「ファミリー」映画としての『オーシャンズ12』
景気の悪いことが多くて、パーっと豪華な娯楽映画が見たい気分になったので、ひさびさに『オーシャンズ12』を鑑賞。
これを3週間で撮影してしまうソダーバーグ!クルーニーとブラピが並んだときの無敵のゴージャス感!なんか色々と別次元です。ハリウッドすげー。
記事の流れは、
①「メタ犯罪映画」としての『オーシャンズ12』
②『オーシャンズ11』へのツッコミとしての『オーシャンズ12』
③「ファミリー」映画としての『オーシャンズ12』
という感じになっております(ネタバレ注意)。
①「メタ犯罪映画」としての『オーシャンズ12』
シリーズ第1作『オーシャンズ11』(2001年)が「ベタ」な犯罪映画だったのに対して、続編の『オーシャンズ12』(2004年)は「メタ」な犯罪映画になっています。
今回、ジョージ・クルーニー演じるダニー・オーシャン一味は、ヨーロッパで活躍する怪盗「ナイト・フォックス」に「どっちが世界一の泥棒か勝負しようぜ」とゲームを持ちかけられます。ダニーたちはそのゲームに乗り、ナイト・フォックスとの勝負に挑む「フリ」をしながら、その裏で別ルートから盗みの標的を手に入れてしまう。
ナイト・フォックスが仕掛けてきた「盗みの腕前の勝負」という「ベタ」なゲームにたいして、ダニーたちは「お前が "親" のそのゲームには乗らないよ」という「メタ」なゲームをしていたわけです。
『11』のなかで、ダニーはゲームの「親」と「子」の関係に関して、こんなセリフを口にしていました。
「勝つのは親だ。結局はカジノが巻き上げる。勝つには良い手がきた時に一発勝負に出るしかない。」
「子=プレーヤー」は基本的に、ゲームの「親」に勝つ事はできない、という認識。『アウトレイジ ビヨンド』のヤクザたちは小日向文世に振り回されるし、『魔法少女まどか☆マギカ』の魔法少女たちはキュウべぇに勝てない*1*2。
『11』はそんな不利な状況下での「一発勝負」を描きましたが、『12』のダニーたちは、ナイト・フォックスが「親」としてルールを設定して仕掛けてきたゲームの、さらに一つ上の階層のゲームをプレイしている。『11』よりもゲームの構造が重層的になっているんですね。
映画のなかで、カメラはダニーたちの表面的な言動を映し出しながらも、彼らの真意(プレイしているゲームの種類)は観客に伏せられています。だから、表層で展開される「ベタ」なゲームの行方を見守る観客は「おい、このままじゃナイト・フォックスにボロ負けじゃないか」とハラハラすることになり、それが最後にひっくり返されるのがカタルシスにつながる、という仕掛け。
◯
じつはダニーたちがプレイしているのはメタなゲームだ、という伏線(というかほのめかし)は作中に散りばめられていて、『12』には作品の「外側(=メタ)」を意識させるギャグが頻出します。
たとえば冒頭の音楽スタジオのシーン。「ラップに規制の “ピー音” が入りすぎて、内容がわかんねえよ!」という口喧嘩にさらに ”ピー音” が被さるというギャグで、これは「この口喧嘩もまた ”オーシャンズ12” という映画のなかで行われていますよ」という、作品の「外側」を意識させる小ネタ。
大ネタはもちろん「ジュリア・ロバーツのニセ者」をジュリア・ロバーツ本人が演じる美術館のシーン。『11』でもTV俳優が本人役で登場するというシーンがあったけど、こちらはメインキャストをネタの素材にし、超大物ブルース・ウィリスを「本人役」として招聘することで、さらに「いまあなたが観ているのは ”オーシャンズ12” というフィクションですよ」という作品の虚構性が強調されることになります。
正直いって最初は、こういう「楽屋オチ」の多用は脚本の行き詰まりの表れみたいな感じがして、あんまり良い印象を受けませんでした(「メタ」や「パロディ」はやり方を間違えるとくどい)。
でも最後まで観ると、このメタなギャグの構造(「映画」の外側への視点)が、ダニーたちの真の計画(ナイトフォックスが仕掛けてきた「ゲーム」の外側への視点)とシンクロしていたことがわかる、という仕掛けになっているんですね。
②『オーシャンズ11』へのツッコミとしての『オーシャンズ12』
ナイト・フォックスのもちかける「ベタ」な盗みの腕比べゲームを、「メタ」な作戦でかわすダニー。これは、男達によるベタな盗みのゲームが繰り広げられた前作『11』へのツッコミにもなっています。
『12』のナイト・フォックスは、ダニーたちを自らのゲームに巻き込むために、彼らに多大な迷惑をかけるわけだけど、これは見方をかえると『11』のダニーの立場と重なりますよね。
ダニーは、かつての妻=テスを取り戻すために、テスの現在の彼氏であるベネディクト(アンディ・ガルシア)を、自らのゲームに巻き込んでいました(ベネディクトは作中で「敵役」とはいえ、ゲームを一方的に仕掛けたのはダニーの方です)。
