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「まーけっと」から「ストーリー」へ 〜 『たまこラブストーリー』への期待と妄想

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 いよいよ公開が近づいてきた『たまこラブストーリー』。

 テレビシリーズのファンとしては、すごく楽しみなんです。公開に先立って、TBSオンデマンド他で『たまこまーけっと』の全話無料放送もあるそうです。こんどの週末、4月19日(土)24:00 ~ 4月20日(日)23:59 まで。 ←終了しました。

 

「たまこラブストーリー」公...:ニュース | TVアニメ『たまこまーけっと』公式サイト

 

 これは嬉しい企画。

 ただ、この告知ページにある "『たまこまーけっと』 を見るとさらに 『たまこラブストーリー』が楽しめる!" という宣伝文句。

 これ、逆に考えれば「必ずしも 『たまこまーけっと』を見ていなくても、『たまこラブストーリー』は楽しめるよ」ともとれるわけで、おそらくその通りに『たまこラブストーリー』は、独立した1本の映画として楽しめる仕上りになっている… いや、なっていてほしい!と考えています。『たまこまーけっと』(以下『たまこま』)とは、雰囲気から物語の構造から語り口から、かなり違うものになっているはず。

 というわけで、今回は映画の公開を前に『たまこま』が物語としてどのような構造をもち、どんなふうに魅力的な作品だったのか、を振り返ってみたいと思います。それにたいして『たまこラブストーリー』はどういう作品になっているのか?という期待(ファンの妄想)。

 なお、今回の記事は、こちらのなが~い記事(『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊤ - ねざめ堂織物店)の、短縮版という性格をもってます(いうても、けっこう長いんですが…)。『たまこま』のネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

◯物語のふたつの型 ~線的な物語

 

 『たまこま』は、ちょっと特殊な構造を持った物語でした。その特殊さをわかりやすくするために、ここで、物語の「型」を二種類に分けてみたいと思います。「線的な物語」と「面的な物語」。

(この分類は私が勝手に言っているもので、頭のいい人がもっと上手い表現をしていそうな気もします。あくまで素人の自己流、と思ってください。)

 

                      ◯

 

 まずは「線的(リニア)な物語」。「プロット主導型の物語」なんていわれるものは、こっちに分類されます。

 これはオーソドックスな「物語らしい物語」で、主人公がなにかしらの「求めるもの」にむかっていく様子を追うものです。*1

 宝を求めて勇者が冒険する昔話や神話はこのパターンですが、求めるのは「モノ」に限りません。オデュッセウスは妻の元への「帰還」を、桃太郎は鬼たちによって失われた「平和の回復」を、『僕は友達が少ない』の小鷹は「友達」を求めます。

 この「線的な物語」を、ちょっと冷や汗がでるぐらい簡略化して図にすると、こうなります。

 

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 A地点から、主人公が「求める物」のあるX地点を目指して歩いていく途中で、様々な障害が行く手を阻む。この障害が険しいものであるほどドラマは盛り上がり、その障害に対する主人公の反応、葛藤を描くことで、彼/彼女の「内面」が受け手に説明されていく。これが主人公への感情移入を誘います。

 『魔法少女まどか☆マギカ』では、「人の役にたちたい」という願い=「求めるもの」をもった主人公が、その願いをなかなか実行に移せないことが物語の牽引力になります。その決断を鈍らせるように、彼女の行く手には「障害」=次々と酷い目にあっていく他の魔法少女たち、が配置されていく。

 主人公は、最終的にX地点にたどり着けることもあれば、挫折することも、あるいは物語の最初には思いもよらなかったY地点に到達することもあります。

 

◯物語のふたつの型 ~面的な物語

 

 いっぽう「面的な物語」。これはシリーズ物によくみられるパターンです。

 あらかじめ作られた、作品世界の舞台や登場人物といった設定の集積(非物語)。そこから任意の要素を抜きだして、組み合わせることで物語が作られていくようなタイプの作品。図にすると、こんなイメージです。*2

 

 

  

