『バージニア・ウルフなんかこわくない』(映画版 / マイク・ニコルズ監督 1966年)のネタバレ感想です。
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超有名作品ですが、恥ずかしながら私はタイトルと「なんか派手な夫婦喧嘩の映画でしょ?」ぐらいの予備知識しか持たずに観始めてしまい、結果的にかなりびびらされました。
映画には二組の夫婦が登場して、このうち主人公の中年カップル(エリザベス・テイラーとリチャード・バートン)がもう一組の若者カップルの前で、一晩中延々と、それはもう壮絶な口論を繰り広げます。二人の激しく生々しいやりとり(演技合戦)は確かに映画の吸引力になっています。
私は「ああ、この映画には、古き良きハリウッドとは違った60年代後半的なリアリズムが流れ込んでいるのだなあ」とか「でも、こういう路線だったらジョン・カサヴェテスの『フェイシズ』のほうがざらっとした肌触りがあってかっこいいかもなー」なんて思いながら観ておりました。油断していたわけです。
夫婦の口論からは、息子の存在が徐々に浮かび上がってきます。その息子は何らかの事情でいまは家におらず、そのことが夫婦の諍いの原因になっているらしい。でもその「事情」が具体的にどのようなものかは明らかにされず、断片的な情報の提示による「ほのめかし」があるのみ。
この展開を見て私は「ああ、この映画はその ”事情” の全貌の暴露がクライマックスに設定されていて、最終的には夫婦のトラウマ解消の物語になっていくのかな」とか「うーん、 ”トラウマの解消” って、映画やドラマのネタとしてはあんま興味ないんだよなー」なんて思っておりました。高を括っていたわけです。
ところがクライマックスに明らかになるのは「この夫婦には息子なんて最初からいなかった」という事実。夫婦は「存在しないもの」をめぐって壮絶な口論を繰り広げていたんですね。この展開には「え、なに、どういうこと?」とアワアワしてしまいました。それまでなんとなくこちらが想定していた「作品内リアリティ」がぐにゃりと歪む感覚。
そして怖いのは、その暴露のあとで、あれだけ激しくやりあっていた夫婦の口論が凪のようにパタリと止んでしまうことで、この静けさがもう鳥肌モノ。二人は「息子の存在」という「虚構」をベースにしてコミュニケーションをとっていたんだけど、その虚構性が暴かれると、コミュニケーションも途絶えてしまう。文脈違いかもしれないけど、『風の歌を聴け』の有名な一節が頭に浮かびました。
文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終る。パチン……OFF。
よく言われることだけど、世の中は虚構というかけっこうあやふやなモノの上に成り立っていて、たとえば「”時間” ってなに?」とか「”お金” ってなんで使えてるの?」とか「 ”コミュニケーション” って本当に成立してるんかな?」みたいな疑問を人類全員がマジにシリアスに受けとめようとしたら「世界の底は抜けている」という事実に直面して、おそらくは社会が成り立たなくなってしまいます。
だから、そこら辺を上手くぼやかしてくれるフィルターが「認識」にかかっていて、おかげで私も呑気に生きてるわけですけど、そのフィルターを外して、ほんとうは世界の底は抜けているよ…ということを突きつけてくる映画があります。このブログで感想を書いた作品だと、『クリーピー 偽りの隣人』(感想)とか『ゴーン・ガール』(感想 )とか。
そして、この『バージニア・ウルフなんかこわくない』も、そういった作品のひとつだと思いました。「息子の存在」の虚構性が暴かれて、パチン……OFFとコミュニケーションが途絶えたあとにむき出しになった「底が抜けた世界」を前に涙を流すエリザベス・テイラー、でも朝日は容赦なく昇ってくる…という残酷なラスト。こういうベクトルで「こわい」映画だとは思わなかったことですよ。あーびっくりした…。