『がっこうぐらし!』感想 ~丈槍由紀と「かれら」の失楽園
アニメ版『がっこうぐらし!』の感想です。この作品については、リアルタイム放映時(2015年秋)にも記事を書いていたんですが↓
今回はあらためてのまとまった感想です。リンク先の記事と重複する個所がある点、作品のネタバレを含む点をご了承ください。
◯ベタな「メタ日常系」としての『がっこうぐらし!』
『がっこうぐらし!』の舞台となるのは、地上がゾンビたち(作中での呼称は「かれら」)に覆われ、それまでの「日常」が崩壊した世界。そんな中、平穏な「日常」がまだ続いている…という妄想のなかに生きる主人公・丈槍由紀。
このキャッチーな設定に表れているように、『がっこうぐらし!』は非常に明快な「メタ日常系」作品である…と(とりあえずは)いえます。由紀の妄想のなかの「平穏な日常( ≒ 日常系まんが・アニメ的世界)」の外側を「過酷な現実」がとりまいている、という世界設定。
無自覚に「日常系ごっこ」というゲームをプレーする由紀*1と、彼女がその「ごっこ遊び」の世界に浸っていられるように、周囲から支える「学園生活部」のメンバーたち(「学園生活部」という名称も、毎日の生活を「部活動」として対象化・メタ化…「ごっこ遊び化」したネーミング)。
この構図は「日常系作品のファン(由紀)と、日常系作品の作り手(学園生活部)」の関係を表しているようにも、あるいは「日常系作品そのもの(由紀)と、日常系作品の作り手・ファン(学園生活部)」の関係を表しているようにも、いろいろに受けとれます。いずれにせよ「日常系」のほんわかとした世界と、その外側の過酷な現実世界の双方が『がっこうぐらし!』というひとつの作品のなかに構造化されて収まっている。
『がっこうぐらし!』の原作マンガは2012年夏から連載がスタートしており、2011年の震災がこの作品のメタ構造に幾分かの影響をおよぼしている…と想定するのはそれほど無理のないところだと思うのですが*2、ここで連想されるのは、2013年の1月から放映されたアニメ『たまこまーけっと』です。
「日常系」の大ヒット作『けいおん!』を送りだした京都アニメーションが制作した「メタ日常系アニメ」*3。
上の図は「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』 という記事に載せたものですが、『たまこまーけっと』の作品世界も「うさぎ山商店街=日常系アニメ的世界」と「その外側=ややリアル寄りの世界」の二層構造になっています。
作品は基本的には日常系的世界の「内側」の良さを描きながらも、ときおりそこに「外側」から批評的なツッコミが入るという「メタ日常系」アニメ。
ただし『たまこまーけっと』ではそのメタ構造がさりげなく仕込まれているのにたいして、『がっこうぐらし!』では「売り」として前面に押しだされて、「日常系的想像力(妄想力)」と「過酷な現実」とのあいだの緊張関係が強調されている。そういう意味で、より明快な(ベタな)「メタ日常系」作品になっています。
◯丈槍由紀の天使性
ゾンビまみれの「過酷な現実」から目を背け、想像のなかの「平穏な日常」に逃避しているように見える主人公・由紀。
...と書くとなんだか全面的に悪い印象がありますけど、由紀は、想像の世界に生きているからこそ過酷な現実のなかでも天真爛漫にふるまうことができており、彼女の明るさは「学園生活部」のメンバーたちの精神的な支えになっている側面もある…という両義的な描かれ方がなされています。
そのような由紀の明るさの根拠となっている現実とのコミットの薄さ…Keyの美少女ゲーム『Kanon』のメインヒロイン・月宮あゆとの共通点(天使性)については、以前の「丈槍由紀は堕天する、のか? 」という記事にも書きました。
※両ヒロインに共通するアイテム:耳つき帽子&羽根つきリュック(月宮あゆの画像は2006年アニメ化の際の京都アニメーション版)
