『たまこまーけっと』を振り返る 第3話
『たまこまーけっと』シリーズ通してのネタバレがありますので、ご注意ください。
◯第3話『クールなあの子にあっちっち』
脚本:吉田玲子
絵コンテ・演出:小川太一
作画監督:丸木宣明
最近だと『甘城ブリリアントパーク』第4話(感想)と第10話でも素晴らしい演出を見せてくれた小川太一担当回。
『たまこまーけっと』では、今回とりあげる第3話と第10話(『あの子のバトンに花が咲く』)の絵コンテ・演出を担当しているのですが、このふたつのエピソードは、ストーリー的にも「対」になっていました。
どっちの話も、
「言いたいこと」が伝えられずにグループ(共同体)の「外」で孤立していたキャラクターが、「内」に迎え入れられる話
なんですよね。第3話で孤立している「あの子」は史織、第10話の「あの子」はみどり。
両エピソードはおそらく最初からセットとして設計されていたのだろうと思われますが、演出も同じスタッフが担当することで、より関連が明確になっていました*1。まずは、この2本のエピソードを比較しながらみていきたいと思います。
◯キャラクター間の「距離」
相似形のストーリーをもつ第3話と第10話では、演出的にも明確に重ねられたシーンが登場しました。これは放映当時、気付いた人も多そうですよね。
たまこに「ありがとう」が言いたい、たまこ達と友達になりたい、けど一歩が踏み出せない第3話の史織と、部長としての仕事を一人で抱え込んでしまい、「助けて!」の一言がいえずに孤立していく第10話のみどり。ふたりはともに、トイレの鏡のまえで悶々とします。
(左が第3話、右が第10話)
すると、そこにみどり(史織)が偶然入ってくる。あわてて出ていく史織(みどり)。
(左が第3話、右が第10話)
この2つの話でそれぞれの屈託を偶然目撃するのが、比較的接点の薄いキャラクター(史織にとってのみどり、みどりにとっての史織)というあたりがすごく好きです。
史織 ⇔ みどりのラインって、たまこを間において交流が成立している感じですよね。仲良くなってからも、2人きりで遊ぶ場面というのはいまひとつ想像しにくい(?)。
でも「近すぎない関係」だからこそ逆に見える部分、みたいなことが第3話と第10話にまたがって表現されている感じです。キャラクターひとりひとりの「あいだ」にある距離が描かれている。
SF研究家・書評家の牧眞司のツイート(2月11日)によると、2月に開催された『たまこラブストーリー』の上映会(文化庁メディア芸術祭での受賞絡みのイベント)のトークショーで、山田尚子監督は『けいおん!』と対比させて、こんな発言をしていたそうです。
牧眞司 :最初の監督作品『けいおん!』も素晴らしい友情が描かれていましたが、HTTのメンバーの結びつきと、たまこの友だちのつながりとでは、なまめかしさというか湿度が決定的に違う気がします。それは最初から意識なさっていましたか?
山田尚子:最初から意識していました。総作画監督の堀口さんとも良く話をしていました。HTTはピッタリと気が合っていて誰かがボケたら誰かがツッこむ関係がごく自然にできている。それに対して、たまこたちは底ではつながってるけれど隙間がある。その湿度をしっかり描こうと思っていました。
『けいおん!』でもキャラクター間の「隙間」、距離はさり気なく描かれていたと思うのですが*2、『たまこまーけっと』ではそのあたりがさらに追求されていましたよね。このブログで何度も書いている「たまことみどり達とでは、生きている ”物語” が違う」みたいなことも、大きな「隙間」のひとつと言えます*3。
◯共同体をまたいだ「つながり」
もうすこし第3話と第10話の対比を続けると、このふたつのエピソードでの史織とみどりって、共同体にたいしてのポジションも似ているんですよね。
第3話では、クラス替えにともなってみどりが、たまこたちの所属する「クラス共同体」の外に弾かれます。いっぽう第10話では、史織だけが、バトン部という「部活共同体」の外にいる。
うん、これ図にするほどのことじゃなかったな!図を作ってる途中で薄々感づいてはいたんですけど、でもせっかくなのでこのまま使います。
この「共同体の外と内」の関係も、第3話と第10話共通で、演出的に強調されていました。第3話、たまこと同じクラスになれずにガッカリするみどりと、第10話、バトン部のミーティングの様子を「楽しそう…」と見つめる史織。
