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『アイリッシュマン』感想:ビジョンの消失

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 マーティン・スコセッシ監督『アイリッシュマン』(2019年)の感想です。

 ド傑作でした。いろいろな面で素晴らしい映画だけど、とりわけ脚本がすごい。

 スティーヴン・ザイリアンって作品ごとの当たり外れが激しい人なので、事前に名前を見たときはちょっと不安だったけど、いや疑ってすみません。脚本、匠の領域だった…。

 長大な歳月を扱ったストーリーをがっちりとした構造で支えながらも締めつけすぎず、自在な時間軸の操作を行いながらも作為やストレスを感じさせず、豊富なダイアローグは活き活きと自然。これ、ザイリアンの最高傑作なのでは?

 (時間の扱いの見事さに関しては、もちろん編集の力も大きいと思います。)

 


『アイリッシュマン』最終予告編

 
 

 以前このブログでは、デビューから『沈黙 -サイレンス-』(2016年)時点までのスコセッシのキャリアを大雑把に振り返る、という記事を書いたことがありました。

 

マーティン・スコセッシ:ビジョンの拡大と収縮(前編)

 

 今回の記事は、その補遺という位置づけです。そのため、リンク先の記事を読んでいないと、ややわかり辛いところがあると思います。ご了承ください。

 以下の本文では『アイリッシュマン』にくわえて、『沈黙』『グッドフェローズ』『ゴッドファーザー』のネタバレをしています。

 

 


◯ふたつの組織:①イタリアン・マフィア

 

 『アイリッシュマン』には、大きくみてふたつの組織 / 共同体が登場します*1。①イタリアン・マフィアと、②全米トラック運転手組合(IBT)。

 このふたつの組織の利害が複雑に絡みあい、IBTの委員長やマフィアのボスといったヤクザな男達が、謀略の渦巻くパワーゲームを繰り広げます。その渦中に、主人公が呑みこまれていく。


                    ◯


 まずは、ジョー・ペシ演じるボスが君臨するイタリアン・マフィアについてみていきたいのですが、このマフィア世界においては、主人公は基本的には部外者、よそ者です。

 ロバート・デ・ニーロが演じる主人公は、タイトルにもなっている通りアイルランド系ですが、イタリアン・マフィアの世界において、本当の意味で組織の内側に入ることができるのは、イタリア系の人間だけなんですね。血統が重視される、旧弊で閉鎖的な共同体。

 映画の序盤で、マフィアのボスの妻が「血統書つき」であることが紹介されるシーンがありましたが、これはイタリアン・マフィア界の純血主義を強調しているシーンでした。

  

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「彼女はマフィア界の王室の出なのだ。彼らはイタリア版のメイフラワー号の乗客だ」

 

 この事実を淡々とナレーションする主人公は、けっして彼らの「メイフラワー号」に乗りこむことはできません。

 レトランで主人公がイタリア系同士のモメ事を仲裁した際のセリフにも、イタリア系コミュニティから最終的には疎外されている主人公のポジションがあらわれていました。

 

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 アイルランド系の主人公は、どんなに組織内で重用されようとも、最終的には部外者…という、これは『グッドフェローズ』(1990年)と同じキャラクター配置です。

 『グッドフェローズ』の主人公は、父親がアイルランド系で母親がイタリア系でしたが、混血(という言葉をとりあえず使います。「純血」は幻想ですが)の彼は、子供のころから憧れたイタリアン・マフィアの世界に、本当の意味で入っていくことはできませんでした。

 だから、イタリア系の友人・トミーがマフィア内輪のモメ事で消されてしまう...というときも、何一つ手出しをすることができなかった。この展開について、スコセッシはこんな風に話しています。

 

トミーがあのような最後を遂げるのには意味がある。(主人公の)ヘンリーやジミーには手の届かぬ場所での出来事であり、イタリア人同士の内輪の問題だからだ。(…) ヘンリーも、またジミーすら、この大組織に属してはいない。