月宮あゆもまた、ある現実から目を逸らしながら天真爛漫さをキープしているキャラクター。そんな彼女と由紀との共通点をオマージュ的に示したアイテムが「天使の羽根つきリュック」で、この場合の「天使」は必ずしも良いイメージばかりではなく、「意識が天空界にある=地上の現実にコミットできていない」というニュアンスを含みます。
リンク先の記事にも書いたように、「現実にコミットしないことで ”天使性” をキープしている」という意味で、丈槍由紀は『Kanon』の月宮あゆであり、『ベルリン・天使の詩』のブルーノ・ガンツであり、『ラブ・マスターX』のハミオであり、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の友彦です。
そんな由紀が、はたして現実に目を向ける(=堕天する)ことができるのか。あるいは「堕天」することだけが全面的に正しいのか。これがアニメ版『がっこうぐらし!』の焦点になっています。
◯ゾンビ(かれら)の二重性
ここまでは、ゾンビ(かれら)に「日常」を脅かされる由紀たちサイドに立った文章を書いてきました。
ですが、その一方で『がっこうぐらし!』はゾンビたちを単純に「日常系的想像力(妄想力)」を脅かす「過酷な現実」を象徴する存在としてのみ描いてはおらず、逆に「かれら」を「過酷な現実」からの逃避者(つまり、由紀と同じポジション)として捉えることができるようにも描いており、その二重性が作品に厚みをもたらしています。どういうことか。
そもそも、ジョージ・A・ロメロの創作したモダンなゾンビ像は、アメリカの抱える諸問題(人種差別やベトナム戦争、過剰な大量消費や格差など)を反映・風刺するという意図を付与された「社会派」のモンスターです(ロメロはかなりベタに「社会派」の側面をもつ映画作家)*4。
とくに『ゾンビ(Dawn of the Dead)』(1978年)では、『がっこうぐらし!』にも登場したショッピングモールを舞台に据えて*5、生前の習慣にしたがってモールを徘徊するゾンビたちの姿をどこか滑稽に描いています。ようは観客にむかって「オマエら消費社会に洗脳されて、必要もない物をオートマチックに買わされてるゾンビみたいなもんだろ」といっているような映画。
それで『がっこうぐらし!』のゾンビたち=「かれら」も、生前の習慣にしたがって学校に登校してきているわけですが、これは見方によっては、もう失われてしまった「日常」の残滓にすがりつくような行動なんですよね。『ゾンビ』でショッピングモールに集まるゾンビたちと同じ。
それまでの平穏な「日常」を破壊したのはゾンビ化した「かれら」自身なんだけど、でも望んでゾンビになったわけではない「かれら」は見方を変えると「日常」から追放されてしまった存在でもあるわけです。加害者であると同時に被害者。
この「かれら= ”日常” の残滓にすがりつく者たち」という視点を取り入れて、さきほどの図に修正を加えてみると、こんな感じになります。
ゾンビたちと由紀たちの対立関係(ゲームを脅かすもの VS.脅かされるもの)は後退して、じつは「かれら」も由紀たち同様に、学校を舞台にした「日常系ごっこ」のプレーヤーである、という側面が浮上してきます。両者のプレーしているゲーム「A」と「A'」は、じつはほとんど同じ。
第10話では、悠里と美紀がそんな「かれら」にシンパシーめいた感情を表明するシーンが描かれています。
悠里「(…)時間が経つにつれ、校外にいた生徒たちが帰ってきてるのよ。きっと、生前の通学してたときの記憶を頼りに」
美紀「みんな、学校が好きなんですね。(…) 由紀先輩が言ってたじゃないですか。私たち、みんな学校が好きだから、だから学校に来るんだ、って」
この作品での「学校」が「日常系ごっこ」の舞台であることを考え合わせると、ここでの「かれら」は「日常系作品のファン」である…という見方も可能です(メタファーを一対一の関係で言語的に固定することのしょうもなさは承知のうえで)。つまり「かれら」=日常系を愛好する「おれら」ともいえる。
そして、最終回では「由紀たちの日常系ごっこA」と「”かれら(おれら)” の日常系ごっこA'」、ふたつのゲームの統合がおこなわれ、それと先述した由紀の「堕天できるか問題」とがシンクロして描かれる…という展開になっていきます。