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 …でかくてすみません。

 「サザエさん」のような四コマ漫画や、そのアニメ化作品はこっちのパターンですね。あるいは『奥様は魔女』『フルハウス』のように、まさに「設定された状況(シチュエーション)」から物語が読み出されていく、シチュエーション・コメディ

 深夜アニメの「日常系」と呼ばれるような作品は、この「面的な物語」の傾向が強いといえます。「求めるもの」に向かっていく主人公の姿をメインに追うのではなくて、さまざまなキャラや舞台、状況の「組み合わせ」によって各エピソードが語られていく。「脱物語的」なんていわれることもある「物語」。*3

 この「面的な物語」では、必ずしも主人公を中心に物語が語られる必要がありません。各要素の「組み合わせ」によって作られる物語では、作品の「中心」、物語の原動力としての主人公の重要度は「線的な物語」に比べると低い。『みなみけ』や『ゆるゆり』などで、主人公抜きのエピソードがけっこう多いことを思い出してもらえば良いと思います( \アッカリ~ン/ )。

 

                       

 

 ふたつの物語を音楽にたとえると、「線的な物語」は、「短調から長調へ/苦悩から勝利へ」のように、明確な構成をもつベートーヴェン交響曲。「面的な物語」は、場や雰囲気の描写を主眼においたドビュッシー交響詩、という感じでしょうか。

 

◯『たまこま』のわかりにくさ

 

 『たまこま』は、一見「面的な物語」寄りの作品に見えます。

 登場人物たちがそれぞれに持つ「物語」が、一話のなかで並列的に語られたりする。たとえば、第9話『歌っちゃうんだ、恋の歌』では、恋にまつわる、様々な人たちの様々な想いが、時間を超えて同時進行的に描かれていきます。

 「この人の恋が、こういう風にはじまって、こんな結末になりました」という描き方をするのが「線的な物語」ですが、『たまこま』では「作品世界に、こういう人たちの、こういう気持ちが漂っていますよ」という「状態」を描く、という手法がとられています。

 そして、主人公であるたまこは必ずしも物語の中心にはおらず、むしろサブキャラクターのみどりやあんこ、もち蔵らの「物語」を通して、彼/彼女らの「葛藤」が描かれることも多い。

 「線的な物語」のところで、葛藤を描くことが「内面」の説明になる、と書きました。でも「葛藤」のほとんど描かれないたまこの「内面」は説明されない。だから主人公なのに、サブキャラクターよりも感情移入がしにくい。

 個人的には、このあたりに『たまこま』という作品のやっかいさ、わかりにくさがあったと思います。

 

◯たまこの「物語」

 

 でも、最終回まで観た人には、この作品の中でたまこが何を思い、行動していたのかが、ちゃんとわかるようになっていました。

 最終回で語られた、シャッター商店街のエピソードがたまこの感情を理解する鍵になっていて、つまり彼女は、母のひなこが死んでしまったときに出現したシャッター商店街という「非日常」の光景にショックを受けた。

 大好きな母が死んでしまったという「非日常」な出来事と、「非日常」的なシャッター商店街の光景がダブってしまった。それ以来たまこは、ひなこのいない、新しい「日常」を積み上げ、その「日常」が展開される場としての商店街を盛り上げるために、いろいろな企画を立ち上げて奔走するようになります。

 それを知ったうえで、たまこの企画にかける過剰なまでの必死さや、人気のない商店街を見ていまだに動揺してしまう様子(第6話『俺の背筋も凍ったぜ』冒頭)を思い返すと、彼女はまだ母の死から完全には立ち直っていないことがわかります。いつもニコニコ笑っているけれど、まだ大丈夫じゃないところもある。

 山田尚子監督は、インタビューでこんなふうに言っていました。

 

ーー「監督の作品が描くのはハッピーな世界だけど、この子たちも膝を抱えてないわけじゃないっていう」     

山田「ああ、絶対抱えてるんですよ(笑)」

ーー「だけど、わざわざそこは書かなくてもいいんじゃないかと」

山田「そうですね、うん。そこを見せないと共感してもらえないような作品にはしたくないんですよね。みんな絶対に孤独な時間があって、孤独な思いをしてて。もうどうしようもないぐらいの時もあると思うんですけどね、それを見せたがる主人公ではあってほしくなくて」 