スコセッシ・オン・スコセッシ【増補新装版】  | フィルムアート社)

 

 ここで思い出されるのは、映画の予告編でもさんざん使われていた例のシーンです。主人公が、マフィアのボスから「アイルランド系でこれを持っているのは、世界でお前だけだ」みたいな言葉とともに、指輪を贈られるところ。

 

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 ここだけを切り取ると、アイルランド系である主人公が、イタリアン・マフィアの内側に迎え入れられたみたいに思えます。そのような見方もできなくはない。

 しかしその後の展開をみると、主人公は、彼の恩人であるIBTの元委員長・ジミー・ホッファを消す、という組織内の決定にたいして、ほとんど無力だったことがわかります。

 

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 この一連の電話シーンで、主人公はホッファを救おうと懸命に説得をおこないます。でも、マフィアのボスが主人公に内緒でかけた電話で、ホッファの処分は決まってしまう。

 決定は主人公の手の届かないところで下され、それにたいして、彼はまったく手出しができないんですね。友人を救えなかった『グッドフェローズ』の主人公たちと同様に。

 

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※『グッドフェローズ』:友人の処刑の報せを聞くロバート・デ・ニーロ

 

 というか、今度は主人公が、恩人であるジミー・ホッファを自ら殺害するよう強要されるわけで、事態の残酷さが数段深刻になっています。


                    ◯


 『グッドフェローズ』の感想のなかで、主人公にとってのマフィアの世界は、映画監督・スコセッシにとっての「黄金時代のハリウッド」だ…みたいなことを書きました。

 1942年生まれのスコセッシは、映画狂として恋い焦がれるその時代に間に合わなかった作り手です。彼が映画界に入るころには、ハリウッドの黄金時代を支えたスタジオ・システムは崩壊していた。

 監督 / 主人公は、その世界の内側に入ろうとどんなにあがいても、最終的には外側から「観客」として眺めることしかできない*2。同様のもどかしさが『アイリッシュマン』でも描かれています。

 

 
 
◯ふたつの組織:②全米トラック運転手組合

 

 いっぽう、アル・パチーノ演じるジミー・ホッファが委員長を務めた、全米トラック運転手組合(IBT)。

 こちらはイタリアン・マフィアと違って、血統を問題にしない組織です。労働者であれば、(理念上は)誰でも正式なメンバーになることができる。

 ホッファが、大統領に就任したジョン・F・ケネディの姿をテレビで観ながら悪態をつくシーンがありましたが、ここでの彼のセリフは、ホッファ ≒ IBTの性質をよく表していますね。
 

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アイルランド系とかカトリックとかは関係ない。俺が世の中で信用できないのは、金持ちの子供だ。特にあのクソ野郎!」

 

 よく知られるように、ジョン・F・ケネディアイルランド系としては初めて、そしてカトリック教徒としては現時点までで唯一、アメリカ合衆国大統領に就任した人物です。ちょっと珍しいバックグラウンドをもっていた大統領。

 でも、オレがJFKを嫌いなのは、そんな血統やら宗教やらが理由じゃない、そんなもんはどうでもいいんだ!と。口汚いけど、発想の根本はわりかし民主的?なんですね。

 やがて主人公はホッファから直々に請われ、IBTの内側、ど真ん中に招き入れられます。

 

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 ホッファからの勧誘に感激し、おもわず顔を歪める主人公。あまり感情を表に出さない人物だけに、印象深いシーン(劇中で主人公が感情を露わにするのは、ホッファ絡みのシーンがほとんどです)。

 ここ、後々の展開を知っている2回目以降の鑑賞ではけっこう辛い気持ちになるんですが…。
 

                    ◯


 ここまで、イタリアン・マフィアとIBT、ふたつの組織の性質の違いについて見てきました。

 主人公は双方の組織に恩人をもっており、両者のあいだで板挟みになるわけだけど、でも、どちらにより個人的な親しみを感じていたかというと、おそらくはジミー・ホッファのほうなんじゃないかな、という感じがします。