◯丈槍由紀の(半)堕天と、ふたつのゲームの統合
最終回、ゾンビたちに襲われた由紀の「天使のリュック」の翼の片方がもがれる、というシーン。
これは以前の記事にも書いたように(半)堕天 の表現で、ここに至って由紀はゾンビたちに囲まれた現実をはっきりと認識します。
でもこのアニメは、単純に「想像力(妄想力)なんて捨てて、ハードな現実を直視しろ!」という「完全な堕天」の方向にはいかずに、想像力を「現実逃避の手段」から「現実を変える手段」へとアップデートする、という展開になっていく(「ムダなもの」として完全に捨て去るわけではない=片翼)。それがあの、「学校が好き」な「かれら」に下校を呼びかける校内放送です。
「でも、どんなにいいことも、終わりはあるから。ずっと続くものはなくて、それは悲しいけど、でも、その方がいいと思うから。だから、学校はもう終わりです。いつかまた会えると思う。でも、今日はもう終わり」
ここでの由紀は、それまでのような「日常系ごっこ」の「無自覚なプレーヤー」から「自覚的なゲームマスター」へとクラスチェンジしています。
自分たち「学園生活部」と「かれら」が同じ「日常系ごっこ」というゲームをプレーしていたことに気付き、ゲームのルール(「学校生活の日常」を再現する)を逆手にとって、「下校時刻だから、もう帰ろう」と「かれら」に呼びかけることで危機を回避する。
由紀の呼びかけに応じて、「かれら」は「日常系ごっこ」の舞台である学校から、それぞれの「おうち(現実?)」へと帰っていきます。
主人公がゲームマスターとしてゲームのメタポジションに立つ…という意味では『魔法少女まどか☆マギカ』系の結末だし*6、想像力を「現実逃避の手段」から「現実に向きあうための手段」へとアップデートする…という意味では『中二病でも恋がしたい!』(1期)系の結末。
◯むすび:「失楽園」物語としての『がっこうぐらし!』
最終回でビターなのは、由紀が「日常系ごっこ」の「自覚的なゲームマスター」へと覚醒した瞬間に、ゲームの終了を宣言している、という点。
『がっこうぐらし!』における「学校」という場は「日常系マンガ・アニメ的空間」を表していると思うのですが、「かれら」に家に帰るように促したあと、由紀たち自身もまた学校を「卒業」していく(せざるを得なくなる)。『がっこうぐらし!』は、「日常系マンガ・アニメ」における学校という「楽園」からの卒業 / 追放を描いている…「失楽園」の物語なんですね。
さきほど話題に出たロメロの『ゾンビ』もやはり、ショッピングモールという人工的な楽園からの追放...「失楽園」の物語として組み立てられている、という点については、作家の阿部和重がテレンス・マリック監督『天国の日々』(1978年)と並べて指摘しています(ロメロの真の偉大さは「社会派」な部分ではないところにある…という内容ですごい面白いです↓)。
殺しのライセンス:『ゾンビ』における「大量殺戮」の意味 阿部和重オフィシャルサイト
最終回の由紀の校内放送が感動的なのは、彼女が「かれら」に対して、自分と同じく「日常系の楽園を卒業していくもの / 追放されるもの」である、という共感を感じているからだと思います。
由紀は「日常系」世界からの覚醒に痛みを感じているし、「かれら」も、ふたつのゲームが統合されることで、「敵」から「日常系を愛好する “同志・友達”」になっている(そういえばOP曲のタイトルも『ふ・れ・ん・ど・し・た・い』... "フレンド死体" だしね)。
『がっこうぐらし!』という企画の根底の部分には、「日常系」にたいする批判的なアングルが含まれているのかもしれませんが、もしそうだとしてもそれを通り一遍なやり方で揶揄するのではなくて、対象の懐にぐっと入り込んで内側から「日常系」を批評・解体するような作りになっていて、そういう姿勢が作品の格をひとつ上に押しあげていたと思います。
OP曲のなかで、由紀が「元気でーす!」と叫ぶところがあって、序盤の数話のあいだ、私にはこれが非常にシニカルな演出に聴こえました。ハードな現実を見ていない能天気な日常系主人公、みたいな感じで。