(『Cut』2013年2月号)

 

 

◯『たまこま』の二層構造

 

 たまこの母が5年前に亡くなっている、という「情報」は、第1話早々に、たまこ自身の口から告げられていました。でも、そのことでたまこがどのぐらいのショックを受けたかという、感情に色づけされた「記憶」は、最終回まで語られない。

 どうしてそんな操作がされたのか?もちろん「ベタな "泣かせ" をやりたくない」という意識もあったのかもしれませんが、なにより作品が「健気なたまこの物語」という一本の線に回収されてしまうことを避けるためだったのではないか、と思います。

 母の死によって、それまで過ごしてきた「日常」の断絶を経験した少女が、新しい「日常」の構築を求めて歩き出す。これは「線的な物語」となりうる設定です。でも『たまこま』は、その「線的な物語」を物語の土台に埋めてしまった。そして、その上で「面的な物語」を展開しました。

 「線的な物語」は、そのくっきりとした輪郭ゆえに、非常に強力な吸引力を持ちます。もちろん、そのような物語によってしか表現できないこともある。でもたまこが求めているのは、なにげない、だからこそ貴重な「日常」≒「面的な物語」です。

 「日常を求めるたまこの物語」という「線的な物語」を前面に出したとします。「日常」の貴重さを、たまこが声高に訴える。すると、その瞬間に「日常」「日常」たる所以の「なにげなさ」はかき消され、たまこ自身が「日常」の撹乱者になってしまう。それを避けるための操作だったのではないか。*4

 作品の深層では、たまこはまぎれもなく主人公です。でも作品の表層で展開されているのは、主人公が特別視されない「面的な物語」。これが、最初に話題に出した『たまこま』の構造の特殊さです。

 

                     ◯

 

 たまこが怯えたシャッター商店街の映像は、どうしても、先の震災で「日常」が途切れたイメージと重なります。

 『たまこま』は、「震災後のいま "日常" を描く意味」を、制作者たちが自らに問いかけつつ作った作品だと思うのですが、その中でこのような特殊な構造が要請されたのではないか。「日常」を描く意味を確認しつつも、「日常」の貴重さを声高に訴えないための二層構造、だったのではないでしょうか。

 

◯うさぎ山商店街の多様性

 

 このような土台の上に展開される『たまこま』の登場人物は多彩で、これはこの作品の大きな魅力のひとつです。

 商店街のおじさんやおばさん、学生、老人、こどもたち。トランスジェンダーレズビアン(みどりがどうなのかはさて置いて、第8話『ニワトリだとは言わせねぇ』に登場する服屋の店主は「ひょっとして」と匂わせる発言をします)。

 豆大と吾平は「保守」と「革新」の思想の違いからいつも小競りあいを繰り広げ、でも最終的にはお互いの存在を認めています。たまこはその中道をいっており、「様々なイデオロギーの共存を目指す」という、本来的な意味でのリベラル(なので、異性のもち蔵と同性のみどり、両者から好意をよせられます)。

 その商店街に、外から外国人や喋る鳥が入ってきたり、銭湯の娘が結婚して出て行ったりする。うさぎ山商店街は、多様性にとんだ「動的均衡」のうえに成り立っていて、場所そのものが非常に魅力的です。

 こういう「面/場所」の魅力は、「たまこの線的な物語」にフォーカスしていたら、存分に描くことができなかったでしょう。

 

◯「まーけっと」から「ストーリー」へ

 

 土台に「線的な物語」を隠しながらも、「面/場所」=「まーけっと」の魅力を描いた『たまこま』をふまえて、『たまこラブストーリー』ではたまこの「線的な物語」がいよいよ表面に出てくるようです。「線的な物語」でしか描けないことを、しっかりと描いてくれているんじゃないかと。

 おそらくは、この企画は最初からテレビシリーズと補い合うような形で、セットで構想されていたんじゃないかな、と想像します。

 映画公式サイトに掲載されている、山田監督のインタビュー。

 SPECIAL | 『たまこラブストーリー』公式サイト 

 

