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映画『聲の形』感想 ~コミュニケーションの不完全さをあぶりだす

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※記事前半はネタバレなし、後半はネタバレあり感想です。

 先日、試写会でひと足早く、映画『聲の形』(公式サイト)を観ることができました。誘ってくれたランゲージダイアリーの相羽さん(ブログ)ありがとうございます!!

 大変な傑作でした...。「すっごい泣けた!」みたいな即効性の高いカタルシスを与えるタイプの作品では(あまり)なくて、ディティールを丁寧に丁寧に積み上げていき、その積み重ねがしだいにジワジワ効いてくるという、エンタメ成分抑えめのストイックで精緻な作りに惚れ惚れ。もう余韻で頭がいっぱいで、他のことがうまく手につかない…。

 以下、簡単なネタバレなし感想です。

 

▶︎ヒロインの聴覚障害は作品のメインテーマではなくて、人間同士のコミュニケーションが原理的にはらむ「不完全さ」を増幅してあぶりだす役割を担っていたと思います。

▶︎言葉や表情を介したコミュニケーションは、「障害者」「健常者」(カギ括弧つけておきますけど)の別に関わらず本来はとても不完全なもので、でも普段はあまりそれを意識せずに日常のやりとりを交わしているわけだけど、それって本当に伝わってる?他者とのコミュニケーションって本当に成立するのかな?という普遍的な(おお)問いを突きつけてくる作品。

▶︎だから「若いモン同士の “傷ついた・傷つけられた” のドラマには興味もてないよなー」という世間擦れした大人(オ、オレは違うし...)にもリーチし得る作品になっている。人と人との間にあたり前に存在する「断絶」をふまえたうえで、その先にある「かろうじて」のつながりが希望として描き出されています。

▶︎もちろん、思春期に誰もが抱える「痛さ」や「青さ」も驚くべき繊細さと精度で描かれていて、この点では十代のころの自分に観せてあげたかったなーと思いました。あ、CMでは告白シーンがフィーチャーされているけれど、恋愛要素はそんなに前に出ていなくて、もっと広い意味での人間関係が扱われています。

▶︎山田尚子監督作らしく映像イメージもとんでもなく豊かで(過去最高レベル!!)1回や2回の鑑賞ではとうてい咀嚼不可能。もうすでに観返したくてたまらない。公開はよ!

▶︎最後に。この作品は「音」がとても重要で、皮膚にビリビリくるような重低音を出すことのできる劇場の音響環境を活かした演出がなされている個所がいくつかあるので、ぜひ映画館で観るのが良いですよ。

 

※テレビ放映されたメイキング番組のロングバージョンが、公式サイトで公開中。

映画「聲の形」ができるまで | 映画『聲の形』公式サイト

 では、以下の感想はネタバレありです。一部上の感想と重複する個所がありますが、ご了承ください(原作マンガ未読、文中の『聲の形』はすべてアニメ版を指します)。

 

◯ヒロインについて

 作品のヒロイン・西宮硝子は先天性の聴覚障害をもったキャラクターですが、でも『聲の形』は「障害」をメインテーマにしたアニメではなくて、この点に関しては、出演者のひとり・金子有希もコメントをしています。

監督もおっしゃっていましたが、これはある男の子と聴覚障害をもつ女の子の話ではなくて、皆の心の話だと私も思います。実際私も家で台本を読んでいたとき、西宮さんが聴覚障害をもっていることを途中忘れていたぐらいです。

キャストコメント公開 | 映画『聲の形』公式サイト

 私の感想ですが、硝子の聴覚障害は、人と人とのコミュニケーションが本来的にもつ「不完全さ」とか、人と人とのあいだにある埋められない「距離」の存在を増幅し・あぶりだす役割を担っていたとおもいます。

 これは一般論だけど、他人の気持ちって、どんなに近しい間柄でもほんとうのところはわからないですよね。「脳味噌がつながってる」とか「人類補完計画が完遂されて他者との境界がなくなった」とかでないかぎり、他人が何を感じているのかは、ほんとうの意味ではわからない。

 『男はつらいよ』の寅さんの名セリフで「はやい話が、俺が芋を食ってお前が屁をするか!?」というのがあるそうだけどそういうことで、「他者」はどこまでいっても「他者」。

 

●寅さんの名セリフについて→ほぼ日刊イトイ新聞-ダーリンコラム

●参考 『クリーピー 偽りの隣人』 〜「本当はつながってないよ、人間なんて」

 

 公式サイトのキャラクター紹介文を引けば、硝子は「コミュニケーションの困難や失敗を日常的に経験してきたせいで、他人との摩擦を避けるため、愛想笑いが癖になっている」女の子。

 だからたとえ笑っていても実際は何を感じているのかわからなくて、それがまた主人公の将也たちを苛立たせる結果になるんですが、でもこれはほんとうは全ての人間関係にいえることです*1

