ねざめ堂

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『ワールド・ウォー・Z』(小説版)~中心のない悪夢

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 世界ゾンビ大戦小説『ワールド・ウォー・Z』を今ごろ読んだので感想です(原書:2006年 日本語版:2010年出版)。著者のマックス・ブルックスって、あのメル・ブルックスの息子なんですね。びっくり。

 小説とは別物だった、ブラッド・ピット主演の映画版(2013年)にもちょっとだけ触れてます。

 

 最初から一般論というか教科書的な話になってしまうけど、ジョージ・A・ロメロが『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(1968年)や『ゾンビ』(1978年)によって再定義してみせた、モダンなゾンビ(大量殺戮の世紀・大量消費社会の到来に対応したモンスター像)と、その他の伝統的モンスターとの大きな違いは「物語性の有無」という点にあるんじゃないかと思う*1

 吸血鬼ドラキュラフランケンシュタインの怪物・狼男などの伝統的モンスターたちは、ある種のダーク・ヒーローとして、それぞれに固有の「物語」を背負っている(とくにフランケンシュタインの怪物には「近代的自我の確立」という物語性が顕著)。それに対してゾンビの恐ろしさは、むしろ個々の「物語」の剥奪にある。

 いったんゾンビになった者は、自身に固有の物語を忘却し、かつての家族や恋人をも無差別に襲う。そして代替可能な存在として「群れ」のなかに埋没してしまう*2。そこにゾンビ特有の恐ろしさがある。

 このゾンビたちの群れには、中心となるカリスマも「こいつさえ倒せば」というラスボスも存在しない*3。小説『ワールド・ウォー・Z』には、ある軍人がゾンビたちとの戦闘の困難さについて語った、こんなセリフが登場する。

 

実に皮肉じゃないかね。ゾンビの場合、集団全体に対して頭脳としての役割を果たす司令塔が存在しないがゆえに、やつらを殺すには個々のゾンビの脳を破壊するしかないだなんて。統率も指揮系統もなく、コミュニケーションや協力関係はいかなるレベルにおいてもない。暗殺すべき大統領もいなければ、正確に一撃を加えるべき司令塔もない。個々のゾンビはそれ自体で自足した自動ユニットだった。

 

 この「中心の欠如」は、「物語≒固有性の剥奪」と並ぶゾンビの特徴だと思うんだけど、このように「中心」を欠いた攻撃的集団としてのモンスター像が、「中心」を欠いたテロリズムの脅威にさらされる時代性にフィットした結果…なのか(?)、21世紀に入ってからの世界的なゾンビブームはいまだ継続中。そして、小説『ワールド・ウォー・Z』には、この「中心のなさ」が、語りの構造として導入されている。

 小説は「世界ゾンビ大戦」を生き抜いた人々の、短いインタビューの集積から構成される。インタビュイーの国籍・人種・性別・年代・職業はさまざまで、彼らひとりひとりにとっての「ゾンビ大戦」体験があり、各々の言い分はときに食い違い、対立する。

 時間の推移にともなう大局的な情勢の変化というおおまかな流れはあるものの、物語としては決定的な「中心」を欠いた、それぞれにとっての悪夢のような「ゾンビ大戦」体験の断片が延々と書き連ねられていく...という小説。

 群像劇とも異なる、それら複数の「ストーリーの断片」をつなぐ中心的存在はインタビューアーだが、彼は自らの存在の痕跡を本のなかから極力消し去ろうと努力している。

 

本書は彼ら(引用者註:インタビュイー)の本であって、わたし(引用者註:インタビューアー)の本ではない。わたしは可能な限り黒子としての立場に徹しようとした。本書にはわたしからの質問も掲載されている。ただしそれは、読者の声をわたしなりに代弁したものにすぎない。わたし自身は判断も、またいかなる類いの論評も留保しようとした。もし本書から排除すべき「人間的な要因」があるとすれば、それはわたし自身のものである。

  

 つまり、ゾンビの群れに「中心」がないことに対応するように、小説の構造からも「中心」が排除されているわけで、この操作によって『ワールド・ウォー・Z』は、エンタメながらもどことなく「文学」っぽい佇まいをそなえた小説に仕上がっている。

 「生存者たちへのインタビュー集」という体裁は、エンタメ作品としてはけっこうリスキーで、まずひとつひとつのインタビューが短いために、インタビュイーの語る物語に感情移入がし辛い(感情移入する前に、インタビューが終了してしまう)。さらに、それぞれの物語のなかで、語り手が命を落とさないことがあらかじめ確定している=スリルに欠ける、という弱点もある。

