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『ゴーン・ガール』感想  ~「外面」が勝利する世界

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 デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』(2014年)の感想です。この映画については、公開当時に記事を書いたんですけど↓

軟着陸は可能か? ~『ゴーン・ガール』感想

 今回の文章は、そのときボツにしたバージョンです(さいきん文書フォルダを整理していて発掘)。いくら趣味でやってるブログとはいえそんなもん載せるなよな、という感じもするんですけど、読み返してみたらこっちのバージョンも捨て難い気がしてきたので。

 前回の記事が作品全体を網羅しようとジタバタしているのにたいして、こちらはテーマを一つに絞ってできるだけスッキリ書こうとがんばってる感じです。ネタバレがありますのでご了承ください。

 

◯他者からの視線と「外面」の実在感

 本作のヒロインであるエイミーの父親は作家で、エイミーをモデルにしてつくり出した女の子の成長物語を出版しており、そのシリーズはベストセラーになっています。物語のなかの少女はルックスも頭も性格も良い「理想の少女」として描かれていて、生身の人間ではまず太刀打ちできない。

 エイミーがモデルになっているとはいえ、成長にともなって、現実のエイミーと本のなかの理想の少女像は乖離していきます。そして、父親は生身のエイミーよりも、自分の執筆する本のなかの少女のほうに入れあげてしまっている。

 親が子供に、時に過剰な期待を投影してしまうのはある程度仕方のないことだろうと思うんだけど、それでもたいていはしだいに現実との擦り合わせができていくもの。

 でも本のなかの少女は、物語のなかで順調に父親にとっての「理想の女性」へと成長をとげていき、しかもそのシリーズがベストセラーになることで、架空の存在であるはずの少女の「実在感」が他者の視線によって担保されていきます。大勢の人々が本のなかの少女の存在を認めることで、まるで少女が現実に存在しているかのような共同幻想が共有されていくわけですね(しまいにはシリーズのファン達によって、本のなかの少女の結婚を祝うパーティまでおこなわれます)。

 このような「 ”内面” の有無とは無関係に、不特定多数の他者からの視線によって存在感が担保される ”外面” だけの存在」をエイミーが成長の過程で「目障りな自分の分身」として意識し続けたことが、彼女に決定的な影響を及ぼしたようです。

 エイミーにとっては「外面」、他の人々の目に自分がどのように映っているかが全てで、実際に自分がどう感じているか、という「内面」は問題ではない。というか「自分が他人から見て幸せそうにみえる」ことが「自分の幸せ」に直結している感じすらある。

 「自分が幸せを感じているから、その気持ちが外面に現れて、他人の目にも幸せそうに映る」のではなくて、「自分の外面を他人が ”幸せそう” と認識・評価するから、幸せを感じる」という順序なんですね。「内面」というものを信じていない…という言い方も可能かもしれないですが、とにかく彼女のなかでは「外面」の圧倒的な優位が確立している。

         

◯「外面」の優位性

 それで、「内面」にたいする「外面」の優位というのはなにもエイミーのなかだけのことじゃなくて、いまの世の中は基本的にそういうものだよね、という描写が『ゴーン・ガール』には何度も登場します。

 たとえば、エイミーの夫・ニックの笑顔写真がSNSでシェアされて「妻が行方不明なのに他の女にデレデレしやがって、不謹慎だ」と炎上するシーン。あるいは、別荘でエイミーがレイプされたという演技を防犯カメラの前で演じてみせたり、血まみれで帰宅したエイミーが、マスコミのカメラが取り囲む環境のなか、ニックの腕のなかに倒れ込んだりするシーン。

 いずれのシーンでも人物たちの「内面」と「外面」のあいだにはズレがあります。笑顔写真を撮られてしまったときのニックは、実際には酷い気分だっけど、スマホのカメラを向けられて条件反射でおもわず笑ってしまっただけ。防犯カメラの前で崩れ落ちてみせたエイミーは実際にはレイプされていないし、ニックの腕のなかにエイミーがドラマチックに倒れ込むシーンも、テレビカメラを意識したお芝居。でも世間に流通していくのは、さまざまなカメラによって捉えられた「外面」です。