 自分を高く評価し、信頼し、組織の中枢に招き入れてくれたホッファ。対してイタリアン・マフィアのボスは、打算がらみで主人公と接している割合が、ホッファに比べると多いように見えます。

 主人公を「殺人もこなす便利な手駒」として使い始めた経緯もそうだし(ハーヴェイ・カイテル演じるマフィアのボスと組んで、ミスを犯した主人公を脅した感じ)、パーティーで指輪を贈る例のシーンからも「おまえホッファ側に付くなよ、わかってるな?」という圧力、駆け引きが感じられる。

 (指輪が贈られるのは、主人公が観衆の面前で「何があろうと最後までホッファを支持する」と宣言した直後、かつボスはここで「お前を育てたのはオレだかんな」と恩着せがましく強調している。なのでこのシーンに、ホッファとのさきほどのやり取りに感じられたような胸を打つ感覚はありません。)

 だからこそ、自らの手でホッファを殺さなくてはならないという状況の残酷さが際だってくる。

 いよいよホッファを殺害する「運命の一日」の時間の引き延ばし描写、凄かったですね。主人公の気の重さに、見ている側も強制的にシンクロさせられてしまう。

 『グッドフェローズ』でも、ラリって混乱した主人公の時間感覚を観客にも体験させるような演出がありましたが(警察の監視に怯えながら、同時にパスタソースの出来映えを偏執的に気にしているあたり)、スコセッシはこういうのほんと上手い。

 

 

ジョン・F・ケネディについて

 

 ここでちょっとだけ脇道に逸れて、『アイリッシュマン』におけるジョン・F・ケネディのポジションについて触れておきたいのですが、本作のなかでJFKは、2人のメイン・キャラクターと対置された「影の主役」のような存在です。

 1人目は、ジミー・ホッファ。ホッファはケネディを激しく嫌いましたが、両者には「民主的な共同体の長」である、という共通点があります。アメリカ合衆国とIBT。

 (純血主義のイタリアン・マフィアとくらべると、IBTは「民主的」な共同体である点や、うすら暗い後ろ盾をもつホッファが、それでも労働者の権利のために闘っていた側面もある点に注意。)

 やがてケネディは暗殺されますが、後にホッファも同じ組織の画策によって暗殺されることになる。両者は「長をつとめていた共同体から、暗殺によって排除される」という最期も共通しているんですね。

 ホッファが歓喜していたケネディの死は、皮肉にもホッファ自身の末路の暗示になっていました。

            
                    ◯


 2人目は、主人公のフランク。フランクとジョン・F・ケネディには「アイルランド系」で「カトリック教徒」という共通点があります。しかし、自身を取り巻く環境、ビジョンに対する姿勢は対照的。

 能動的にアメリカという共同体のビジョンの変革を志向するケネディ(といっても、いたずらに美化して描かれているわけではないですが)と、自身をとりまくマフィアやIBTといった共同体のビジョンにひたすら過剰適応する主人公。

 結局、前者は死に、後者は生き延びたあげく、後に述べるような「空白」のなかに取り残される。

 ちょっと妄想をふくらませると、このようなふたりの命運の別れ方は、アメリカという国家の「ルート分岐」を表しているようにも見えてきたりして*3

 

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 もちろんケネディやホッファの死の真相は不明なので、これらはあくまで『アイリッシュマン』というフィクションにおける対照関係ですが、こういう見えづらいところまでみっちりと、第二次大戦後のアメリカ現代史を描いた映画だなあ、とおもいます。

 スコセッシの映画に赤・青・白の組み合わせが出てきたらそれはアメリカだ!みたいな雑な決めつけをするつもりはないですが。

 

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◯『沈黙 -サイレンス-』の反転バージョン

 

