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『3月のライオン』(アニメ版)感想②:桐山零の見習い時代

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 10月から第2シリーズの放映がスタートした『3月のライオン』(公式サイト)。このアニメについては、以前当ブログで第1シリーズ前半分(第1話~第11話)の感想を書いたんですが、 

『3月のライオン』(アニメ版)感想①:「競争」と「共同体」のバランスゲーム
 

 この内容を前提としたうえで、今回は、第1シリーズ後半分(第12話~第22話)の感想です。

 ほんとはこの記事は、第2シリーズの放映が始まる前にアップしておきたかったんだけど、ぼやぼやしているうちにタイミングを逃してしまいました。まったくグズな野郎ですね。

 今回も「感想①」同様、筆者は原作マンガは未読での、アニメ版のみについての感想になってます。ネタバレありです。

 


◯作品のテーマについて

 『3月のライオン』という作品が、全体として「 “競争原理” と “共同体” のあいだで繰り広げられるバランスゲーム」を扱っているよ…ということについては、上にリンクをあげた「感想①」でしつこく書いたので、そちらを参照してください。

 この「競争と共同体」というテーマ自体は古くから繰り返し語られてきたものですが*1、00年代を過ぎて、新自由主義の弊害が一般でも取り沙汰されはじめて以降は、ますますさまざまなエンタメ作品で取りあげられるようになっています。

 「感想①」では『カーズ』『リトル・ミス・サンシャイン』といったアメリカ映画や、『Free!』『響け!ユーフォニアム』などの日本のテレビアニメーションの例をひいたうえで、『3月のライオン』も同様のテーマを扱っているよ…みたいなことを書きました。

 本作の主人公・桐山零のなかでは、ふたつの世界…「競争 = 六月町的世界」と「共同体 = 三月町的世界」とがせめぎあっています。

 彼はそのどちらを否定し切ることもできず、内側から両者に引き裂かれており、そのことが彼の苦しみをひき起している...というところで、第1シリーズの前半(第1話~第11話)は終了していました。


                    ◯


 そして、これもまた「感想①」で触れた内容ですが、零が「六月町的世界」と「三月町的世界」のどちらも否定できないことは、彼の「物語上の両親」(実際的な戸籍上の親とか育ての親の話ではなくて、作品のテーマを反映した「象徴的な両親」のポジションにいるキャラクターのことです)が、棋士の幸田(=六月町の住人)と、川本あかり(=三月町の住人)に設定されている点からも明らかです。

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※へたり込む零を引っ張り上げる「父性的」な幸田と、へたり込む零を支える「母性的」なあかり(「父性」「母性」という言葉をイージーにステレオタイプに用いております)

 

 両者ともに零にとっては大切な人物。なので、『3月のライオン』の物語は「涙をのんでどちらかを切り捨て、どちらかの価値観に一体化する」という方向にはいかないのではないかなー、と想像します。


                    ◯


 このように、零のなかでは「競争」と「共同体」がせめぎあっているわけですが、これから見ていく第1シリーズ後半(第12話~第22話)では、彼と同様に、内側からこの両者に引き裂かれて苦しむキャラクターにスポットがあてられます。零の先輩棋士、島田開。

 島田は棋士としてだけではなく、作品のテーマ面においても零の先輩。第1シリーズの後半では、零は彼の主催する将棋共同体=「島田研究会」に所属し、一番近くで島田の苦しみを目撃することになります。
 

 
◯共同体の「キズナ」と「ホダシ」

 零にとって「共同体」的な世界を代表するのは、三月町であり、そこに暮らす川本三姉妹という「家族共同体」でした。

 いっぽう、島田にとっての大切な「共同体」は、プロ棋士としての自分を応援してくれる地元・山形の後援会。島田は応援の恩義に報いるために、宗谷冬司との対局を勝ち進んで故郷に錦を飾りたいのですが…

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「あのバケモノ相手に白星をまず二つ、でないとたどり着けない。六局目が俺の故郷なんだ」(第17話)


 しかし、第18話で島田は敗退。故郷にたどり着くことができません。「競争」での敗北によって「共同体」とのつながりが断ち切られる…という、前半の話数で幾度か描かれてきた展開が、ここでも繰り返される。

f:id:tentofour:20171027024814j:plainf:id:tentofour:20171027024821j:plain左:第2話、対局で零に負けたために「身体の悪い田舎の爺ちゃん」に晴れ姿を見せることができなかった松本 右:第10話、同じく零に負けたために、家族で過ごす最後のクリスマスを邪魔された(!?)安井