(左が第3話、右が第10話)
みどりの「違うクラスだ…」にやられた人も多いはず。たまこを慰めながら、じつは自分のほうがもっとヘコんでいる。この「たまこの前でしっかりしていたい」という気負いが第10話の自爆につながるわけですね。『たまこまーけっと』の「切ないセクション」担当、みどちゃんの本領発揮です。
このように、どちらの話でも、共同体の「外」から「内」を「いいなあ...」と見つめる視線が描かれるわけですが。
でも、第3話で「クラス共同体」の「外」に弾かれたみどりは、それでもたまこたちと近い。孤立しているのは「クラス共同体」の「内」にいる史織のほうです。
第10話も同様の構図になっていますよね。バトン部という「部活共同体」の「内」にいるみどりよりも、「外」にいる史織のほうが、たまこたちとつながっている。
オフィシャルな共同体(クラスや部活)の「内」にいる者同士だから距離も近い、「外」にいるから遠い、という関係性ではないんですよね。共同体の枠の「外」にいたとしても、近づきたいという気持ちがあれば、つながることができる*4。
そして、孤立しているキャラクター(第3話なら史織、第10話ならみどり)とたまこのあいだの相互理解が成立するための「最後の一押し」をするのも、「共同体の外にいながら、内のたまこたちと近い」キャラクター(第3話ならみどり、第10話なら史織)でした。中間的なポジションにいるキャラクターが、人間関係をとりもつんですね。
このような「閉じていない共同体」のイメージ、「共同体の枠を超えたつながり」は『たまこまーけっと』がこだわって描いていたモチーフのひとつです。
たとえば第7話で「商店街共同体」の「外」に嫁いでいった「うさ湯」のさゆりさん。第2話時点で、こんな中間的ポジションに座ってましたけど、
結婚 → 引っ越し後の第10話、たまこたちの晴れ舞台はしっかり観にきています。
そして最終回でも「たまや」におもちを買いにきていました。
さらに『たまこラブストーリー』で、「日常のカタチの変化」に戸惑うたまこを元気づけたのも、商店街の「外」に嫁ぎながら「内」との行き来を繰り返すさゆりの姿でした。さゆりさん、ほんと重要キャラですね。
つながろうとする意思さえ失くさなければ、共同体の「外」に出て行くことは「リンク切れ」じゃなくて、むしろ「リンクの拡大」になるんだ、というこのような志向は、最近では『Free!ES』(2期)でも描かれていました。
◯おもち → きもち → とりもち
ここまで見てきたような、第3話と第10話をまたいで描かれる「キャラクター間の距離」や「開かれた共同体」というテーマのほかに、第3話では、デラの「とりもち」化も進行します。
第1話の感想に書いたように、『たまこまーけっと』では「おもち」はどストレートに「きもち」のメタファーでした。
その「おもち」を食べすぎてデブ化=「おもち」のような外見になったデラは、人と人との「あいだ」にある気持ちを「とりもつ」ようになる(「鳥」+「餅」=「とりもち」)。
デラにはもともと、人と人とをつなぐ通信機能が備わっていたわけですが、その機能が壊れはじめてからは、より直接的に人と人との「あいだ」をとりもつ役割を(意識的・無意識的を問わずに)果たしはじめます。そのはじまりが描かれたのが、この第3話。
まず、アバンでたまこが、デラの外見が「もち」に似てきたことを(再確認的に)指摘します。
「デラちゃん、最初に会ったころとぜんぜん違うよ。焼く前と焼いた後のおもちぐらい違うからイイ感じ。」
たまこさん、なぜか嬉しそうです。さすが変態もち娘(©かんな)。
デラが今回「とりもつ」のは、史織とたまこの「あいだ」です。史織に一目惚れしたデラは、人見知りな彼女を何度も商店街の「内」に誘います。
「北白川さんに、伝えてください。”このあいだはありがとう” って。」
「それは、自分でいったほうが良いにきまっている。」
大人の表情をみせるデラ。結果、史織とたまこはめでたく友達に。デラさん今回のMVPですね…にも関わらず、たまこと史織からの扱いは容赦ないです。
たまこ「ていうか、デラちゃん来なくていいよ。朝霧さんにつきまといすぎだし。ねぇ?」
史織 「あの、わたし、羽根が好きだからバドミントンやってるわけじゃないんで。」