 以前の記事で、スコセッシの前作『沈黙』(2016年)について書きましたが、『アイリッシュマン』のラストは、私には『沈黙』の反転バージョンのように見えます。

 『沈黙』の主人公であるイエズス会の宣教師は、元来強い信仰心をもっていましたが、自分の信仰を否定する日本という国のビジョンに包囲されます。映画のラスト、「日本という沼地」に完全に取り込まれたようにみえる彼は、しかし信仰心を心のなかでひそかに守り、同時に逆境のなかでアップデートさせていました。

 やがて日本人として死んだ彼の身体は、ちいさな棺に収められて火葬されます。その棺の蓋が閉まる直前、妻によって彼の手に、密かに十字架が握らせられる。

 主人公の信仰心、ビジョンが内側にむけてぎゅっと収縮しつつ、その密度を高めているようなラストシーンです*4

 

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 いっぽう『アイリッシュマン』の主人公は、信念や信仰のたぐいを持たず、終始まわりの状況に流され続けます。彼は『沈黙』の主人公とは真逆に、自身をとりまくビジョンに過剰適応しつづける。

 第二次世界大戦では戦場のルールに適応し、上官の要求を先読みしつつ淡々と仕事をこなす主人公。

 

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「俺たちは命令に従う。上官は ”捕虜を森に連れていけ” それから特に指示はない。ただ “早くしろ” とだけ」

 
 具体的な事柄は口にしないままに命令をほのめかす感じは、マフィアのボスもさんざんやっていましたよね(これがなかなか味わい深い)。主人公は戦場のときと同じようにボスの要求を先読みし、仕事をこなしていきます。

 

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「軍隊と同じだ。命令に従い、仕事をこなせば、報酬が入る」

 

 自分のやらされていることに疑問をもたず、ただ目先の命令に従う。このような行動をとっているのは、主人公だけではありません。

 たとえば、主人公が殺人を犯すときに車の運転をつとめるドライバーは、現場でなにが起きるかを知らされていませんでした。彼に与えられた命令は、A地点で主人公をおろし、B地点で回収することだけ。それ以外の情報は与えられていない。

 ホッファを殺害する直前の「魚運び」にまつわるやりとりも、同じ意味合いの描写です。

 ホッファの義理の息子は、友人に頼まれて車で魚を運んだのでシートが生臭くなってしまい、あとから文句をいわれる。彼はあらかじめ魚屋に用意されていた荷物を受け取り、言われた通りにA地点からB地点まで運んだだけなので、「臭いな、どんな種類の魚を運んだんだよ」と訊かれても答えることができません。

 

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 そして、そのやりとりをしているまさにその瞬間にも、彼は「自分の義父を殺す」という使命を秘めた男を、魚を運んだのと同じバックシートに乗せて、目的地まで運んでしまっている。彼には、自分のやらされている仕事が何を意味するのか、それがどんな結果をもたらすのかわかっていない。

 これらのシーンで描かれるのは、自分の行動が全体にどのような影響を及ぼすのかを考慮せず、淡々と与えられた役割をこなしてしまう…自分の含まれるビジョンに過剰適応してしまうことの恐ろしさです。

 彼らの姿には、ちょっとアドルフ・アイヒマンを連想させるところがありますね*5

 

自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。(...)俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。(...) 完全な無思想性ーーこれは愚かさとは決して同じではないーー、それがあの時代の最大の犯罪者の一人になる要因だったのだ。

ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』)

 

 「おそろしく熱心」に仕事をこなしながら、主人公たちは「自分のしていることがどういうことか全然わかってい」ませんでした。

 (もちろんこれは、全体像を把握することが誰にもできないほど極度に複雑化した社会システムのなかで、日々、目先の仕事をこなすしかないわれわれ自身の姿でもあります。)