 

 そんなふうに、地元の応援に心から感謝している島田ですが、いっぽうでその応援がプレッシャーになっている…という描写もありました。彼が学生時代から苦しみ続けているストレス性の胃痛。

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「(…)どこまで行っても、どこにもたどり着けないのでは、とうなされた。でも、みんなの期待も恩も、どうしても無駄にはできなかった。したくなかった。その痛みを、俺は多分、いまもかかえている」(第19話)

 

 共同体の緊密な関係性が、励ましにも重荷にもなっている…という、これは絆=「キズナとホダシ」の話ですね。

 11年の震災のあと、前向きな意味で「絆(キズナ)」という言葉が盛んに使われた時期があったのを記憶している方も多いと思います。

 それは当時の状況下で一定の有効性があると見なされたからこそ、戦略的にその意義が喧伝されたのだろうと思うのですが、でも本来は何事にもプラスとマイナスの両面があるもの。

 ここ数年の物語作品には、「絆(キズナ)」の良い面ばかりを強調するのではなく、かといってその反動として全否定するのでもなく(共同体を全否定したら人間の生存は不可能になるので)、両方の側面を盛り込んでいこう…という姿勢をもったものが増えている印象があります*2

 たとえば、メガヒットを記録した『君の名は。』(公式サイト)の新海誠監督は、作中の「ムスビ(絆)」と「ホダシ(絆し)」の表現について、こんなツイートをしていました。

 

また、僕は映画には「ムスビを大切にする」という意図は込めていません。ムスビ(絆)は「ほだし(人を縛るもの)」と両義で、若者を自立から阻むものでもあるからです。だから、できれば多様な受け取りの出来るものにしたかった。

新海誠 2016年11月28日のツイート)

 
 また、「感想①」でも触れた、高校の吹奏楽部を題材にとった2016年のテレビアニメ『響け!ユーフォニアム2』(公式サイト)でも、この「キズナとホダシ」にまつわるシーンが描かれていました。

 このアニメには、吹奏楽部という「共同体」から自らを放追しようとしている田中あすかというキャラクターと、彼女を引き止めたいと願う中世古香織というキャラクターが登場します。

 第9話で「香織があすかのスニーカーのほどけた靴紐を結び直す」という、状況だけ取り出すとなんてことのないシーンが描かれるのですが、ここの演出のトーンがかなり不穏だったために、作品のファンをざわつかせました。

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「ほら、こうやって結ぶと、ほどけにくいんだよ」
「...可愛いでしょ?香織って」

(『響け!ユーフォニアム2』第9話)

 

 前後の脈絡を含めて、ここは様々な受けとり方が可能になっていて(たとえば、あすかと香織の ~性的なニュアンスを含む~ 不均衡な関係のあらわれ?とか)、だからこそ視聴者を惹きつけたシーンだったわけですが*3

 これを「 “キズナとホダシ” にまつわる表現」という視点からみているのが、「感想①」でも記事を引用させていただいた、ランゲージダイアリー・相羽さんの記事です。

 

(…)絆、「共同体」、そういうものに対して、人間が持つ他者と繋がっていたいという気持ちと、繋がりを断ち切って自由になりたい、という気持ちのアンビバレントをも描いています。

 山田尚子さん(『けいおん!(!!)』の監督)もシリーズ演出に加わっていますし、「共同体」のテーマに関して、何かと『けいおん!(!!)』の「次」を意識させる物語、演出が豊富な本作ですが、わりと絆、「共同体」を「正」の方面から捉えて終劇していた『けいおん!(!!)』に対して(ラスト、梓と唯律澪紬は表面的に一旦は離れても一種の永続的な繋がりを獲得している)、絆、共同体の「邪」の部分、今話でいうと、あすか先輩には母親との繋がりが重荷になっているという側面も明示的に描いております。

 絆(キズナ)は語源的には絆(ホダシ)ですが、日本古来の物語作品(古典の類)から、他者との繋がりは救いでもあり、束縛でもある、というのは普遍的なテーマです。

この世界との縁がほどけてしまわないように〜響け!ユーフォニアム2第九回「ひびけ!ユーフォニアム」の感想(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

 

(※本当は、相羽さんの記事全体では、このシーンがさらに大きな視点から捉えられていてすごいのですが、当ブログでは「キズナ / ホダシ=共同体との関係性」という狭い範囲に話を限定しています。)

 ともあれ、この『響け!ユーフォニアム』の田中あすかも、『3月のライオン』の島田開も、共同体との繋がりに「救い」と「束縛」の両方を感じている模様。どちらの作品も、ストレートに「共同体バンザイ!絆最高!」ではないのですね。