美少女たちからダブルでこの仕打ち、これはこれでマニアには堪らないかも。たまこの笑顔と、史織の口調の温度の低さが高ポイントですね。『河合荘』のシロさんならきっと歓喜。
今回のデラはたしかに史織にがっつきすぎだし、それに対してたまこ達もこんなふうに容赦なく対応するんだけど、でもそれはあくまでギャグの範疇。この作品のキャラクターたちは、みんな、大事なところでは他者との適切な「距離」を保とうとする配慮のできる人(鳥)たちです。
「もし、わたしやデラちゃんが迷惑かけてたら、ちゃんと言ってね。このあいだも、ずいぶん、馴れ馴れしかったなって。」
「下町人情もの」っぽい雰囲気も備えた『たまこまーけっと』ですが、「人と人とのあいだには、距離も必要」という感覚はしっかり描かれています。シリーズ構成を担当した吉田玲子のインタビューから。
「(…)商店街のみんなをはじめ、登場人物たちには遠慮がないように見えるけど、実際にはちょっとずつ遠慮しているっていう空気感、ですかね。」
「(…)人の心に土足で入ってくる人がいないっていうことなのかなあと。それが、この世界を作ってる大切なものなんだと思うんですけど。みんな人の気持ちがわかるんですよ。それは鳥ですらっていう(笑)」
(『Cut』2013年2月号)
このような意識のもとに作られている『たまこまーけっと』の中でも、第3話と第10話は「キャラクター間の "距離" が縮まる話」だっただけに、余計に「人と人とのあいだに、当然のものとしてある "距離"」の存在が強調されたエピソードでした。
◯むすび
今回、花屋の主人から史織に贈られた花は「スイートピー」。花言葉は「ほのかな喜び」「門出」「別離」「優しい思い出」「永遠の喜び」「私を忘れないで」などだそうです。
卒業・入学シーズンの花っぽいですが(作中の時間軸は4月上旬)、奥手な史織が勇気をだして一歩を踏みだしたこのエピソードにあてはまるのは「門出」「ほのかな喜び」あたりでしょうか。
第3話では、なかなか一歩を踏み出せない史織の心の揺れがきめ細やかに描かれましたが、その裏で、たまこもそれなりにモヤモヤを抱えていたはずですよね。
史織の目をきちんとみながら「わたしやデラちゃんが迷惑かけてたら、ちゃんと言ってね。」という言葉を口にするには、かなりの勇気がいったはず。デラを置いて「星とピエロ」に二人きりでいったのも、「よし、今日はちゃんと朝霧さんに伝えよう!」という決意があったからだと思います。
たまこはたまこなりに勇気をふり絞ったはずなんだけど、でも、そのような彼女の心の揺れは、史織ほど突っ込んでは描かれません。
前回、第2.5話の感想で、この作品の重層構造、物語を切り取る「視点」の特異さについて書きました。
第2話のように、たまこと、それ以外のキャラクターたちの生きる「物語」の違いはあまり出ていない第3話でしたけど、主人公のたまこよりも史織の気持ちにフォーカスするという「視点」の置き方という意味では、この話もまた『たまこまーけっと』らしい特色を備えたエピソードだった、と言えそうです。
*1:余談ですが、第2話と第9話もストーリーの「型」が対になっているエピソードで、それと呼応するように演出も同一スタッフ(三好一郎=木上益治の別名儀)が担当しています。『甘ブリ』の小川太一担当回=第4話と第10話も対になった話でしたね。こういう配慮のある人員配置は嬉しい。
*2:たとえば『けいおん!!』(2期)の学園祭ライブ後、3年生たちは泣くけれど、2年生の梓だけは泣かない(立場が違うので、先輩たちの卒業がまだピンときていない)とか。逆に、卒業式では3年生はもう吹っ切れて明るい顔なのに、梓は寂しくなって泣いてしまうとか。エピソードをまたいでの、キャラ間の距離を捉えたディティールが素晴らしかったです。
*3:関連記事『たまこまーけっと』を振り返る 第2.5話 ~ 作品の視点の特異さについて
*4:いまメインで所属している共同体に馴染めなければ(そしてそこからの離脱が難しければ)、他にもっと居心地の良い共同体に所属する時間を持つことでストレスを分散できる、という「複数の共同体への多重所属」みたいな文脈ともとれます。ただ『たまこまーけっと』に関しては、作中の共同体が「閉塞していない、外部との交通が確保されている」共同体である、という点を強調してみたい。共同体の「枠」が柔軟で、空気の通りが良い感じ。とくに商店街に関しては、意識的にそのような描き方がされていると思います。