ねざめ堂

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『響け!ユーフォニアム』で描かれる「異質な他者」の可能性

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※『響け!ユーフォニアム』第10話までのネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

◯前提:京都アニメーション作品の文脈

 これは、去年の春に『ハナヤマタ』の放映が始まったときの「ランゲージダイアリー」相羽さんの記事なのですが(言及リンクありがとうございます)、

 

aiba.livedoor.biz

 

 現在の日本のアニメが描いている物語をより楽しむうえで、素晴らしい視点を提供してくれる記事です。

 相羽さんの指摘をなぞらせてもらうと、いまの日本って先進国と言われてはいるけれど、目の前には問題が山積みで、日々の生活のなかで無力感や虚無感を感じる場面も多い。

 この灰色の日常なんなの、なんとか「輝き」(失われた「生の実感」とか*1)を取り戻すことはできないの?という試論を京都アニメーションは作品を通してずっとやっていて、その「輝き」は、たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』で、「世の中こんなもんさ」とモノトーンな日常を生きていたキョンハルヒに出会った瞬間の世界の色づきだったり、『けいおん!』冒頭ではボンヤリと生きていた主人公・唯が合宿でメンバーと楽しんだ花火の輝きだったり、『氷菓』での灰色の奉太郎と薔薇色のえるの物語、といった形で表現されてきた。

 というのが相羽さんの指摘(の、一部)で、これはほんとに様々な作品に通底して描かれていますよね。一見ちょっと違うラインの作品に見える『日常』なども、このテーマ(相羽さんの言葉でいえば「京都アニメーション文脈」)のバリエーションを扱っていたりする。

 「ここではないどこか」に輝きを求めるのではなくて、いま、ここにある「日常」と「輝き」を縫合しようとする物語。

 だから京都アニメーションの作品は「文脈」「線」で追う楽しみがあるんですけど、では目下の最新作『響け!ユーフォニアム』で、このテーマはどのように描かれているのか?について考えてみる、という記事を今回は書いてみたいと思います(もちろんこの記事は私の勝手な解釈で、文責はすべて丁稚にあります)。

 

◯「他者」の存在

 上にあげた諸作品で、日常に「輝き」をもたらすキーになっているのは「他者」の存在です。ボーイ・ミーツ・ガールだとか、あるいは仲間との出会いによって「生」が輝く、というのは普遍的なテーマですよね*2

 キョンにとってのハルヒ、奉太郎にとってのえる、そして『けいおん!』第4話で澪の視点から描かれた、HTTのメンバーたちがともに過ごす時間の輝き。

 

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(『けいおん!』1期 第4話)

 

 でも、花火の輝き(=高校時代の楽しい部活の時間)は一瞬で終ってしまう。この、仲間たちとすごす時間の「輝き」を、高校の部活動という枠の外側に拡大していく、というのが、劇場版を含めた『けいおん!』シリーズ後半の展開でした。

 

                      ◯

 

 さらに「輝き」の獲得と継続における「他者」の必要性を強調した作品として印象深かったのは、『中二病でも恋がしたい!戀』(感想 )。この作品は『響け!ユーフォニアム』の監督・石原立也と、シリーズ構成・脚本を担当する花田十輝のコンビ作でした。

 いちおう最終回のネタバレを回避しつつストーリーの概要を書くと、『中二恋』シリーズの2期である『戀』は、主人公・勇太と、メインヒロイン・六花とが結ばれた状態からスタートします。勇太とカップルになれたことは嬉しいものの、これまでの中二病生活とのギャップにとまどい、どこかギクシャクしてしまう六花。しまいには「輝いて」いたはずの、内的な「中二病世界」までもが色褪せてきてしまう。

 いっぽう『戀』から登場した新ヒロイン、七宮智音。勇太のかつての「中二病仲間」で、いまだ現役バリバリの中二病患者。智音は、勇太と結ばれなかった六花の「もしも」=「if」的な存在で、シリーズ前半の彼女は、非常に安定したキャラクターとして描かれます。

 勇太という「他者」を受け入れ、その新しい状況に不安定になった結果「中二病世界」の「輝き」を失いそうな六花にたいして、かつて勇太を(結果的には)拒絶することで自分のなかの「中二病世界」を守った智音は安定している。

