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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』感想

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 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』(2019年)*1のネタバレ感想です。

 この記事は、以前書いた『ヴァイオレット』テレビ版感想記事へのごく簡単な付け足し・補遺という位置づけです。そのため、↓を読んでいないと分かりづらい個所があるかもしれません。ご了承ください。

 

感想①:変えられる / 変わってしまうものとしての過去

感想②:他人のなかの未来の自分

感想③:未来の流入

感想④:他者の流入

 

 記事の最後では、公開中の『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(公式サイト)の個人的な「見所」についてもちょっとだけ書いています。

 

 

◯テレビ版(前提)

 まず最初に『ヴァイオレット』のシリーズを通して描かれているテーマについて再確認しておくと、このシリーズは、テレビ版から、つづく『外伝』、そして公開中の『劇場版』にいたるまで、一貫して「時間」をテーマとして扱っています(テレビ版の感想記事でもしつこく書いたことですが、大事なことなので)。

 もうちょっと具体的にいうと、過去・現在・未来のあいだの相関関係について。

 時間は、一般的には(われわれの日常的な感覚としては)、過去から現在、そして未来へと、直線的に流れて / 不可逆に積み重なっていくものだ…みたいな捉えられ方をすることが多いとおもいます。

 固まったコンクリートのような「過去」という土台があって、それが示す方向性の延長線上に「現在」「未来」が積み上がっていく。

 でも『ヴァイオレット』においては、過去・現在・未来はそのように直線的に進んでいくだけのものではなくて、ときには相互に影響を与えあいながら、見方によってはひとカタマリの状態で動的にゆらいでいるものなのだ、みたいな認識が提示されている...と書くと、哲学とか好きな人は「あーそういう話か」とピンとくるものがあるかもしれません。

 テレビシリーズ中、上記のテーマ面でとくに重要だったのが第7話と最終話。この「対」になったふたつのエピソードでは「 ”過去” の捉えなおしと ”未来” への志向が交差した地点に “現在” が立ち現れる」という境地が映像として表現されていました。

 

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 ベンヤミンモナド

 

◯『外伝』

 テレビシリーズにつづくスピンオフ『外伝』にも「過去・現在・未来の相関関係」というテーマは引き継がれています。

 『外伝』では、生き別れになった義理の姉妹を軸に、ふたつの物語が展開されていきますが、ふたりはそれぞれ「過去」と「未来」を象徴的に背負ったキャラクターです。

 

姉:妹との「過去」にとらわれ、「未来」に絶望しつつ女学院に軟禁状態にある

妹:姉との「過去」の記憶を失い、「未来」の職のため都会にやってくる

 

 姉は「過去」に、妹は「未来」に強く偏っている。

 逆にいえば、姉は「未来」を、妹は「過去」を喪失したキャラクターなんですね。

 姉の物語が人里を離れた古めかしい女学院で、いっぽう妹の物語が発展著しい大都会でそれぞれ展開されるあたりも、「過去」と「未来」の対比を際だたせています。*2

 離ればなれになったこの姉妹にヴァイオレットが関わっていくことで、姉は「未来」への展望を、妹は「過去」の記憶を取り戻す。偏りがならされ、均衡が回復する。結果、クライマックスでは、ふたりの前に生き生きとした「現在」の感覚が立ち現れる…という物語構成になっています。

 公開当時、ちょっと有名になった三つ編みのシーン。

 

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「二つではほどけてしまいますよ、テイラー様。三つを交差して編むと、ほどけないのです。」

 

 これはもちろん、人間関係のあり方を示唆したセリフではあると思います(以前の記事でも触れた過去のヴァイオレットとギルベルトのような関係...他者を排除したセカイ系的な「きみとぼく」ではダメなんだ、みたいなこと)。

 でも、もうひとつ、これまで見てきたような『ヴァイオレット』シリーズにおける時間の扱い…「過去・現在・未来の相関関係」を表している、という受けとり方もできるんですね。

 「過去を想う現在」だけでも「未来を想う現在」だけでもなく、過去・現在・未来の三つが揃えば「ほどけない」。

 

  

◯『劇場版』

 そして、これは物語の直接的なネタバレではないので書いてしまうけど、公開中の『劇場版』においては、ヴァイオレットたちの孫の世代にあたる少女が視点キャラクターとして登場してきます。

 つまり、テレビ版や『外伝』でこれまで描かれてきた世界がまるごと「過去」として扱われ、それと、少女のいる「現在」との関係が紡がれていく。

 しかし、少女にとっての「現在」も、われわれ2020年の観客の目からみるとだいぶクラシックな、擬似的なノスタルジーを呼び起こす世界として描かれています。

 ということは、観客は(相対的な)「未来」のポジションから、作中の「現在」や「過去」に貫入していく、というメタ構造を備えた作品だ…という捉え方も可能なんですね(エンドロールの最後に流れる曲のタイトルは『未来の人へ』*3)。

 そして、観客の存在を巻き込んで、過去・現在・未来が三つ編みのように縒り合わせられ、あたかも同時に存在しているかのような状態が出現する。

 『ヴァイオレット』シリーズには、そのような時間認識が通奏低音として流れている…ということを頭の片隅において『劇場版』を観てみるのも楽しいんじゃないかな、とおもいます。

 とかいいつつ、先日私が『劇場版』を観たときは、画面から伝わる「圧」の凄まじさに圧倒されて、ここまで書いたような御託はきれいさっぱり頭から吹っとんでいたんですが…。あれは尋常じゃないですよ、マジで。

 

*1:外伝公式サイト  先日ネットフリックスでの配信がはじまりました。→ ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 - | Netflix

*2:『外伝』ブルーレイブックレットの「世界観解説」には「女子用の学校は大都市から隔離された過去に修道院や城塞だった場所に設置されることが多かった。」という記述があります。「過去」の遺跡に閉じ込められている感。いっぽう都会(ライデンシャフトリヒ)は、建設中の電波塔を中心に「未来」への活気にあふれた場所として描かれます。

*3:『未来の人へ』は元々は2018年のテレビシリーズにあわせて制作されたボーカルアルバムに収録されていた曲だそうですが、石立太一監督から「劇場版で使いたい」というオファーがあったそうです。(『劇場版』パンフレット TRUE × 芽原美里 対談記事)