 事実、映画の中盤では、高校生になって仲良しになれたとおもっていた主人公たちグループのあいだの亀裂がつぎつぎと暴かれていくシーンが描かれます。「仲良しグループ」のあいだの相互理解なんて、ほんとうは成立していなかった。言葉や表情は、コミュニケーションの手段として極めて不完全で、硝子のばあいはそれが増幅されて表れているだけ。

 それでも我々はその不完全な手段でなんとかお互いにコミュニケーションをはかるしかなくて、それはとてもあやふやなこと。

 小学校時代に、硝子が周囲に溶け込もうと ”空気を読まずに”「何を話していたのですか?」と、談笑するクラスメイトたちに筆談で話しかけたときに、彼女たちがみせたうんざりした表情からは、普段は意識せずに済んでいるコミュニケーションの「自明でなさ」「不完全さ」を突きつけられた苛立ちを読み取ることもできます…というのもまた、私の勝手な「解釈」ですが。

 

◯将也が「解釈」した硝子

 原作については未読なのでわからないけれど、アニメ版はおもに主人公・将也の視点で、彼の主観によりそってストーリーが進行していきます。周囲の人々の顔にことごとくバツ印がついている...というのは将也の主観からみた風景。

 そして、ヒロイン・硝子の視点に寄り添った心情描写は、中盤までは(あまり)描かれない。描かれるのは、将也から見た硝子の外面です。将也は外面を手掛かりに、彼なりに彼女を「解釈」するしかなくて、でもその「解釈」が徹底的に間違っていた…ということが判明するのが、硝子が飛び降り自殺を図るシーン。

 自殺を考えるほど硝子が追いつめられている、というはっきりとした描写がないので、このシーンは観客にとってもかなり唐突で(私は驚きました)、その唐突さがポイントになっている。将也は硝子のことをまったく理解できていなかった、ということですよね。

 彼女をいじめた過去を悔いて、手話を習い、おそらくは読話(俗にいう読唇術)の訓練もして*2コミュニケーションを取っているつもりだったけど、ぜんぜん通じていなかった。

 硝子の辛さに気付くチャンスはあって、遊園地で「昔自分をいじめた奴といきなり引き合わせられてもな…あ、オレ、西宮さんに同じことしてた…」というシーンとか、その後の、観覧車内で硝子が直花から憎しみをぶつけられる姿をビデオカメラの映像ごしに見るシーンとかあったわけです(ここも、隠し撮り映像という性質上、責められる硝子のリアクションが画面に映らない…つまり、そのときの硝子の心情がわかりにくい演出になっている)。

 あるいは、二人きりのデート(?)のときも、硝子は「私がいると不幸になる」みたいな心情を漏らしていたりして(後に直花から「悲劇のヒロイン気取りか!?」と指弾されるような類いの)、彼女は将也同様に普通に弱さも臆病さも持っている女の子なんだけど、そこに気付けなかった。これは残念ながら、仕方のないことでもあるのですが。将也と硝子は別の人間なので。

 かつて自殺を考えたことのある将也が、同様に追いつめられている硝子の気持ちを理解できない。硝子は将也にとって「わからない」他者の代表です。

 

◯告白の空振り

 硝子が勇気を振り絞って将也に「好き」と告白するけれど、それが伝わらずに「つき…?ああ、キレイだよね、月」と返されてしまうシーン。

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 ラブコメ的でかわいらしくもあるシーンですが*3、これもまたコミュニケーションのすれ違い。「恋愛もの」であれば、この誤解は最後に解けるのだろうけど、『聲の形』では硝子の想いは伝わらず、恋愛は(とりあえずは)成就しません。この作品で描かれるコミュニケーションは、どこまでも不完全。

 この時点で主人公とヒロインの恋愛が成立してしまうと、ふたりが「生き辛さの克服」の根拠を、お互いの存在に見いだしてしまう…つまり「ふたりの世界」に退行して共依存に陥ってしまう危険がある。それだと、将也の自閉状態(他人の顔に一方的にバツ印をつけてしまう)はいつまでも解除されない。

 アニメで描かれた時間の先に、将也と硝子が恋人同士になるという未来が(もしも)待っているとすればそれは素敵だけど、この物語の枠のなかではそこは描く必要はない…ということなのかな、と。こういう物語の結論が「恋愛で救われました!」だったら、ええ〜!?ってなっちゃいますしね。

 

聲の形

 硝子の「すき」という告白が「つき」にすり替わる。その直後に画面に映し出される月は満月じゃなくて、たしか三日月とか半月だったと思うけど、ここはコミュニケーションはどこまでも完全には成立しない(完全な円にはならない)というシーンで、でも必ずしもネガティヴな意味合いばかりが含まれていたわけでもないように思います。

 「すき」が「つき」という、音として似た「形」にすり替わったとしても、そこに何らかのリアクションの連鎖は発生している。そしてそのような連鎖運動の影響をうけて、自分が少しずつ変化していく(否応なしに変化させられていく)...そういう、喜ばしくも恐ろしくもあるような意味で存在する他者。