・「他者」にたいしてオープンな六花の不安定さ
・「他者」にたいしてクローズドな智音の安定感

 という両者の対比ですね。

 でも、シリーズ後半になるとこの関係は逆転して、勇太をいよいよ正面から受け入れた六花が、外的な「現実」と内的な「中二病世界」の縫合に成功し、「輝き」を取り戻していくのにたいして、智音は自らのクローズドさの限界に突き当たり、追いつめられていく。

 智音ははたして、この内的な袋小路を脱出できるのか?というのが『戀』のおおよそのストーリーです。

 作中で印象的だったセリフをふたつ。

 

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「私は、勇太が信じてくれた自分を信じる。」(第9話 六花)

 

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「自分を知るには、外に目を向けるべきなのです。」(第11話 モリサマー)


 両方とも「他者」を、自分の姿を映しだす「鏡」として捉えているセリフですね。六花の後ろのフィルムは、これまでの勇太と六花の関係性=「あいだ」にあった出来事や姿を映しだしています。

 自分自身の姿は他者との関係性を通してしか確認できないし、「輝き」の継続もまた、他者との関係性のなかではじめて可能になる。クローズド・サーキットはいずれ行き詰まるぞ!ということを言っていた作品でした。

 

                      ◯

 

 それで、六花にとっての勇太はたしかに「他者」なんですが、勇太はかつて中二病患者だった過去もあり、六花の価値観を理解できる存在です。キョンハルヒ、HTTのメンバーたち、そして価値観を異にする奉太郎とえるも、友好的な態度が関係性のベースにある。

 それにたいして『響け!ユーフォニアム』に登場するふたりの「他者」、久美子と麗奈は、「他者」としての異質性ゆえにいったん決裂した過去があった、というところが作品のスタート地点になっていました。

 

◯異質な他者

 第1話の冒頭、久美子と麗奈の軋轢で描かれたのは、ふたりのキャラクターの異質性でした。中学時代のコンクール、全国に行けずに悔し泣きする麗奈をみて、久美子の一言。

 

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「本気で全国いけるとおもってたの?」


 醒めてるぅ。ここでいったん両者の関係は決裂。

 その後も、久美子は他のキャラクターの前向きな発言にたいして「そんなに簡単じゃないよ」みたいな、水差し発言を連発しますよね。

 高い理想を設定して、そこに到達するための努力を惜しまない、静かに燃え上がるタイプの麗奈と、表面的には良い子なんだけど、どこか醒めている久美子の対比。そして、麗奈は自分とはちがう、久美子のそのような面に興味をもっていたことが語られたのが第8話。

 

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「でもわたし、久美子のそういうところ気になってたの。好き、っていうか、親切ないい子の顔して、でも本当はどこか醒めてて。だから、いい子ちゃんの皮、ぺりぺりってめくりたいなあって。」


 久美子の醒めた面は、「理想にむかってまっしぐら」な麗奈を斜めからみている、という風に悪くとられかねない部分もあるわけですが、それにたいしてキレながらも惹かれる部分があった、と。久美子が自分とは異質な「他者」だからこそ面白い。


◯麗奈の「光源」としての久美子

 第8話の感想にも書きましたが、ふだんはクールで無表情な麗奈が、活き活きとした感情を露わにして輝くのは、久美子の「異質性」に触れたときです。

 第1話、久美子の前で露わにした怒りの表情と涙の雫の輝きもそうですし、第5話で久美子がまたも「全国なんてそう簡単には…」という失言を麗奈の前でやらかしたときも同様。

 

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 麗奈にとっては、久美子の異質性が「生」を活性化させる「輝き」の源になっているんですね。

 第8話感想のオマケ記事ハルヒを持ち出したりもしましたが、『涼宮ハルヒの憂鬱』で例えれば、ちょっと醒めた主人公・久美子はキョンのポジションで、「輝けるヒロイン・ハルヒ」=麗奈です。ではなぜ麗奈は輝いているのか?というと、その原因は久美子の異質さにあった、という関係になっている。

 「他者」との関係性のなかに希望がある、ということをこれまでよりもはっきりと打ち出した『中二病でも恋がしたい!戀』から一歩進んで、「輝き」の源泉が他者の「異質性」にある、ということに言及している作品です。

 第8話では、麗奈の口から「誰かと同じで安心する」=「同質性」を尊ぶ風潮への違和感が語られますが*3

 

