、熱く政治を語り、体制を痛烈に罵倒します。でも彼らにとっては、デモも政治も、すべてが自分たちのゲーム、ごっこ遊びの延長にすぎない。
主人公は、姉弟の「外部」のなさを批判します。でも姉のイザベルに恋している彼は、惚れた弱みで姉弟のゲームの磁場にずるずると引きずり込まれ、しだいに外部としての批判力を失っていく。
高級ワインのボトルを片手にベトナムや近衛兵についての議論を繰り広げながら、彼らの目には自分たちの顔しか映っていません。アパートのいたるところに配置されている鏡は、そのような彼らのナルシシズムの反映。
外の世界との接点を失った部屋は、やがて空気が澱み、ゴミにまみれ、食料は腐っていく。金も尽きる。クローズド・サーキットの行き詰まりです。イザベルは、残りの二人を巻き込んでガスでの無理心中を図りますが、そこにデモ隊の投げた石が、窓ガラスを割って飛び込んでくる。「街が部屋へ!」と叫ぶイザベル。
「暴力は解決にならない」という主人公の言葉を無視し、姉弟は火炎瓶を手に、デモ隊の人波へと消えていきます。最後まで社会を拒絶し息絶えた『恐るべき子供たち』の姉弟と『ドリーマーズ』の姉弟の物語は、ここではっきりと袂を分かち、イザベルたちは閉鎖環境の外側の社会へと飛び出していった...みたいにも見える。
でも、映画のラストカット、火炎瓶や催涙弾の煙がたちこめる見通しの悪い画面からは「自己愛に満ちた閉鎖環境からの脱出」というような開放感は感じられません。
◯アイム・セット・フリー
数年前にブライアン・イーノのインタビューを読んだとき、私はこの『ドリーマーズ』のラストシーンを連想しました。
インタビューでは、イーノが自身のアルバム『The Ship』でカヴァーしたザ・ヴェルベット・アンダーグラウンド『アイム・セット・フリー』の歌詞について、こんな解釈を披露しています。*1*2
六十年代後期に書かれたルー・リードの『アイム・セット・フリー』は、書かれた当時以上に現在の方がより意義を持つように思える曲だ。ユヴァル・ノア・ハラリが書いた本『サピエンス全史』*3を読んだことのある者なら誰しも、”新たな幻想を見つけるために私は自由になる ( I’m set free to find a new illusion )” というあの曲の持つ物静かな皮肉に思い当たるのではないかと思う…そしてそこにある、自らのストーリーから抜け出したからといって我々は何も<真実>ーーそれがどんな真実であれーーに足を踏み入れるのではなく、また別のストーリーに入っていくものなのだ、との言外の含みも理解することだろう。
あるひとつのストーリー/幻想から抜け出したからといって、人間はなにも真実に接近するわけではなくて、また別のストーリー/幻想に入っていくだけ。
『ドリーマーズ』の姉弟は、こうした人間の性を体現しているように私には見えました。
ふたりは狭いアパートの部屋から飛び出して、実社会のなかにある真実に接近したわけではなくて、あるストーリー/幻想(閉鎖環境下での近親相姦ゲーム)から、別のストーリー/幻想(路上を舞台に展開される政治運動)へと回収されていったにすぎない。
そしてそれは、路上で闘争を繰り広げていた学生や警官たちも同じことで、それが人間というものであることだよ…みたいなラスト(人類はみな「ドリーマーズ」)。これはあくまでひとつの例えですが、人間の政治体制が、権威主義という幻想から民主主義という幻想へと歴史的に移行してきた…みたいな感じでしょうか。
最近は後者の幻想も深刻な機能不全を起こしていますが、それはともかく、このラストでは『恐るべき子供たち』にみられたような「社会 vs. 個人」とか「内側と外側」という素朴な二項対立は姿を消しています。
◯むすび
そもそもベルトルッチは「幻想が幻想として機能しなくなる」というシチュエーションをくり返し描いた監督でした。
『暗殺の森』における少年期のトラウマとファシズム、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』におけるアパート、『ラストエンペラー』における満州国皇帝の座、『シェルタリング・スカイ』における夫婦にとっての砂漠、等々。
ベルトルッチの映画の主人公たちは、それまで拠り所にしていた(囚われていた)幻想の崩壊を経験する。そして大抵、主人公たちが真空状態に放り出されたところで映画が終わるんですね。
それが『ドリーマーズ』では、「ひとつの幻想が行き詰まり、やがて次の幻想に回収される」という境地を描くに至っている。それが良いとか悪いとかではなくて、ただ「そういうものだ」という淡々とした描き方で、ベルトルッチのフィルモグラフィーのなかでも、とりわけ好きな一本です。
The Velvet Underground / I'm Set Free
Brian Eno • ‘Fickle Sun (iii) I’m Set Free’
*1:『The Ship』(BEATINK.COM / The Ship)のリリースにあわせて、発売元のBEATINKのページに掲載されていたインタビュー記事からの引用なのですが、元記事はすでに削除されてしまったようです。残念。
*2:インタビューのなかで、イーノは「真実」にたどり着けないことをシニカルに捉えているわけではなくて、大事なのはよりマシな「筋書き」を見つけることだ…と話しているので、その点には留意が必要です。