 そしてそのような「外面」は、メディアを通して多くの視線にさらされることで「真実」としてのオーラを獲得していきます。これは、エイミーの父親の小説に登場する架空の「理想の少女」が、本がベストセラーになること=つまり多くの読者に「承認」されることによって、実在感を獲得していったのと同じですね。

 映画の後半、エイミーがいったんは愛想をつかしたはずのニックに惚れ直したのも、彼がテレビ番組のなかで「罪を悔いる誠実な夫」の役割を完璧に演じきるさまを目にしたからでした。彼女にとって重要なのは、彼が「本当に誠実かどうか」ではなくて、世間の人々に「誠実だ」と感じさせる演技力=「外面」をもっているかどうか。

 「惚れ直した」という表現は妥当ではなくて、「"幸せな夫婦" を演じるうえでの最高のパートナーである、と再認識した」といった方が良いかもしれないですね。結果として、エイミーはニックのもとに帰るために殺人まで犯します。

 

◯「外面」の勝利

 そして仕上げが、マスメディアによるエイミーとニックのカップルへの「承認」の儀式。これは、テレビ番組の女性司会者から、二人にロボット犬がプレゼントされることで犬の「カップル」が誕生する…という形で表現されていました。

 ロボット犬には当然「内面」はないわけですが、それが2体並べば「外面」的には仲睦まじいカップルに見える。エイミーとニックも同じで、ふたりはまったく心を許しあっていないんだけど、テレビ画面ごしに見る彼らは「誘拐・浮気・不信など、さまざまな困難を乗り越え絆を深めた全米ベスト・カップル」です。

 くわえて、番組のなかでエイミーが妊娠を発表することで、全米の視聴者の視線によって承認され、その真実性が担保される「理想の家族」が誕生するに至る…という結末。

 なんとも皮肉なラストなんだけど、でも映画は「外面だけに翻弄される薄っぺらな現代人を批判的に描く」みたいな説教臭いトーンになっていないところに好感をもちました。

 『ゴーン・ガール』のストーリーを無神経に要約してみると、SNSやテレビなどのメディアを「劇場」に見立てて、自らを「役者」として位置づけ、不特定多数の他者=「観客」からの視線に晒されながら演じる外面的な「演技」だけが全てだ…というヒロインの世界観(ハンナ・アーレントの「アゴラ(公的領域)」の概念なんかをちょっと想起させます)に、夫が畏れを抱きつつも最後には魅了されて取り込まれてしまう…という話なんだけど、でもダークな結末という感じはあまりしないんですね。

 「ほんとうの意味で他者と心が通じあうことはあり得ない」という、夏目漱石が描いたような近代以降の人間の基本条件をお互い前提として受け入れたうえで、「外面」の演技性に特化して刺激と安定とを供給しあう夫婦関係。これはこれで現代のひとつの幸せの形なんじゃなかろうか、と思わせてしまう、不穏なハッピーエンド感(『行人』の一郎にこの映画を観せてみたい気がする)。

 というか、私たちがネット上で不特定多数の他者の視線を想定しながら何かを発信するとき(こういうブログでも、何かのニュースへのコメントでも、今日の晩ご飯のメニューのツイートでも)、自身の実感と「人からこう見られたい・こうは見られたくない」みたいな動機に根ざした演技性との境界は自分自身にとっても極めて曖昧なわけで*1、そういう意味で「自分が本当は何を感じているか」というのはじつは自分でもよくわからないことなのであって、我々はすでにエイミー的世界に片足を突っ込んでいるのかもしれないですね...(と、いかにもそれっぽいことを言ってみる)。

 伊藤計劃の『ハーモニー』を読みおえて、陶酔感とともに「これってハッピーエンドかもしれないよね」と感じてしまったときにもどこか似た、ゾクゾクくる余韻を味あわせてくれた映画でした。トレント・レズナーとアティカス・ロスによる「不穏な安らぎ」の感覚を音像化したようなサントラも最高。

 

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*1:もちろんネットはそのような傾向を増幅するだけであって、ネットが発明される以前から人間は一人きりのときにも「仮想の他者(自分自身を含む)」の視線に絡めとられてきたわけですが。