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「私、興味ない人とは無理に仲良くなろうとは思わない。誰かと同じで安心するなんて、バカげてる。」

 

 麗奈のこのセリフは、第2話の葵と久美子の会話へのアンサーになっていました。

 

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「みんななんとなく本音を見せないようにしながら、問題のない方向を探ってまとまっていく。学校も吹部も、先生も生徒も。」
「どうして?」
「そうしないとぶつかっちゃうからだよ。ぶつかって、みんな傷ついちゃう。」


 それで、麗奈は「傷つく」ことにたいして「痛いの、嫌いじゃないし」(第8話)と答えるような子なんですよね。だからこそ、お互いの同質性を確認しあって安心するような状況には満足できず、ときには自分をイラつかせもする久美子の「異質性」(ポロッと出てしまう「本音」という形で表面に現れる)に反応して輝く。


◯「輝き」の伝播

 そして第8話で描かれた、山頂でのあの指差しシーン。

 ここで麗奈はもう神々しく光りまくってるんですけど、このシーンは『響け!ユーフォニアム』という作品にとって、『涼宮ハルヒの憂鬱』で世界が色づく瞬間、『けいおん!』の花火の輝き、『氷菓』の世界が薔薇色に染まるシーンに相当しているんじゃないかと思います。

 相羽さんの指摘する「京都アニメーション文脈」、「日常に輝きを取り戻す」テーマが炸裂した瞬間。

 

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 そして、麗奈の「輝き」が指先をつたわっていき、久美子の瞳も輝きはじめる。第1話のスタート時点ではどこか醒めた日常を送っていた久美子が変えられてしまうシーン。この「赤い糸」感すごいな!

 さらに第9話では、オーディションに不安を感じる久美子に、麗奈が(第8話同様に)「輝き」を注入(?)するシーンが描かれます。麗奈に頬をはさまれて、久美子の瞳が輝きはじめるんですが、

 

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 その直後、久美子が麗奈に反撃。

 

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 久美子は麗奈の頬をはさみ返して、画面には映りませんが、おそらくはここで麗奈の瞳も輝きだしたはず。

 これ、久美子の異質性に反応して麗奈が輝く → 麗奈はその輝きを久美子に注入する→ 久美子はその輝きを麗奈に注入し返す、という「輝きの無限フィードバック回路」完成の瞬間ですよ!(いやあ、酷いネーミングだ)。

 

◯やっぱり異質な久美子と麗奈

 …という感じで麗奈に感化され、いよいよ「本気」になってきた久美子ですが、だからといって麗奈と「同質」になったわけではないんですよね。

 それは、第8話の指指しシーン直後、麗奈の「やっぱり久美子は性格悪い」というセリフでも表現されていたし、第9話でともにオーディションの「勝者」になったときの、ふたりのリアクションにも表れていました。

 

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 中川夏紀が、久美子のルート分岐した「if」的なキャラかも?ということは第7話の感想にも書きましたが(『中二病でも恋がしたい!戀』の七宮智音と似たポジション)、そんな夏紀を結果的に蹴落としてしまったことに罪悪感を感じて、思わず彼女を見てしまう久美子と、先輩である中世古香織からソロパートを奪いとっても、前を向いたまま動じない麗奈の対比。

 久美子は、(演奏技術面での)「強者」である麗奈や田中あすかサイドと、「弱者」である夏紀や葉月サイドの橋渡し的なポジションに位置づけられているようです。『もののけ姫』のアシタカみたいな「繋ぐ」系主人公。麗奈に感化され、音楽にたいして「本気」になり、麗奈と同じく「勝者」のポジションに立ったとはいえ、「同質」になったわけではない。

 そして第10話、麗奈が「滝先生LOVE」宣言をしたときも、からかうようなリアクションを返して「性格悪っ!」という罵倒を頂戴する久美子さん。「わかるよ」という同質な部分と、摩擦を引き起こす異質な部分のバランスが、久美子×麗奈の相性の良さの秘訣かもしれません。
 

◯異質な他者の混在する吹部共同体

 このような「異質なもの同士だからこそ相性の良いバディ / ライバル関係」というのもまた、物語の定番要素ではあるんですが、この作品の場合、他者の「異質性」を共同体の話と紐づけているのが良い感じです*4