そして『11』でのテスは、まるでダニーとベネディクトとのあいだで繰り広げられる「男たちのゲーム」の「景品」みたいな扱いを受けています。
それに対して、『12』でのダニーは、ナイト・フォックスのベタな挑戦を「それ、もう前作でやったから」とばかりにかわしてしまいます。いってみれば、『12』のダニーはちょっとオトナになっている。
そして女性陣(テスに加えて、新たに参入したイザベル)はゲームの「景品」ではなくて、「プレーヤー」としての活躍をみせます。
男達のゲームで女が「景品扱い」されていた『11』にたいして、『12』の女達は(「巻き込まれ感」はあるにせよ)自立したプレーヤーとしてゲームに参加しているんですね。
③「ファミリー」映画としての『オーシャンズ12』
ナイト・フォックスの仕掛けたゲームに「乗らない」というメタなゲームをダニー達がプレイするこの映画には、さらに外側の階層に属するキャラクターが登場します。ライナス(マット・デイモン)の「母親」と、イザベル(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)の「父親」。二人はともに、ゲームの「外側」からダニーたちを手助けする役目を果たします。
とくにイザベルの父親(伝説的な大泥棒、ルマーク)は、裏ルートでダニーたちにゲームの景品を引き渡すという重要な役割を担っており、彼がいなければ、ダニーがナイト・フォックスの仕掛けたゲームのメタ・ポジションに立つことは不可能でした。
犯罪者の一味を「ファミリー」と呼ぶことがあるけれど、『12』では、登場する犯罪者たちが、まるで一つの「家族」であるかのように描かれています。イザベルの父親と、ライナスの母親が「両親」で、ダニーやナイト・フォックスは彼らの「子供たち」。
この「家族」という視点から『12』の一件をみてみると、これは、兄(ダニー)に弟(ナイト・フォックス)が仕掛けた、いわば「兄弟ゲンカ」でした。優秀な兄に嫉妬した弟が「俺のほうが兄ちゃんよりスゲーぞ!」と仕掛けたケンカを、兄はお父さんに言いつけてしまったわけですね。
製作時、ピーター・フォンダがライナスの父親役として出演したシーンが撮影されたものの、編集段階でカットされた...という逸話がありますが、これも、父親ポジションのキャラクターが二人登場することで「家族」のイメージにブレが生じるのを懸念したのではないかなー?と思いました。
◯
映画のスタート時点では、ダニー一味の多くは、「家族」や「恋人」との関係に何らかのトラブルを抱えています。ダニーとテスは「家の改装」(=いったんは離婚という形で破綻した家族関係の再構築)に精を出しながらも、犯罪のスリルに未練のあるダニーのことを、テスはいまいち信頼できない。
同様に、ソールも妻に信頼されておらず、軽業師のイエンはガールフレンドと破局。モロイ兄弟は「結婚式(家族関係のスタート)」をベネディクトに台無しにされる。
そしてイザベルとの関係が破綻したラスティ(ブラッド・ピット)は、ホテル業の運営に行き詰まっています。ホテルは「家」と対照的な「仮の宿」ですね。結婚して「家」を再構築しようとするダニーと、ガールフレンドと破局して、仮の宿=ホテル業に手を出すラスティ。ふたりは正反対のベクトルに向かっているんだけど、どちらも上手くいっていない。
そんなダニー一味が「ナイトフォックス事件」を通して結束を強め、ラストではひとつの「家族」のように、カジノに集まりギャンブルを楽しむ。これが「ファミリー映画」としての『オーシャンズ12』のストーリーでした。
◯むすび
男達が女を「ゲームの景品」のように奪いあう『11』から、「ゲームには乗らないよ」と「親」に言いつけてしまう『12』ヘ。
そして『13』(2007年)では、冒頭のダニーの「Not Their Fight」というセリフに象徴される通り、「女」も「親」も排除した「男の子たちのゲーム」が、シリーズ中最も無邪気に展開されます。
(『13』でコミカルな味を出していたエレン・バーキンは、ジュリア・ロバーツやキャサリン・ゼタ=ジョーンズとは違って、ゲームのシリアスな「景品」でも「プレーヤー」でもありません。)
シリーズを精神年齢順に並べてみると、『12』>『11』>『13』という感じ?それぞれに持ち味があって、楽しいシリーズでした。ソダーバーグ、また映画に戻ってこないかなー。
クリフ・マルティネスと並ぶソダーバーグ映画の常連、デヴィッド・ホルムズの音楽もかっこ良かったです。
David Holmes - '7/29/04 The Day Of' (from 'Ocean's Twelve' soundtrack)
●BBC Radio1の名物番組「Essential Mix」より。※写真のおじさんはホルムズさんではありません。