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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

映画『聲の形』感想メモ:「スキ」と「バカ」

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※ちょっとした「気付き」についてのメモ的記事。ネタバレあり〼

 

先日行われた『聲の形』の舞台挨拶で、山田尚子監督がこんなエピソードを披露していたそうです。原作にはないアニメオリジナルのシーン…学園祭での硝子と植野の「バカ」のやりとり、手話(指文字)について。

じつは植野の手話は間違っていて「ハ、カ」になっちゃっているんです。濁点は手をスライドさせるんですが、それを硝子が教えてあげるんですが結果、植野に「バカ」って言ってしまっているような感じなんです。

映画『聲の形』大ヒット御礼舞台挨拶に入野自由、早見沙織、悠木碧らメインキャスト&山田尚子監督が揃って登壇。| アニメレコーダー

私は、植野と硝子が対等な位置に立って「バカ」と言いあっている...ささやかなコミュニケーションが成立した、というシーンだとずっと解釈していたんだけど(会場にいたお客さんも、この話をきいて驚いていた方が大勢いたようなので、似た解釈をしていた人は多そう)じつはそうではなくて、ラスト近くのあのシーンに至ってもコミュニケーションのすれ違いが(それまでと変わらず)発生していた。

そして手話のわからない観客は、あそこで植野同様に硝子の意図を受け取り損ねてしまう…というメタな仕掛けがほどこされていたシーンだったんですね。

以前の感想でも書いたように、『聲の形』は「ヒロイン・硝子の直接的な心情描写や、行動の意図の説明を排除する」という姿勢で演出されている作品で、将也(と観客)は、硝子の外面から彼女を「解釈」するしかない*1

そのことによって「他人を理解することの難しさ」があぶりだされるという作劇になっていて、その姿勢はラストの植野と硝子のやりとりのシーンでも維持されていた。そして、そうした難しさ(不可能性?)は、「健聴者」同士がおこなっているコミュニケーションにおいても同じことなんですよね。

それで、山田監督の話をきいて遅ればせながら気付いたのは、植野と硝子の「バカ→ハカ」のやりとりは、硝子が将也に告白する「スキ→ツキ」のくだりと対応していたのだなー、ということ。

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告白シーンでは、(相手の声がよく聞こえるように?)耳をさらけだした硝子が、将也に寄り添ったコミュニケーション手段=「声」によって自分の気持ち(好意)を伝えようとするけれど、その必死の試みは失敗してしまいます(「スキ→ツキ」への意味のズレ)。

硝子の言葉が上手く聞きとれずに戸惑った将也は「手話使ってよ」と伝えるけれど、でも硝子は、頑なに手話も文字も使おうとしません。将也に気持ちを伝える手段は声以外にもあるのに、ここでの硝子は「 ”健聴者” と同じ方法で気持ちを伝え、その返事を受けとめることができなければ」と、痛々しく自分自身を追いつめてしまっているように見えます*2

いっぽう、「バカ→ハカ」のくだりは、植野が硝子に寄り添ったコニュニケーション手段=「手話(指文字)」によって自分の気持ち(敵意)を伝えようとするけれど、その意味がズレてしまう…という、告白シーンとは立場を入れ替えたシチュエーション。ここでメッセージの発信に失敗しているのは植野のほうです。

硝子は植野の言いたいことを察して「バカ、はこうだよ」と教えようとするけれど、またしてもコミュニケーションのすれ違いが発生し、まるで硝子が植野に「バカ」と言っているかのような雰囲気になってしまいます。硝子の意図は植野(そして多くの観客)に正確には伝わらない。でも、ここで硝子はすごく楽しそうな笑顔を浮かべています(愛想笑いが癖になっていた硝子が、唯一心から笑っているシーン?)。

一見コミュニケーションが成立しているようでいて、じつはすれ違いが起きており、でも硝子は笑顔を浮かべている。この事態をどのように解釈するかはほんとうに観る人ごとに異なると思うし、『聲の形』は全体がそういう重層的な作品なのですが。

私の感想だと、ここでの硝子は「 ”健聴者” と同じ方法で気持ちを伝え、受けとめることができなければ」という思い込みから解放され、自分のコミュニケーションの不完全さを、少し許すことができているように見えました*3

そして『聲の形』は、「健聴者」「聴覚障害者」の別にかかわらず、人と人とのコミュニケーションは完全には成立し得ない…という認識がまず根底にあって、それでもなんとか他人と関わろうとするキャラクターたちの姿を肯定的に描いた作品だと思います*4

最近オンエアされているテレビCMの「その想いは、きっと伝わる」という「感動的」なキャッチコピーとは裏腹に、『聲の形』は「ときには伝わらないことも、努力ではどうにもできないこともある」という点をフラットに見据えた作品です(将也が「目と耳を開く」クライマックスシーンで「よく学校来れるよね」というネガティブな声が彼に投げつけられているのは印象的)。

でも、そうした不完全さを受け入れたうえで、それでもどうにか他人と関わっていこう...という境地を、硝子の晴れやかな笑顔とともに描いていること(「完全」には成立し得なくとも、他人とのコミュニケーションは互いのあいだに何らかの相互作用ーーポジティヴなものも、ネガティヴなものもーーを生み出す意味があるということ)、そして作中一番の硝子の笑顔が、将也ではなくて、硝子を敵視している植野とのコミュニケーション(正確には、コミュニケーションの「すれ違い」)の中においてもたらされること。

こういった点がとても美しい作品だなー、と、あらためて思いました。

 

*1:山田監督のインタビューより。「(原作者の)大今先生からは、この作品はあくまでも将也の物語であって、硝子の物語にはしたくないというか、硝子の一人称は使ってないとも聞いてたんですね。だから、技術的な面でも、結絃がいてくれてすごく助かったんです。結絃がいることで(将也と一緒にいない時の)硝子にカメラが振れるんですよ。」映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!

*2:そのように、硝子サイドからすればけっこう悲痛なシーンだと思うんだけど、アニメは(原作も)あくまで将也サイドから演出されているので、あのシーンは軽めなトーンで処理されているんですね。ここで、もろもろ「軽卒・反則」は承知のうえで原作者の発言を参照すると、硝子は「耳が聞こえないことも含めて、周囲が望むような自分に変われないから、みんなに迷惑をかけていると。そんな自虐的な想いが、彼女のなかにある加害者意識に繋がって」しまっているキャラクターだとのこと。「被害者」ではなく「加害者」意識というところが、硝子と将也が「極限で似るもの」たる所以です。(大今良時ロングインタビュー:『聲の形 公式ファンブック』|講談社

*3:もちろんシンプルに、植野が自分と向きあうために指文字を覚えてくれたことが嬉しかった(敵意を伝えるためであろうと)というのも大きいと思います。

*4:作中何度も映し出される「水の波紋」がイメージさせるように、硝子はコミュニケーションの「タイムラグ」に悩まされているけれど(周囲の人達の会話の内容が、誰かに通訳してもらうまで理解できない)、この「タイムラグ」は「健聴者」同士のコミュニケーションにおいても発生しています。たとえば小学校時代の将也と硝子の母親同士の話し合いのシーンで、将也はふたりの会話の内容を推測するしかない立ち位置に置かれ、硝子がいつも感じているのと同質の不安を感じる。同様に、遊園地の観覧車内での植野と硝子の会話についても、ビデオ映像によって将也がその内容を知るまでには時間差がある。くわえて、入場特典として配布された原作者によるマンガ(10月8日〜再配布予定)も、「母の言葉の真意が、何年ものタイムラグを経て娘に伝わる」という話でした。