 久美子と麗奈の場合は「異質性」がプラスに作用したけれど、ふたりのスタート地点が「異質さゆえの衝突」だったように、さまざまな人々が集まる共同体では、当然摩擦も起きるよ、と。他者の「異質性」が「輝き」の源泉になり得る、というプラス面と、「衝突」の火種になり得るというマイナス面、両面を描いているんですね。

 たんにストーリーを盛り上げるための装置として「衝突」が導入されているのではなくて、「輝きを取り戻す」という作品テーマとコインの裏表的に切り離せない要素として「衝突」が描かれている。

 そして、「衝突」によってかつて吹部が崩壊してしまった、というマイナス面は描きながらも、最終的には、共同体を活性化させる「衝突」を肯定的に描こうとしているっぽい作品です。

 「みんななんとなく本音を見せないようにしながら、問題のない方向を探ってまとまっていく」=「同質性」を重んじる態度とは真逆の方向性で、その「衝突」を引き起こすトリガーになるのが麗奈なんですね。第10話で最初に突っかかっていったのは吉川優子だけど、麗奈が空気を読むキャラであれば、「1年生の自分は来年も吹けるチャンスがあるんだから、今年は香織先輩に花を持たせるか」という発想になるはずなので。

 念のため書きそえておくと、麗奈というキャラクターに作品の「正しさ」が全面的に託されているのではなくて、肯定されているのは「衝突」によって、無難な方向にまとまりがちな共同体に揺さぶりがかれられる、という「状況」です。

 あと、これは衝突ではないけれど、「異質な他者」ネタとしては、第8話のチューバとトランペットの対比も良かった。

 

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葉月「チューバは影で支えるのが仕事なのだよ、塚本君!」
麗奈「私、特別になりたいの。他の奴らと同じになりたくない。だから私はトランペットをやってる。特別になるために。」


 これももちろん、作品としてはどちらかのキャラクターに肩入れしているわけではなくて、そのようなさまざまな人々の集合としての、多様性に富んだ吹部共同体を描いています。

 縁の下で支えるタイプと前に出るタイプ、どちらもいないと曲は演奏できないよ、というのもまた物語の定番要素ではあるんですけど(色々な役割の人がいて、はじめて1本のアニメーションが作れるとか、アミューズメントパークが運営できるとか)、でもやっぱり真理。

 

◯むすび:「輝き」テーマと「恋愛」要素の分離

 第10話で麗奈がかました「滝先生LOVE」宣言。

 勘がいい人はそんなことないだろうけど、私はこのアニメの恋愛面に関しては、けっこう制作側の思うツボ的に振り回されましたよ。ちょっとした視線のやりとりやセリフ、そして声の演技のトーン*5などが、いろいろに解釈できるように描かれてるんですよね。

 私は第7話までは「麗奈はやっぱり滝先生好きなんかなー、でもミスリードの可能性もあるよな。まあ久美子×秀一はないやろ」と思ってたんですけど、第8話「え、麗奈ってそんなガチに久美子LOVEなの?(嬉)そしてやはり久美子×秀一はないか…」→ 第9話「あれ、久美子さん、ひょっとして秀一のことが?」→ そして第10話に至る、という変遷。ようやくスッキリした…。振り回されるの、楽しかったですけど。

 

                      ◯

 

 それで、第10話を観て(遅まきながら)はっきりしたのは、『響け!ユーフォニアム』では「日常に輝きを取り戻す」というテーマと、「恋愛」が分けて描かれている、ということでした。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』や『中二病でも恋がしたい!』、『氷菓』などの、主人公とヒロインが結ばれる(結ばれる段階までいかずとも、惹かれあう)作品では、他者との関係性がもたらす「輝き」と「恋愛」の要素がほぼ(全部ではない)ひとつに縒りあわせられていたんだけど、この作品はそうではなくて、日常に「輝き」をもたらす鍵になるのは、あくまで他者の「異質性」。

 だから「他者」とは恋愛関係である必要がない。麗奈と久美子は、「輝き」を供給しあうという意味では主人公とヒロイン、ハルヒキョン的な関係なんだけど(だからこそ、第8話の山頂シーンはあそこまで光に満ちていたんだけど)、それと恋愛とは「別モノ」として描かれています。

 

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※恋愛に関しては、今後関係性が変わっていく可能性はありますが、現時点で確実なのはこの一方通行の矢印ということで。