 その結果、主人公は恩人を自らの手で殺害しなければならない、という地点にまで追いつめられる。

 このあたりが映画のドラマ的なクライマックスにあたりますが、しかし本作では、クライマックスが過ぎ去ったあとの、ドラマチックなことは何も起こらない後日談がたっぷりと尺をとって描かれます。

 恩人であるジミー・ホッファを自らの手で殺めたあと、イタリアン・マフィアも瓦解し、家族には見放され、友人・知人は次々とこの世を去っていく。ひとり「空白」のなかに取り残される主人公。

 そして、この空白こそが『アイリッシュマン』のコアでしたよね。空白が中心にある、という意味で、主人公のビジョンが内側に向かって凝縮していく『沈黙』とは真逆の映画。

 

 

◯家族・信仰・血筋

 

 主人公は、「戦場」や「マフィア・IBTのヤクザ者たちの世界」といった自分をとりまくビジョンに、過剰なまでに適応することで生き延びてきました。

 なので、それらのビジョンが崩壊したあと、何を拠り所にして生きたら良いのかわからなくなってしまう。

 これまでのスコセッシの映画では、主人公の内なるビジョンが周囲を呑みこんだり、逆に主人公がなんらかのビジョンに呑みこまれたり、ときには、主人公にとっては切実なビジョンが周囲にまったく通用しない…というビジョンの機能不全が描かれたりしてきました。

 いずれにせよ、なんらかのビジョンが「ある」ことが前提の物語が描かれてきた。
 
 しかし『アイリッシュマン』では、ビジョンが「ない」状態にフォーカスが絞られ、空白のなかに取り残される主人公の虚しさが強調されます*6

 「”ビジョンがない” というビジョンに満たされた」とか「”ストーリーがない” というストーリー」とか、言い方はなんでも良いですが、とにかく「ない」ことだけが「ある」という状態。ところでさっきから「ビジョン」という言葉を便利に使いすぎでは?

 

                    ◯

 

 主人公はそのような空白に耐えられずに、色々なものに縋りつこうとするけれど、すべてみっともなく失敗します。

 家族にアイデンティティーの拠り所を見いだそうとしても、娘たちに「何をいまさら」という感じで冷たくあしらわれる。

 宗教に救いを求めようともするけれど、彼にはイタリアン・マフィアのボスとは違って、シリアスな信仰心が備わっていません。

 ふたりの信仰にたいする態度の違いは、映画の冒頭で示されていましたよね。自分の命が危ないという状況に陥ったとき、イタリアン・マフィアのボスは「これを切り抜けられたら二度とタバコは吸いません」と神に誓いをたて、後々まで律儀にその誓いを守り続ける。

 でも、戦場で「助かったら二度と罪は犯しません」と神に誓ったはずの主人公は、帰国後、その誓いをあっさりと破りまくる。

 なので、イタリアン・マフィアのボスは、信仰に何らかの拠り所を見いだすことができたのかもしれないけれど、主人公のほうは懺悔とかお祈りを熱心にしていても、ホンマかいな?という感じがしてしまいます。

 関係ないけど、どこを切りとってもカラーコントロール完璧っすねこの映画…。

 

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 そして、主人公が自分の入る棺の色として緑を選ぶシーン。

 緑はアイルランドのナショナルカラーであり、カトリック系住民を象徴する色でもあるからだと思いますが、これも、イタリアン・マフィアの世界では足かせでしかなかった「アイルランド系」という出自にいまさら縋り付いているみたいだ…という見方はちょっと意地が悪すぎるでしょうか。

 

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 60年代にローマ教皇庁の許可が下りてから、カトリック教徒のあいだでも火葬が珍しくなくなったそうですが、主人公は「身体がなくなったら、全て終わってしまう感じがする」という理由でこれを恐れます。

 このあたりにも、カトリック的な死後の世界を結局は信じ切れていない、主人公の信仰心のあやふやさが感じられますね。

 彼は信仰や出自や家族に必死に縋り付こうとするけれど、どれもビジョンが消失したあとの空白を埋めてはくれません。

 


◯次回作の上映は?