 


◯島田のifルート

 第20話では、そんな島田のみた夢の内容が描かれます。

 彼はかつて、結婚を意識した恋人との別離を経験しており、その理由は「棋士としていつまでも芽が出ないプロ将棋の世界に、島田が留まることを選んだから」というものだった模様。

 これもまた「 ”競争” の世界を選択することが ”家族共同体” の構築を妨げる」という、『3月のライオン』で繰り返し描かれる「競争と共同体の相克」のバリエーションですね。

 ところが、夢のなかの島田はプロ棋士の道をあきらめて、田舎で恋人とのあいだに子供をもうけて「家族共同体」を築き上げています。あのとき「競争ルート」ではなく「共同体ルート」を選んでいたら...という夢。

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 食卓でも家族や友人たちに囲まれる島田。その卓上には「コミュニケーションツール」としての将棋盤も。

(「感想①」で書いた将棋のもつ二面性…「勝者と敗者を峻別する ”競争” の舞台としての将棋」と「 ”共同体” をとりもつ、他人とのコミュニケーションツールとしての将棋」を思い出してください。)

 この夢のシーンはけっこう切ないんだけど(BGMがなぜかZEPの『天国への階段』もどきなのはご愛嬌)、これはもうどっちの道が良かったとか悪かったという話ではないですよね。

 そして、「ifルート」の夢から醒めた島田の感想。

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「笑えたのは、夢のなかでも将棋を指していたこと。それでも、棋士になりたかったと悔やんで、やっぱり胃を傷めていたこと」

棋士になれなくて田舎に帰った自分。すべてを賭けてここまできても、4タテ喰らいそうな自分。どっちが悪夢か、とことん味わってやろうじゃないか」(第20話)

 

 どっちの道を選択しても島田さんは胃痛から逃れられないんですね…。「競争」と「共同体」の両者に内側から引き裂かれてのたうちまわっている、という意味で、彼はやっぱり零の先輩。

 苦しみ続ける島田の姿を間近で目撃した零は、プロ将棋の世界で生きる覚悟を新たにします。

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「終わりのない彷徨。ならば何故。その答えは、決してこの横顔に問うてはならない。その答えは、あの嵐のなかで、自らに問うしかないのだ。」(第20話)

 

 島田と零は根っこの部分では同質の苦しみを抱えていて、さらにその苦しみは(「感想①」でも触れたように)われわれの社会が根本的に抱える歪み=「競争志向」と「共同体志向」、ふたつの価値観の「矛盾」の反映です。

 つまり、島田と零は社会の歪み・矛盾を内面化しているキャラクターで、だから島田と零の苦しみは、われわれにとっての苦しみである…とも言える(どちらか一方の価値観に100%ライドオンできている人 ~そんな人が存在するとして~ は除きますが)。

 そして、零が「終わりのない彷徨」といっているように、その矛盾はおそらく完全に「解消」することはできないんですね。なんとか「折り合い」をつけようとするしかない。

 

 

◯矛盾の効用


 ここで話はちょっと脇道に逸れますが、社会が抱える矛盾に折り合いをつけようとすることの効用、それが社会や文化にもたらす変化について、ユヴァル・ノア・ハラリの歴史書『サピエンス全史』(河出書房新社)ではこんなことが書かれています。

 

(…)矛盾とは無縁の物理学の法則とは違って、人間の手になる秩序はどれも、内部の矛盾に満ちあふれている。文化はたえず、そうした矛盾の折り合いをつけようとしており、この過程が変化に弾みをつける。

(…)

フランス革命以降徐々に、世界中の人々が平等と個人の自由の両方を根本的な価値と見なすようになった。だが、これらの価値は互いに矛盾する。平等は、暮らし向きの良い人々の自由を削減することでのみ確保される。あらゆる人に好きなように振る舞う自由を保証したら、必然的に平等が成り立たなくなる。一七八九年以降の政治史はすべて、この矛盾を解消しようとする一連の試みだったと考えることができる。

(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』)

  

 たとえば、十九世紀ヨーロッパの自由主義政権は、「自由」を重んじ「平等」を軽んじた結果、悲惨な格差・貧困を生み出した。逆に「平等」という理想を高らかに掲げた共産主義は、残酷な専制政治を敷いて「自由」を抑圧した。

 現代のアメリカでも、万人の「平等」(ex.国民の医療保険加入)と、個人の「自由」(ex.個人が好きなようにお金を使う権利)をめぐって、民主党共和党のあいだでバランスゲームが行われている…。