でも、話数を経るごとに、極限状況下で「日常系」的な想像力に救われている「学園生活部」のメンバーたちや、深層では彼女なりに必死だった由紀の心情がわかってきたりして、最終回のエンドクレジットで流れる「元気でーす!」にはおもわずウルっときてしまう…「うんうん、良かったな…」と、娘の卒業を見守る父親のような心境にさせられてしまうという、作品の最初と最後で同じフレーズの聴こえ方が180度変わってしまう作りが見事でありました。
◯蛇足:原作との違いについて
最後にちょっとだけ原作との違いに触れると、アニメ版は「由紀と ”かれら” の失楽園」というところにテーマ的な帰着点を設定しているので、同じシーンでも細かい描写に違いが出ています。ラスト、「卒業」したメンバーたちが、車で学校を去るシーン。
(左:原作5巻 第30話 右:アニメ第12話)
マンガ版では「かれら」が再び登校してきているのに対して、アニメ版では「かれら」の姿は(ゾンビ化した美紀の友人・圭をのぞいて)みられず、車中では原作にはないこんな会話も交わされます。
美紀「それにしても、本当にいませんね」
由紀「みんな帰っちゃったんだね。(…) 少し寂しい、って言ったらヘンかな?」
美紀「ヘンです。でも、気持ちはわかります」
「かれら」へのシンパシーが原作以上に表現されており、そして「かれら」はもう登校してこない。アニメでは「日常系の楽園からの卒業 / 追放」が物語の着地点として原作よりも強調されているので、ここで「かれら」がふたたび登校してきたらテーマ的に混乱するんですね。
くわえて、由紀の成長もビジュアル的に強調されており、彼女の「現実とのコミットの薄さ」と「想像力の素晴らしさ」の両面を象徴していたリュックが「片翼」になるシーンも、耳つき帽子を太郎丸の墓に残していくシーンも、アニメオリジナルです。
◯
いっぽう原作は、高校を「卒業」したメンバーたちが大学に「入学」する展開になっているのですが、この大学編では、それまでは描かれなかった人間同士の(暴力を含む)諍いが描写されています。「学校」はもう「日常系の楽園」ではない。
「メタ日常系ゾンビもの」という仕掛けをもっていた高校編から「普通のゾンビもの」に近づいている、ともいえるのですが、いずれは「社会人編」も描かれるのか?続きが楽しみです。
*1:由紀は意識の深層では現実を認識できているけれど、自己防衛的に「日常系ごっこ」を続けている…みたいに受けとれる描写もありますが(めぐねえの存在とか)、ここでは「すくなくとも意識の表層では現実を認識しておらず、その意味において ”無自覚” に日常系ごっこを続けている」という見方を重視します。
*2:もっとも、震災がなくてもいずれは出て来たタイプの企画だとも思います。
*3:『たまこまーけっと』については記事を書きすぎてるのですが、この記事が比較的「総論」っぽい体裁なので読んでいただけると嬉しいです。→『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」
*4:モダンなゾンビと、他の伝統的モンスターとの違いについては『ワールド・ウォー・Z』(小説版)~中心のない悪夢 という記事にちらっと書きました。
*5:マンガ版『がっこうぐらし!』1巻のあとがきで、原作の海法紀光はジョージ・ロメロやトム・サヴィーニ、ブライアン・ユズナといったゾンビ映画の関係者たちに謝辞を記したうえで「次巻はショッピング・モールですよ、モール!!」とコメントしています。「モールを貸し切ってゾンビ映画を撮る」。映画オタクなら一度は夢想するよね…。
*6:『まどマギ』の鹿目まどかは、最初から最後までゲーム=「魔法少女システム」の外側にいるんですよね(関連記事→北白川たまこの孤独と、その解消 )。北野武の『アウトレイジ・ビヨンド』(感想)もちょっと似た話でした。これはゼロ年代~10年代前半モデルの結末という感じがして、ここ最近のアニメや映画を観ていると、反対に「ゲームへのベタな没入」がトレンドになってるのかなー、という印象も受けます(揺り戻しが来てる?)。