「TVシリーズの  "たまこまーけっと" ではたまこがいる場所を描いていました。今回はたまこ自身に焦点を当てて物語を描くことになりましたので、たまこのストーリー、しかも恋愛がメインということで "たまこラブストーリー" というタイトルに決まりました。」 

 

 そして、こんな発言も。

 

「感情を表現することをちゃんとしよう、観てもらう人に?がないようにしようと考えてました。小さな積み重ねをしつつ、一個一個のシークエンスでなるべく謎を残さないように描いています」

 

 テレビシリーズでのたまこの感情は「こまかい描写の積み重ねに注意していればわかる」「最終回まで観て、振り返ればわかる」といった感じで、さきに見たような作品の構造上の要請もあって、あからさまな説明は避けられていたのですが、そのあたりをもうちょっと親切にするよ、と。

 でもそのいっぽうで、

 

「今回は望遠レンズを意識したレイアウトが多いです。ラブストーリーは望遠かな、と」

  

 ということも言っていて、山田監督らしい、作り手と対象とのけっしてベタつかない距離感はキープしてくれそうです。*5

 『けいおん!』『たまこま』には共通して、キャラにべったりと寄り添うのではなくて、どんな場面でも一定の心理的な距離を必ずキープする品の良さというか、潔癖さがあって、そこが好きでした。たとえばキャラが泣いている場面でも、一緒になって泣くんじゃなくて、すこし離れたところから「よしよし」と優しく見守るかんじ。

 なので、この「距離感」と「わかりやすさ(感情表現のベタさ)」とのバランスをどう取っているかが、個人的には映画の注目ポイント。自分のような暑苦しいファンだけじゃなくて、『たまこま』を知らない人が、ポスターや予告編の雰囲気に惹かれてふらっと観ても楽しめる。そういう映画になっているといいな、と思います。

 

 

◯おまけ

 

 もうすぐデビュー30周年、アメリカの老舗ロックバンド、ザ・フレーミング・リップス

 彼らの代表曲のひとつ、『 Do You Realize?? 』(2002年)のビデオ・クリップには「アーケード」「ウサギ」「4人の女の子」という『たまこま』的アイテムが登場します。

 偶然だとは思うんだけど、曲も歌詞も映像も、すごくそれっぽい世界観なんです。多幸感あふれるムードのなかで、「わかってる?君の知っている人はみんな、いつか死んでしまうってこと」と笑顔で歌いかけてくる感じ。

 「これ『たまこま』じゃん!」って思いました。逆か。勝手に裏テーマ曲認定。

 

 


The Flaming Lips - Do You Realize?? [Official ...

  

*1:ウラジミール・プロップやジョセフ・キャンベルが整理したような物語の「型」は、すべてこちらの「線的な物語」に含めています。

*2:この図は、東浩紀動物化するポストモダン』に登場する「物語のデータベース消費」の図を形だけパクらせてもらって、さらに単純化したものです。

*3:もちろん、実際には「面的/線的」という明確な分類ができるわけではなく、両極のあいだには様々なグラデーションがあります。「日常系」と呼ばれる作品にも、『けいおん!』のように「夢中になれること」を「求めて」部活に入った主人公を中心に、時間経過にともなうドラマ(卒業、進学)を強調した「 "線的な物語" 寄りの "面的な物語" 」もあれば、『ゆるゆり』のように作中時間を繰り返すパティーンの「より面的な物語」もあります。『ドラえもん』は、要素の組み合わせによって話が作られていく「面的」な作品ですが、いつも何かを「求める」のび太が、ひみつ道具に頼って失敗する姿をメインに「線的」に話が進行します。この分類は、あくまで便宜的な「傾向」の話として受け取ってもらえれば、と思います。

*4:この「操作」にはもうひとつ理由があると思っていて、そのあたりはこの記事の元ネタの長文のほうに書きました。

*5:今回は絵コンテをすべてひとりで描いたそうなので、より作家色の出た仕上りに期待(『映画 けいおん!』では、ロンドン編を石原立也監督が担当。さすがの安定感でした)。