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『ジャッキー・コーガン』感想:「アメリカは国家じゃない、ビジネスだ」

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アンドリュー・ドミニク監督『ジャッキー・コーガン』(2012年)の簡単な感想です。ネタバレありです。

 この映画は1974年に出版された『Cogan’s Trade』という小説が原作になっているそうなんだけど(未読です)、「Trade」という単語から連想できる通り、(ほぼ)全てのシーンが、ふたりの登場人物のあいだで交わされる「取引」「駆け引き」として描かれています。

(犯罪の)仕事を受けるか、受けないか。仲間に入るか、入らないか。仲間を売るか、売らないか…など、たとえ友人同士の会話シーンであっても、そこには「取引」や「駆け引き」の要素が紛れ込んでいる。

そして、そのような「取引」「駆け引き」は常に一対一、「個人」と「個人」のあいだで行われます。だからこの映画では、二人の人物がひたすら会話を交わしているというシチュエーションが場面の大半を占めています。稀に会話の場に第三者が同席していても、交わされる会話の内容は「一対一の取引・駆け引き」。

たとえば、ジャッキー・コーガンが旧友の殺し屋とホテルの一室で会話するシーンには、殺し屋の呼んだコールガールも居合わせているけれど、会話の内容はジャッキーにとって「この男を本当に殺しの仕事に使うかどうか」を品定めする、という一対一の「駆け引き」の側面を持つ…といった具合。

つまり、この映画で描き出されるのは、人々の集まりとしての「共同体」が顧みられない、個人と個人のあいだで繰り広げられる「競争」だけしか存在しない世界。国家間の関係に置き換えてみれば「多国間主義」ではなく「一国主義」しか信じられていない世界で、それがアメリカだ...という物語が2008年の大統領選をバックに展開されていきます。

映画のオープニングの映像は、一人きりでトンネルの中を歩く男。トンネルを抜けると、そこには人の気配のまったくないゴミの舞う荒寥とした光景が広がっていて、その頭上には「マケイン vs. オバマ」の大統領選の看板(「個 vs. 個」「一対一」のイメージ)。

 

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その光景を前に、ひどく寒そう(辛そう?)な表情を浮かべる男は、結局物語のなかで生き残ることができません。

いっぽうラストの映像は、このオープニングと対になっています。まるで「トンネル」のようなバーの廊下を歩くジャッキー・コーガンを背中から捉えた映像。

廊下を抜けたジャッキーはしかし、オープニングの男とは対照的に、テレビから流れるオバマの勝利演説(「我々は個人の寄せ集めではない」「我々は一つの国家として栄え、衰える」)をバックに、平然と「一対一の取引」を開始します。

 

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「(アメリカ独立宣言を起草し、「一つの国家としてのアメリカ」を先導したトーマス・)ジェファソンは聖人だ。”全ての人は平等だ” と。だが息子たちに奴隷を所有させた。英国への納税を嫌がった金持ちのワイン通だ。民衆を煽動し、大勢を戦争で死なせた。その間、ワインを飲み奴隷を犯した。何が ”一つの共同体” だ。笑わせるな。アメリカに生きれば頼りは自分だけ。アメリカは国家じゃない、ビジネスだ。さあ、金を払え」

 

こういう人間しか生き残れないのがアメリカだ…という、ちょっとばかり説明的すぎる気もするけれど(映像やシーンの構成の積み重ねで描いてきたことを、最後の最後にあえて大胆に言語化してみた感)、こういった決めゼリフで映画をスパン!と締めくくるのは「おおー」と思わされますね*1

たしかに「全てはディールだ」というトランプ以降の視点からすると、すでに現実に追い抜かれた(←紋切り型表現)感じもあるし、コーエン兄弟の大傑作『ノーカントリー』みたいな二枚腰の凄味 〜国家的理想を喪失したアメリカでは、行動指針を持たない( という行動指針をもつ)ハビエル・バルデム演じる殺し屋のような男しか生き残れないが、それは一人一人が現実のカオスに孤立無援で身を晒すことを意味する〜 にも欠けるのですが。

でも、全編に漂う独特の「なるようにしかならない」みたいな感覚は良かったです。この映画って、普通の映画ならば「想定外の事態」が起こって場面が盛り上がるべきところで、驚くほど何も起こらないんですよね。

カジノの強奪は強盗たちの予定通りにトラブルなく成功するし、逮捕される奴は何の抵抗もできずにすんなりと逮捕されるし、殺される奴は殺す側の思惑通りにあっさりと殺されてしまう。

そういう風に、ひとりひとりの人間にとっては重大であるはずの物事が、無抵抗に滞りなく流れていく(流れていってしまう)様が、的確な映像で淡々と切り取られることによって立ち上がってくる「クオリティの高いやるせなさ」みたいな質感が良いなあ、と思いました。

 

*1:「アメリカは国家じゃない、ビジネスだ」というセリフは、「アメリカには共同体など存在しない、あるのは個vs.個の競争だけだ」という風にも言い換えが可能。このような「競争志向」と「共同体志向」の関係をテーマにした作品の感想としては、このあたりもよろしくお願いします。→ 『スカーフェイス』感想:「競争」と「共同体」の挟み撃ち『3月のライオン』(アニメ版)感想①:「競争」と「共同体」のバランスゲーム もちろん実際には、競争のなかにも共同体志向があり、共同体のなかにも競争志向がある...という風に、両者はきっぱりとは分けられないものであるわけですが。