「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』
この記事は、一連の「たまこまーけっとを振り返る」シリーズ(記事一覧 )の補記として、作品世界の構造をあらためて整理することを目的としたものです。
これまでの記事とかなり重複する個所がありますが、ご容赦ください。このテーマで単独で記事を1本立てておきたかったので…。
◯商店街の「内側」の魅力
第5話の感想に書いたように、『たまこまーけっと』全12話は、4つのパートに分けることができます。
・1話~4話 商店街の魅力をその内側から語る「安定期(その①)」
・5話~7話 商店街を外側との対比で検証する「転換期(その①)」
・8話~10話 商店街の魅力をその内側から語る「安定期(その②)」
・11話~12話 商店街を外側との対比で検証する「転換期(その②)」
作品の主要舞台である「うさぎ山商店街」を「内側」と「外側」、それぞれの視点から見たエピソード群が交互に配置されているんですね。
このうち、「内側」を描いたエピソードでは、商店街の魅力がストレートに語られ、逆に「外側」を意識させるエピソードでは、「外から見た商店街ってどうよ?」という検証が行われている。
もうすこし具体的に見てみましょう。
第1~4話・第8~10話の「安定期」で「内側」から語られる商店街の魅力としてもっとも大きいのは、さまざまな住人たちがともに暮らす商店街の多様性です。
子供から老人まで、幅広い年代の住人たち。外国人や性的マイノリティの人々。「保守」と「革新」という思想の違いから対立を繰り返す豆大と吾平も、お互いの存在を根底から否定するようなことはありません(「死ね」とか「殺す」とかは言わないってことね)。
女子高生キャラクターが中心だった『けいおん!』などの「日常系アニメ」よりも、構成メンバーがより多彩になった「日常系アニメ的共同体の拡大・進化版」がうさぎ山商店街だ、と、とりあえずは言えると思います。
それで、そのように多様性を許容する、理想的な商店街の魅力が「内側」の視点から描かれるのが「安定期」のエピソード。
◯商店街の「外側」で発生するトラブル
その一方で、作品には「この理想的な商店街って、やっぱりちょっとファンタジー空間だよね」という視点も盛り込まれていて、それが表れているのが「転換期」のエピソード、とくに第5話~7話です。
◯
第5話は、臨海学校でメインキャラクターたちが商店街よりも、いつも通う学校よりも、さらに「外側」の世界に出る話。そして、彼女たちが商店街の引力圏外に出たとたんに、様々なトラブルが起こります。
まず、商店街の「内側」ではなんとか抑え込まれていた、たまこを巡るみどりともち蔵の「対立」が表面化してくる。この対立は、トムとジェリー的な呑気さを感じさせる豆大と吾平の対立と比べて、かなりシリアスな雰囲気を湛えています。たまこをめぐる人間関係の一部が実際に壊れてしまいかねない雰囲気。
そして、いつもは作中で人と人とのあいだをとりもつ「通信機」の役割をはたすデラ*1も、今回はその役割を果たせない。
さらに、何度も動物に襲われるデラの姿。デラが天敵みたいなポジションの動物に追いかけ回される…というのは、いかにも「ありそう」なアニメ的ドタバタエピソードではあるんですが、実際には、うさぎ山商店街の「内側」では、これまで一度も起きなかった事態です(商店街の内側は「平和」ということ)。
そしてこの動物がまた凶悪に描かれていて、とてもじゃないけど「なかよくケンカしな♪」という雰囲気ではない。
つまり、第5話で示唆されたのは、『たまこまーけっと』という作品のなかでも、うさぎ山商店街はファンタジックに理想化された「やや特殊な空間」で、そこから離れると様々なトラブルが襲ってくるよ、ということでした。
作品のなかで、商店街の「内側」と「外側」の区分があって、ふたつの世界はちょっと違うよということが提示されているんですね。「内側」と「外側」の世界に違いがあることは、続く第6話でも示されます(詳しくは各話の感想を参照)。
◯「メタ日常系アニメ」としての『たまこまーけっと』
『たまこまーけっと』における、商店街の「内側」と「外側」の違い。これをうんと単純化して図にすると、こんな感じです。
うさぎ山商店街は、平和な「(拡大版)日常系的世界」。その外側には、シリアスなトラブルも発生し得る、もうちょっとリアル寄りの世界が広がっている。
(さらに厳密にいえば、学校は商店街とリアル世界の中間領域…みたいなグラデーションもあるかもしれませんが、ここでは話を単純化します。)
「日常系的世界」の「内側」だけでストーリーが完結せず、その「外側」がある、という視点が構造化されているんですね。
そして『たまこまーけっと』は、この「日常系的世界」を、主人公であるたまこが必死に維持しようとしている、いわば「メタ日常系アニメ」の側面をもっている作品だった…という点についても、色々な記事で書いてきました。
作中で、他のキャラクターが商店街という「基盤」の上で展開される「日常」を何気なく過ごしているのに対して、たまこだけは「日常」を支える「基盤」そのもの維持に意識が向いている…というあたりの話ですね。
山田尚子監督と同じ首筋の位置にほくろを持ち(左右は逆)、ストーリーが展開される「基盤」への意識を強く持ったたまこは、作品の作り手と視線を半ば共有する「(半)メタ・キャラクター」といえるかもしれません*2。
◯「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』
そのような、ややファンタジックな商店街の「内側」に、「外側」の視点からツッコミが入れられるのが、第6話(感想)のお化け騒動。
このエピソードでは、商店街の「内側」に蔓延したカルトっぽい迷信を、「外側」の視点をもつキャラクターである史織が突き崩します。上にあげた図の矢印「史織の視線」のところですね。
うさぎ山商店街はたしかに「理想的な共同体」かもしれないけど、「外側」との交通が断たれた共同体は空気が淀んで、おかしな迷信がはびこることもあるよ。ときには「外側」の視点を導入して、「内側」のモノの見方を相対化する必要があるよ、というエピソード。
『たまこまーけっと』の常として寓話的な描かれ方がされているのでソフトな印象ですが、この「閉塞した共同体問題」をリアルに置き換えると、身近なところではLINEでのイジメから、一部の古い村落共同体に残る理不尽な因習、大きなところではカルト宗教まで、いろいろとえぐい話題が連想できます。
そうした共同体内の自家中毒を防ぐために、「外側」の視点が要請される。商店街に限らず、『たまこまーけっと』では、クラス・部活など、主人公たちの所属する共同体の「内側」で起きた問題にたいして、共同体の「外側」のキャラクターが重要な役割を果たす、というエピソードが何度か描かれます。
たとえば、第3話(感想 )と第10話(感想)にまたがって描かれた「共同体の ”内側” で発生したディスコミュニケーションが、共同体の “外側” にいるキャラクターの仲立ちによって解消される」というストーリーも、その一例。そして第7話(感想)では「商店街を出て行くさゆりと、入って来るチョイ」という、共同体メンバーの入れ替えも行われる。
そのような「共同体アニメ」としての側面と、先に触れた「メタ日常系アニメ」としての側面、双方の理由から、うさぎ山商店街の「内側」と「外側」の区分が描かれる必要があったのではないか、と思います。
*1:デラの「通信機 / とりもち」機能について → 第8話感想
*2:関連記事→ 北白川たまこの孤独と、その解消