 このような「自由」と「平等」のあいだに存在する矛盾の例をあげたうえで、本は次のように続きます。

 

現代の世界は、自由と平等との折り合いをつけられずにいる。だが、これは欠陥ではない。このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可分の要素なのだ。それどころか、それは文化の原動力であり、私たちの種の創造性と活力の根源でもある。対立する二つの音が同時に演奏されたときに楽曲が嫌でも進展する場合があるのと同じで、思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。調和ばかりでは、はっとさせられることがない。

緊張や対立、解決不能のジレンマがどの文化にとってもスパイスの役割を果たすとしたら、どの文化に属する人間も必ず、矛盾する信念を抱き、相容れない価値観に引き裂かれることになる。これはどの文化にとっても本質的な特徴なので、「認知的不協和」という呼び名さえついている。認知的不協和は人間の心の欠陥と考えられることが多い。だが、じつは必須の長所なのだ。矛盾する信念や価値観を持てなかったとしたら、人類の文化を打ち立てて維持することはおそらく不可能だっただろう。


(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』)

 
 ここだけを切り取ると、まるで著者が手放しで矛盾や対立を歓迎しているかのような印象も受けかねませんが、本全体では、そのような矛盾が(とくに文化・社会のなかに生きる個人にとって)悲惨な事態をもたらすことも多々ある…ということは押さえられているので、その点は留意してください*4

 ともあれ「緊張や対立、解決不能のジレンマがどの文化にとってもスパイスの役割を果たすとしたら、どの文化に属する人間も必ず、矛盾する信念を抱き、相容れない価値観に引き裂かれることになる」…という、これが「競争」と「共同体」のあいだで引き裂かれている島田や零の陥っている状態です*5

 そして、このふたつの価値観のあいだに起こる摩擦を通じて、零という主人公が「成長」(という言葉に違和感があるなら「変化」「変質」?)していくのが『3月のライオン』という作品です。

 

  

◯将棋の二面性


 軌道修正して、ふたたびストーリーを追っていきましょう。

 宗谷冬司との対局に破れて、故郷・山形の地を踏むことができなかった島田。くり返しになりますが、これは「 “競争” での敗北が “共同体” との繋がりを切断する」という、『3月のライオン』で何度も描かれてきた展開で、ここでの将棋は「勝者と敗者を峻別する ”競争” の舞台」です。

 いっぽうでこの作品では、将棋のもつもうひとつの側面…「 ”共同体” をとりもつ、他人とのコミュニケーションツール」という面も描かれてきました。将棋のもつ「競争志向」と「共同体志向」の両面が作中に盛り込まれているんですね。

 将棋の対局に破れたために故郷にたどり着けなかった島田は、それでも将棋を媒介として、故郷との繋がりをキープしています。彼が設立した共同体=「塩野将棋クラブ」の存在。

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「(...)週に2回バスをだして、お年寄りの家をまわり、公民館のコタツで将棋盤をかこむ。将棋を指す人もいれば、大鍋で一緒に保存食を作ったりもする。そして帰りには、まとめて注文をとって買い出しておいた日用品や食材と一緒に家まで送る。島田八段は、自分の村から孤立する老人をなくす仕組みを作ろうとしてるんです(...)」(第21話)

 

 島田さんかっこよすぎでは...。将棋のガチな修練・勝負の場ではない「塩野将棋クラブ」、将棋に興味のない人も排除しない緩さがキープされているのが素敵ですね。つまりは「共同体志向」の強い将棋クラブ。

 

                    ◯

 

 こうした島田の活動をずっと間近で見ていた零は、やがて自分の通う高校に「放課後将棋科学部」を設立することになります。こちらも塩野将棋クラブと同じく、将棋のコミュニケーションツールとしての側面にフォーカスした、共同体志向の強い将棋部。

 部の設立はけっこう成り行きというか、零を心配する林田先生の強引な後押しもありましたが、でも島田の姿を見つめていたからこそ零が一歩を踏み出せた…という部分は大きかったはずですね。

 以上のように、『3月のライオン』に登場する「将棋共同体」には、将棋のもつ二面性に対応して、「プロ / 競争志向」の強いものと「アマチュア / 共同体志向」の強いもの、二種類があります。

 

 

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 もちろん「プロ / 競争志向」の強い島田研究会のなかでも、たとえば二階堂と零の関係にみられる「 ”競争” を通じたライバル同士の切磋琢磨」のような「共同体的な繋がり」も描かれるので、実際には上の図ほどきっぱり整理できるわけではありません。