 

 記事の最初のほうで、『グッドフェローズ』の主人公にとってのマフィアの世界は、映画監督・スコセッシにとっての「黄金時代のハリウッド」だ…みたいな話題を出しました。

 主人公 / 監督はその中に入っていけず、外側から「映画を観る」観客のように眺めることしかできなかった。

 ところで、『アイリッシュマン』では「人物がドアの隙間から向こう側を覗き見る」というシーンが3回反復されますが、これは「映画を観る」行為のメタファーと受けとることも可能です。

 まず1回目は、ボディーガードとしてジミー・ホッファの部屋に同宿した主人公が、ドアの向こう側で寝支度をするホッファの姿を覗き見るシーン。

 

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 この時点では両者はまだ出会って間もなく、主人公はドアの向こう側に広がっているはずのホッファが代表する世界を、「映画を観る」みたいに外側から覗き見ている段階です。マフィアの世界に憧れていた『グッドフェローズ』の主人公の少年時代と一緒ですね。

 (この後、主人公がホッファに請われて組織に迎え入れられるシーンでは、ふたりは同じ空間のベッドで眠っています。このあたりにも、主人公が、ホッファが代表する世界の内側に入っていけた…という達成感が演出されています。)

 2回目は、組織の仕事に出掛ける支度をする主人公を、彼の娘が覗き見るシーン。

 

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 主人公は人殺しの準備をしているわけなので、ここでの娘はまさにギャング映画の観客のようなポジションなのですが、彼女の表情や、その後の父親にたいする態度からは、醒めた嫌悪感が感じられます。父がスクリーンの内側で主演をつとめる血なまぐさい映画を、娘はぜんぜん気に入っていない。

 3回目は、映画のラスト。年老いた主人公が、部屋を出ていこうとする牧師に「ドアを少し開けておいてくれ」と頼むシーン。

 カメラは、ドアの隙間からこちら側をじっと見つめる主人公の姿を映し出します。

 

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 映画の例えでいえば、これは、スクリーンの前にカメラを据えて、観客席を撮影しているのと同じことですね。

 つまり、車椅子に腰掛けてこちら側をじっと見つめる主人公の姿=映画を観ているわれわれ観客の姿、です。

 (『エヴァンゲリオン』旧劇場版でファンを挑発しまくった「気持ち、いいの?」のシーンを思い出してください。)

 主人公が夢中になっていた「戦争映画」も「ギャング映画」も上映が終わってしまい、スクリーンは空っぽ。でも彼は「次はどんな映画がかかるんだろう?」と未練がましく待ち続けている(その直前に牧師を帰してしまっているので、「宗教映画」の線はなさそうです)。

 この主人公の姿を見て、私は「これ、オレじゃん」と思いました。ありがちな感想だけど、ものすごく深刻に。

 これまで主流だと思っていたビジョン…政治とか経済モデルの深刻な機能不全が露呈して、あらゆる価値観の底が抜けて、あらゆる人があらゆる意見を叫びまくる中で、空っぽのスクリーンを眺めながら「次は何…?」と受け身全開のセリフを呟くしかない自分。

 その情けない姿が、身も蓋もない率直さで画面に映し出される。

 普遍的(!)な老境の侘しさを描きつつ、同時に、混沌に満ちたいまの時代の中心に座を占める「空白」を見事に捉えた映画でもありました。このラストは本当にすごい。

 

 

◯むすび

 

 ラストカットがドアのギャング映画…というと、スコセッシ関連では当然『グッドフェローズ』が思い出されます。この映画のラストでは、ドアは主人公によってバタン!と勢いよく閉められていました。

 主人公は体制に牙を抜かれた囚われの身状態なので、「なにもかもつまんねえ、クソ!」という虚勢が感じられますが、それでもまだ虚勢をはるだけの空元気は残っていたといえます。

 