 

 まあ、LIKEとLOVEの違い、と言ってしまえばそれまでなんですけど、赤の矢印ピンクの矢印は、ストーリー上の役割が違う、というところを強調したかったので図にしてみました*6

 そして、このように両者をきっちりと分ける操作は、「輝きを取り戻す」テーマを共同体の話と紐づけるうえで必要だったんだな、と。

 「輝き」テーマと恋愛要素を一本化すると、それは惹かれあう二者間限定の話(たとえば主人公とヒロイン)になります。もちろんそういうストーリーも素晴らしいですが、『響け!ユーフォニアム』は、「異質な他者の混在する吹部共同体」のメンバー全員を、それぞれの「異質性」ゆえにまるごと肯定しよう、ということにチャレンジしているっぽい作品なので、そこは分ける必要があった。

 京都アニメーションの前作『甘城ブリリアントパーク』でも、作品終盤に「パークの存続のためには、メインキャラだけじゃなくて、モブキャラも含めて、ひとりでも欠けたらダメなんだ(『トウッティ!』)」という展開が描かれていて、これについては「また頼るのかよ」と自分に突っ込みつつも、相羽さんの記事がやっぱり凄いです。あの終盤の展開と、ハルヒ的「京都アニメーション文脈」の関連。

 

甘城ブリリアントパーク/感想/第11話「これでもう心配ない!」(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

甘城ブリリアントパーク/感想/第12話「未来は誰にも分からない!」(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

 

 いや、泣きました、『甘ブリ』第12話。ひとりだけでやってきたミュースのおばあちゃんの「ごめんね、知り合いは連れてこられなかったよ。」で涙腺決壊。ミュースはたった1人しか呼べなかったし、おばあちゃんも1人で来ることしかできなかったけれど、そのたった1人がパークの存続のためには欠かせなかったんだ、というね...(観てない方にはなんのこっちゃですみません)。

 「あなたは私にとって(ハルヒ的に)特別だ」という一対一の承認関係から、「人々みなハルヒ化」へ、という『甘城ブリリアントパーク』が提示した方向性を『響け!ユーフォニアム』も引き継いでいる感があります。

 

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 実際『響け!ユーフォニアム』では、メインキャラ以外の吹部メンバーたちの描き込みが、いつもの京都アニメーション作品以上にもう尋常じゃないわけですが、もちろんこれは単なる技術力アピールではないんですよね。

 『風立ちぬ』(感想 )の、あのとんでもないモブシーンを作っているときに、宮崎駿が「こういう市井の人々が世の中を支えてるんだから、絶対に一人として手を抜いて描くな!」と言っていたという話がありますが、それと似たような執念を感じます。

 輝くのは麗奈と久美子だけじゃない。オーディションに受かった子も落ちてしまった子も、吹部全員がハルヒだ!という覚悟が伝わってくるもの凄い画面作りで、毎週「ありがたい…」という気持ちで視聴している作品です。

 

*1:これは塚本晋也監督が一貫して描き続けているテーマで、なかでも浅野忠信の演技が鳥肌モノの『ヴィタール』(2004年)は傑作でした。

*2:同時に、他者とのあいだに当然のものとしてある「距離」の存在もきちんと描かれているのも魅力で、とくに『氷菓』は『響け!ユーフォニアム』と同様に、その要素が強調された作品でした。

*3:同様に、集団から多様性が失われるとヤバいよ、ということに言及した近年の作品としては『サイコパス』(感想)が好きでした。

*4:この作品が「異質な他者の混在する共同体」をかなり意識的に全面に押し出して描いていている、という点については第8話の感想を参照。

*5:これは主に久美子。中の人ほんと上手い!もちろん、周囲のキャラクターの演技がガッチリ固められているからこそ、あの微妙なニュアンスも活きるんですが。

*6:それで、この性質・役割の違う LIKE と LOVE を、途中までは意図的にごっちゃにして描いていたので、私などは「どっち?」と振り回されてしまったんですが。それでも、第8話のアレはやっぱり「百合名場面」超殿堂入りクラスのシーンでもあると思うんだけど、これは「百合とはなんぞや?」という、いかにもモメそうな定義の話になってしまうので(笑)深追いしません。それぞれにとっての百合がある、ということで...。