 『聲の形』というタイトルは、会話における「言葉」から「意味」が抜き取られ、純粋な「音=空気の振動の形」だけになった状態を表しているのかな?と私は解釈してみたのですが、コミュニケーションにおける「意味」はいつだってズレていきます。正確には伝わらない。でも、そこになんらかの、その人にしか形成し得ない「形」が存在しているということは確か。

 人間は、コミュニケーションの不完全さに怯え、苛立ちながら、それでもお互いの存在の「形」を手さぐりで確認しあって進むしかなくて、将也がその不完全さを認識し、肯定できるようになるまでの過程を描いたのが『聲の形』という作品だったんじゃないかなー、と思います。


◯むすび

 将也がその状態に至るラストに、特別に派手な物語的イベントが用意されているわけではないのが素晴らしくて、いったんはバラバラになりながらも再合流を果たした友人たちと、ただ学園祭を見て回るだけなんですよね。

 この、皆が集まってくるシーンをことさらオーバーに盛り上げないところが品格があって、「再合流」を果たしたとはいっても、将也も友人たちも大団円的に万全な状態からはほど遠い。

 たとえばみよこは「変わろうとしたけど変われなかった」ままだし(これから変わろうというスタートラインについたところ)、自分のなかのズルさを直視できていなかったみきも、髪型を変えていたので何らかの認識の変化はあったのだろうけど、そのあたりは明確には描かれない。

 将也は過去に自分をいじめた友人と和解していないし、これからの高校生活がどうなるかについても、手放しで明るい見通しが立てられる感じではない。

 「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と書いたのは夏目漱石ですが*4、ヘンな言い方かもしれないけど、この作品のキャラクターたちは問題を「ちゃんと積み残している」。

 そんな不完全なキャラクターたちが、お互いに行き違いや隙間も抱えながら、それでもそれまでのストーリーを経て一緒に学園祭(学校が外の社会に ”開かれる” 場)を見て回る地点にまで至る。

 そして、そのような不完全な状態、「わかりあいたいけれど、全てをわかりあうことはできない」という状態で、それでも皆と一緒に歩くことができているというかすかな「つながり」に将也が幸福を感じたとき、周囲の人達の顔にはりついていたバツ印がつぎつぎと剥がれ落ちていく。「あの人は自分とは関わりがない」という一方的すぎる「解釈」の檻からの解放。

 (ここで、BGMとともに重低音が皮膚にビリビリくるレベルで鳴らされる…音の「形」が伝わってくるという演出が鳥肌モノ。)

 派手な物語的イベントが用意されていないのに、このラストシーンが感動的なのは、そこに至る130分に迫ろうかという緻密な積み重ねがあったから。

 いまどきの商業アニメーションとしてはかなりストイックな作りで、人によっては地味という印象を受けるかもしれない『聲の形』ですが、観客の感情をひとつのベクトルに誘導しようとし過ぎずに、そのぶん深く豊かな余韻を与えてくれる大傑作でした。

 

 

※ランゲージダイアリーさんの『聲の形』感想記事

映画『聲の形』の感想〜ポニーテールで気持ちを伝えられなかったハルヒ(=硝子)だとしても生きていくということ(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

※当ブログの感想記事その②(硝子サイドから)

映画『聲の形』感想メモ:「スキ」と「バカ」 

 ※山田尚子監督『たまこラブストーリー』感想記事

アニメは「あらすじ」ではない 〜 たまこラブストーリー 感想 (ネタバレなし)

北白川たまこの孤独と、その解消 

 

*1:たまこまーけっと』放映時のインタビューで、山田監督は作品のキャラクターたちについて「笑ってるからって、その子はただ笑ってるだけってわけじゃないですからね」とコメントしています。→『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊦ 

*2:将也がクラスメイトたちの自分への悪口を、唇の動きから読み取るシーンは、彼が「読話」の技術をある程度身につけていることを示しています。ただし、読話はそこまで正確に発話の内容を特定できるわけではないそうなので、あそこで言われた陰口にも、かなり将也の「解釈」は入っていそう。

*3:追記:1回目の鑑賞時には、演出のトーンも手伝ってちょっとコミカルにも見えた告白のすれ違いですが、2回目、あらためて硝子の気持ちを想像しながら観たら、けっこう悲痛なシーンだと気付かされました。ずっと髪で隠していた補聴器(耳)をさらけ出して、手話ではなく、将也に寄り添ったコミュニケーションの手段=声で「好き」と伝えようと勇気を振り絞ったのに、伝わらない。その硝子の悲痛さに気付けない...という将也側の視点に立った演出なので、あのシーンはあえて「軽め」なトーンで処理されていたんだなー、と。

*4:『道草』のラスト。漱石の小説は、そのほとんどがきれいに「片付かない」オープンエンドになっています。