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 そして、ドア関連?でもう一本、誰もが連想するであろうギャング映画が『ゴッドファーザー』(1972年)。

 こちらのラストでは、マフィアのドンの座におさまった主人公が、彼の妻の属するカタギの世界から消え去ったことを象徴する小道具として、ドアが使われていました。

 部下によってドアが閉められ、主人公をとりまくビジョンからシャットアウトされる妻。

 

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 これらと比べると、年老いた主人公が「ドアをすこうし開けておいてはくれんかの」と牧師に力なく頼む『アイリッシュマン』のラストが、いかに情けなく、痛切で、かつ容赦ないか、が感じられるのではないでしょうか。

 もともとスコセッシって、キャラクターの扱い方がものすごくフラットな人ですよね。

 主人公に、たとえばマイケル・コルレオーネの「愛する者に理解されない」的な孤独のダンディズムとか、トニー・モンタナの「Live Rich,Die Broke」的な破滅型ヒロイズムの類いをけっして背負わせない(いや、『ゴッドファーザー』も『スカーフェイス』も好きですが)*7

 「俺の映画に出てくるのはしょうもない人間ばかりだけど、まあ誰だって似たようなもんだろ?」みたいな平熱感が多かれ少なかれどの作品にも感じられて、だからスコセッシの映画って、キャッチーなかっこ良さには欠ける。

 でも、そういうキャッチーではないことを黙々とやり続けているところがすごくかっこ良いです。キャラクターに自分を投影している部分があったとしても、ナルシシズムとは無縁の作り手。

 膨大な予算を注ぎ込み、あり得ないほどの超豪華キャストを揃えながら、その全員を「別にかっこ良くはない人たち」としてフラットに描いた『アイリッシュマン』、掛け値なしにスコセッシの最高傑作だと思いました。

 ここまでやられてしまうと、逆に一度ぐらいはスコセッシが「かっこ良い男」を描いたらどうなるのか見てみたい気もしますが、撮らないだろうなあ。

 

 

 

*1:この記事では、「組織」と「共同体」という言葉を混同気味に緩く使っています。主人公にとってIBTやマフィアといった組織は、ときにはハードに利潤を追求する機能体的側面が強いものとして、またときには帰属意識を感じる共同体的側面の強いものとしてあらわれます。

*2:私は、創作物のキャラクターを「作者の投影」として解釈するのはあまり良くない…と考えているほうですが(作り手が「私」を離れることが不可能であるのは当然だが、作品は自己表現の道具ではないので云々かんぬん)、「映画作りは個人的なものであるべきだ」と公言するスコセッシのような作り手に関しては、そのような見方からも得られるものはある、とも思います。

*3:「もしもJFKが暗殺されていなかったら」という「 ifルート」へのオブセッションは、アメリカのフィクションにときおり顔を出します。スティーヴン・キングの『11/22/63』は有名ですね。ウォルフガング・ペーターゼン監督の『ザ・シークレット・サービス』(感想 )も、このオブセッションに囚われた2人の男の対決を描いていました。

*4:とはいえ、以前の記事にも書いたように、私はこのラストについて「主人公は自らの信仰を守り通した」というポジティヴな解釈だけでは収まりきらない不穏なものを感じており、そこが映画版『沈黙』の優れた点だと思っています。

*5:アイヒマン的「凡庸な悪」については『サイコパス2』の感想でも触れています。

*6:アイリッシュマン』には、ベルナルド・ベルトルッチの諸作品を連想させるところもあります。ベルトルッチの映画の主人公たちは、それまで拠り所にしていた(囚われていた)ビジョンの崩壊を経験する。そして大抵、主人公たちが空白に放りだされたところで、映画は無情な幕切れをむかえます。関連記事:『ドリーマーズ』感想

*7:スカーフェイス』は『ゴッドファーザー PART2』のテーマ的続編だ!みたいな記事です→『スカーフェイス』感想:「競争」と「共同体」の挟み撃ち