 この手のホラー/アクション系エンタメの多くは、登場人物にある程度の感情移入(までいかずとも、まあ「馴染み」みたいなもの)を感じさせたうえで、そのキャラクターたちを危険な目に遭わせる。そのことで、作品の受け手をハラハラさせるという楽しみを提供するわけだけど、『ワールド・ウォー・Z』はあらかじめそれを放棄していることになる。

 この小説は意図的にそういう風に書かれているので、これは作品の欠点とは言えないし(逆にそのようなキャラクターとの距離の置き方に魅力を感じる読者も多いだろう)、個人的にも、物語においてキャラクターに感情移入や共感ができるかどうかはそんなに重視しない方なんだけど、エンタメとしてはやっぱり、やや異色の作りだと思う。

 『ワールド・ウォー・Z』は、そうしたエンタメとしてのリスクを承知のうえで「中心のなさ・語りの複数性」を導入している。すでに「自動ユニット」と化したゾンビたちにとっては「中心のなさ」と個々の固有性はまったく結びつかない(物語≒固有性をすでに剥奪されているので)。だが、作品に「中心」が存在しないことによって、インタビュイーたちの語るそれぞれの物語(ときに矛盾し、対立する物語)には、それぞれの立場なりの切実さが付与されていく。

 自身に固有の「物語」を忘却し、群れに埋没したゾンビ。いっぽう、一人一人が代替不可能な「物語」を抱えて生きている人間。両者の「あり方」の対比が「中心の欠如」という作品の構造によってあぶり出される...という仕掛け。

 じっさい、さまざまな立場の人々の口を通して語られる、多岐にわたる職業的ウンチクの数々は魅力的で、この本1冊を書くためにどれだけのリサーチが必要だったんだろう?…と想像しただけで頭クラクラ。政治・経済・軍事・文化的なシミュレーションも膨大で、楽しませてくれる。

                    ◯

 そのような「中心のなさ・語りの複数性」が魅力の小説を、「中心=主人公」のいる1本のストーリーの形に移植するのはやはり難しく、ブラッド・ピット主演の映画版は、大元のコンセプトからして別物の仕上りになっていた。

 ただ、中盤までのブラッド・ピットの「主人公として観客の興味をひっぱる程度にはかっこよく、でも大局に対しては無力」という、中心として機能しているような・していないような...的役作りのバランスはさすが。この人は役柄やシチュエーションによって、すごく器用に色気を出したりひっこめたりできる。

 でもこの主人公、ラストでは「巡礼の旅の果てに世界を救う発見をする」という、宗教がかった役どころにクラスチェンジしてしまう。主人公はもうちょっと無力なままでも良かったな…と思って思い出したのは、スティーヴン・スピルバーグ監督『宇宙戦争』(2005年)。押しも押されぬトップスターであるトム・クルーズを主人公に据えながら、子連れの彼が圧倒的な暴力の嵐のなかをひたすら逃げ惑うだけの陰惨な傑作。

 「匿名的な暴力」「難民」という、考えてみればすごくスピルバーグっぽい要素が入っていた『ワールド・ウォー・Z』。スピルバーグとブラピの顔合わせ、見てみたかったなー。

 

*1:いっぽう『ゾンビ』でロメロがなした最大の功績は「消費社会批判」や「人間ドラマ」なんかじゃないよ…という文章→ 阿部和重オフィシャルサイト これを読んで、思わず『ゾンビ』観返してしまいました。やっぱり圧倒的に面白い!

*2:ザック・スナイダー監督『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)は、ホラー映画ファンのあいだでは賛否が割れたけど、冒頭でサラ・ポーリーを猛烈に追いかけていた元・夫のゾンビが、あっさりと「より狩りやすそうな別の獲物」に目移りするシーンは「物語≒固有性の剥奪」というポイントをきっちり押さえていて良かったです。また、「◯◯のそっくりさん」をヒントにゾンビをライフルで狙撃するシーンも「固有性の剥奪」ネタ。『28週後...』(2007年)のロバート・カーライルのゾンビが、元・家族に執着する(物語 ≒ 固有性の再導入)のよりも、ゾンビ化の怖さが出ていて好きでした。

*3:ロメロの後発のゾンビ映画では、自我に目覚め、指導的な役割を果たすゾンビの存在が描かれていて、そういう「固有性の再導入」という流れも確かにあるんだけど、この記事では、初期ロメロ映画で確立され、『ワールド・ウォー・Z』でも採用された「物語≒固有性が剥奪されたゾンビ像」を重視します。