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丈槍由紀の(半)堕天 ~『がっこうぐらし!』雑感 その②

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※前回の記事(丈槍由紀は堕天する、のか? )に付け足しで、最終回の感想。ネタバレ注意です。

 

  

▶︎日常系的妄想世界と、ゾンビまみれの現実との間で揺れていた由紀。最終的には、日常系的な想像力を「現実逃避の手段」から「現実にコミットし、現状を打破するための手段」にアップデートする、という結論に。「現実か、妄想か」という二択のブレイク。

▶︎由紀の校内放送にうながされて、ゾンビたちが生前の習慣にしたがって帰宅していくシーンで、それまで「学園生活部」のメンバー間でしか共有されていなかった「平穏な日常」のシミュレーションが、全校規模で展開されていく。

▶︎校内放送をする由紀は、もはや現実をはっきり認識しており、「平穏な日常」という幻想を自覚的に作りだす立場。ここでの彼女は、それまでのような日常系的世界の「無自覚な体現者」から、「意識的な作り手」へと変貌している。

▶︎「平穏な日常シミュレーション」の自覚的なゲームマスターになった由紀。そして、これまでは「学園生活部」の日常シミュレーションを脅かす存在だったゾンビたちが、由紀の展開するゲームのプレイヤーとして動員され、ゲームのルールに従うことで、危機が回避される。

▶︎フィクションを、現実逃避の手段から「いま・ここ」にある現実を読み替えるためのツールとして捉え直す、という展開の作品はけっこうあるけれど(『中二病でも恋がしたい!』1期とか)、『がっこうぐらし!』はその最新バージョンといった趣。

▶︎そのように、ハードな現実は受け入れつつ、キラキラした世界への志向は失わないという由紀の「半・堕天」を、ゾンビに羽根をもがれて片翼になったリュックが表現(「堕天」と天使の羽根つきリュックについては前回の記事を参照)。

▶︎由紀の校内放送は名演説で、ジーンときた。鹿目まどかばりに最終回までひっぱった末に、ついに能動的な主人公に!感。

 

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「でも、どんなにいいことも、終わりはあるから。ずっと続くものはなくて、それは悲しいけど、でも、その方がいいと思うから。だから、学校はもう終わりです。いつかまた、会えると思う。でも今日はもう終わり。」

 

▶︎日常系の自覚的な「作り手」ポジションについた瞬間に、「作者 / ゲームマスター」として、ゾンビたち=「受け手 / ゲームプレイヤー」にむけて、日常系時間の「終わり」を宣言する由紀。下校時刻になったので、それぞれの「お家」=「現実」に帰りましょう、と。

▶︎『Angel Beats!』がメタ『涼宮ハルヒの憂鬱』をやってみせて、「こういう学園ものの世界って楽しいよね、SSS(=SOS団)でずっと皆でワイワイやっていたいよね、でもいつかは卒業しないといけないよね」というラストだったのに近い締め方で、メタ系作品としては正統派の落としどころ。

▶︎ただ、進学は4人一緒という点では『けいおん!』エンドとシンクロ。アニメ版『けいおん!』は、「世間のレールに乗ったままだと、進歩志向や競争原理によって分断されていく共同体を継続させる物語」だったけど、『がっこうぐらし!』の世界では「世間」がすでにブッ壊れているわけで、これについては今後の展開が気になる。

▶︎アニメの最終回後に原作を既刊6巻まで一気読みしたのだけど、大学編では他の生き残りの人間たち(=疑似世間)との関わりがキーになってきそう。仲間だけで構成された居心地の良い高校を卒業して、進学先の大学で世間と関わり、最後に就職先の研究所で世界の秘密に到達する…のだろうか?(←安直な予想)

▶︎最終回は感情的にややウェット方面に振れすぎた感もあったけど、楽しませてくれた作品。生前のめぐねえ(由紀によって理想化・外部化された「良心」=ジミニー・クリケットじゃない方の、リアルめぐねえ)とか、しっかり者にみえて時々心が折れそうになるりーさんとか、メンタルの弱いキャラが必死で現実に対応しようと頑張る姿が魅力的でした。

 

あらためて作品全体の感想を書きました→丈槍由紀と「かれら」の失楽園