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「ついに追いついたぞ桐山。直接対決がかなうこと、楽しみにしてるぜ。なあライバル」(第17話)

 
 晴×零なんだよなあ…という感想は置いといて、最初は作中で対置的に描かれていた「競争」と「共同体」が、やがて、人間の社会や文化の常として矛盾を孕みつつも、同時に不可分なものとして零のなかで認識されていく…というのが『3月のライオン』のストーリーの大まかな流れっぽいですよね。


第1シリーズ前半:競争と共同体の相克 / 零の苦悩(テーマ提示編)
第1シリーズ後半:零と苦悩を共有する島田の姿(零の見習い時代編)

第2シリーズ:島田の姿をうけての零の行動(実践編)


 という感じになっていくんでしょうか?
                 


◯むすび


 第21話で川本ひなたの考案した新作和菓子=「三月町ふくふくだるま」も、「二種類の異なる味が、それぞれの特徴を残したまま、ひとつのお菓子として成立している」という、作品が扱う「競争と共同体」テーマを反映したアイテムでした(「放課後将棋科学部」という「将棋部」と「科学部」が合体?した部活と同系統のアイテム)。

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「違う味の餡がはいった大小のお餅を、ふたつ雪だるまみたいにくっつけてるから、ふくふくだるま」(第21話

  
 こういうアイテムを考案するひなたは、やっぱり重要なポジションにいるキャラクターですね。

 このひなたを始めとするキュートな川本三姉妹、第1シリーズの後半はちょっと出番が少なかったので(零が六月町の世界で三月町的なものを模索する、というストーリーの流れ的に仕方ないんだけど)、彼女たちの出番が増えることを期待しつつ、第2シリーズも楽しみたいと思います。

 セクシー長女のあかりさんが好きなので、島田八段とくっついて素敵カップルが誕生してほしいんだけど、彼女デブ専だから無理かなー?苦労性の島田さんを誰かふくふくにしてあげてください。

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*1:たとえばディケンズの『クリスマス・キャロル』(1843年)は、金儲け=資本主義下の「競争」に明け暮れていた孤独な守銭奴スクルージが、友人関係や家族といった「共同体」の価値に目覚める物語です。ディケンズの作品をすべて「当時イギリスで進んでいた自由主義改革の負の側面にたいするリアクション」と一括りにするのはちょっと乱暴だけど、とくに中期までの作品には、そのような傾向が色濃くみられます。

*2:このブログの他の似たような記述にもあてはまることですが、これはあくまで個人的な「印象」の域を出ない話ではあります。あたり前だけど、世の中に出ている、ありとあらゆる物語作品(もう少し対象を絞って「一定以上ヒットしたすべての物語作品」でもいいけど)をチェックできているわけではないので、私が「震災直後はこういう作品が多かったけど、最近はこういう傾向の作品が増えたようだ」という自前の「仮説=ストーリー」をでっちあげて、そのストーリーに適合する作品を恣意的にピックアップしているだけ…という可能性ももちろんあります。だからといって仮説を立てること自体をまったくの無駄だと思っているわけではないですが。

*3:原作小説だと、このシチュエーションを見ている主人公・久美子の心象もわりと反映されているシーンなのですが、客観度がやや上がったアニメ版では、さらに解釈の余地が大きくなっています。たとえば、久美子の視点からは捉え得ない鉄柵(鉄格子)ごしのカットは、香織があすかを束縛しているようにも、あすかが香織を支配しているようにも見えます。ちなみに「こうやって結ぶと、ほどけにくいんだよ」に相当するセリフは原作にはないアニメオリジナルなのですが、これによって空気の重さというか、まとわりつくような湿度がぐっとUPしてますね。ナイス。

*4:「矛盾」がもたらす悲劇について → 『スカーフェイス』感想:「競争」と「共同体」の挟み撃ち

*5:物語の創作においても「異なる価値観のあいだの緊張や対立」の導入は常套手段ですが、そういう手法を用いたストーリーの盛り上げ方は、一歩間違えると陳腐になってしまう可能性も孕んでいます。そのような「”対立” の導入による盛り上げ」を排除し、かつ「脱物語的」(完全な「脱」物語、という状態があり得ないことは承知のうえで「傾向」をあらわす言葉として使ってます)な方向にも向かわずに、とんでもなく豊かな「物語」を語ってみせたのが、宮崎駿の『風立ちぬ』だった…という記事を以前書いたのでよろしくお願いします!→ 世界を図式化せずに物語る ~『風立ちぬ』感想