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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『たまこまーけっと』を振り返る 第11話・第12話

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 基本的に一話完結だった『たまこまーけっと』で、初めての続きものエピソード…ということで、今回は、第11話・第12話(最終回)の合わせ技。

 ね、年内に完結させようと焦ったわけじゃないんだからね!

 『たまこまーけっと』シリーズのネタバレがありますので、ご注意ください。

 

◯第11話『まさかあの娘がプリンセス』

脚本:吉田玲子
絵コンテ:山田尚子
演出:北乃原孝将
作画監督池田晶子


◯第12話『今年もまた暮れてった』

脚本:吉田玲子
絵コンテ:石原立也山田尚子
演出:石原立也
作画監督池田和美

 

◯妃騒動

 シリーズ最終2話を費やして語られる「妃騒動」。

 たまこに突然結婚話が持ち上がるんですが、「結婚」といえば思い出されるのは、第7話『あの子がお嫁にいっちゃった』で商店街の外に嫁いでいった銭湯の娘・さゆりさんです。

 

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 着物のカット、小津っぽいですね…(恍惚)。「娘の結婚話」だけに?

 このさゆりの結婚と、たまこの妃騒動は「幸せの獲得」という意味において対比されているエピソードです(さゆりの存在を視聴者にあらためて思い出させるかのように、第11話・第12話では、彼女はたまこの妃騒動をききつけて、実家に帰省しています)。

 さゆりには、商店街の「外」に好きな相手がいて、その人と暮らすという幸せをゲットするために商店街を出て行きます。「幸せの獲得」において、彼女には地に足のついたビジョン(?)がある。

 いっぽう、たまこはメチャ王子とほとんど面識がなく、当然恋愛感情もありません。そもそも「南の島のプリンセスになる」という響きに非現実感がありますよね(たまこも「降って湧いた話」と表現しています)。

 もちろん、メチャ王子やチョイからすれば「王室」も「お妃探し」も現実的な問題なんですが、ここでは、メチャ王子に恋愛感情をもたないたまこサイドから見た「非現実感」がポイント。

 「ここではないどこか」から「王子様が」迎えにきて「プリンセスになってハッピーエンド」というおとぎ話チックな「幸せの獲得」がたまこにオファーされる。

 それに対して、たまこはすでに「いま・ここ」で幸せ(=商店街での日常)を獲得しており、その幸せを維持しようとしている。その物語がたまこにとっての『たまこまーけっと』だった…ということを明らかにするために、ファンタジックな「妃騒動」が描かれたのだと思います。

 

                      ◯

 

 いちおう補足しておくと、もしもたまこがメチャ王子に恋愛感情を抱いているのであれば、結婚のために商店街を出て行くという選択もアリ。そのような形での「幸せの獲得」はさゆりが実行していて、その選択は作中でポジティヴに描かれています。

 さゆりの結婚エピソードと、たまこの妃騒動との対比を押さえ損なうと、『たまこまーけっと』が「外の世界に出ることを拒否した、いまの日本の内向き指向を反映するアニメ」に見えてしまう人もいるらしいので念のため。

 

◯「母の死」と「シャッター商店街

 それで、「妃騒動」がきっかけになって、うさぎ山商店街が「シャッター商店街」化し、その光景を見たたまこが、母の死んだ時の状況を思いだして動揺する…というあたりのことについては、序論「結局、デラってなんだったの?」にけっこう書いてしまいました。

 

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 2013年に放映された『たまこまーけっと』は、その制作にあたって、やはり震災の影響を強く受けたであろうアニメで、たまこを動揺させたシャッター商店街は、震災によって途切れてしまった「日常」を連想させます。

 母の死からの直接的なショックだけに留まらない、もっと広範な、母の死の余波がもたらした「いつも」の風景の変容・日常の断絶が、たまこの「傷」として設定されている。

 だから、第6話『俺の背筋も凍ったぜ』で、夏枯れで人のいない商店街をみたときに、たまこは「怯え」にも似た表情を浮かべていました。その足元には「死」をイメージさせるセミの死骸。

 

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 「人のいない商店街」「日常の断絶」「母の死」。

 そのようなたまこの不安、いまある日常を維持しようという意思が、第1話からずっと溜めていた商店街のポイントカードだとか、客寄せのためのCM制作とか、あるいはお化け屋敷イベント開催などのエピソードに結びついていた、ということが見えてくる最終回でした。

 

◯「共同体の維持」テーマ

 そのように、たまこの願いは、日常が展開していくための「基盤」としての、うさぎ山商店街という「共同体」を維持していくことでした。

 この「共同体の維持」は、『たまこまーけっと』と同じメインスタッフ陣による前作『けいおん!』(2009 ~11年)シリーズでも描かれていたテーマで、とくに2期(2010年)では、主人公たちのバンド共同体を解散の方向へと追いやる世の中の競争原理や進歩・効率志向の影が、うっすらとストーリー上に浮上してきます。

 競争原理の力があまりにも強過ぎて、共同体や人と人とのつながりが分断されがちな社会の趨勢に対して、バランスをとろうとするような作品はアメリカでも作られていて*1*2、たとえばピクサーの3Dアニメ『カーズ』(2006年)。

 これは、競争から弾かれたエリートレーサーと、世の中の発展から取り残された地方共同体の再生がシンクロして描かれる話でした。

 アカデミー脚本賞を受賞した『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)も同様に、競争原理によってバラバラになりかけた家族が、末娘の「子供版美人コンテスト」参加をきっかけにつながりを回復する、という物語。

 どちらの作品もクライマックスは、レースやコンテストといった「競争」のまっただ中のステージで、主人公たちが「共同体の価値」を叩きつける様がカタルシスを生む、という作劇になっています。

 これは、やはり京都アニメーションが制作して、「競争と共同体」テーマを扱った『Free!』(1期)のラストとも共通する展開です*3

 

◯競争原理の後退と、共同体規模の拡大

 …というような流れを考慮すると、「共同体を維持したい」というたまこの前には、競争原理の壁が立ちはだかりそうなものなのですが。

 制作時期的には『けいおん!』と『Free!』にはさまれた『たまこまーけっと』には、しかし、商店街を脅かすそういった存在の影は(ほとんど)みられません。

 放映当時にネタ的に言われた「イオンが商店街の近くにできた!っていう設定にして、そこと戦う話にすれば盛り上がるのに」という展開を『たまこまーけっと』は採らなかった。

 『けいおん!』の後期にその端緒が示された「競争原理と共同体」テーマが直接的に引き継がれたのは『Free!』で、そのかわりに『たまこまーけっと』では、扱っている共同体の規模が『けいおん!』の「バンド」や『Free!』の「リレーチーム」よりも、ぐっと大きくなっています。「うさぎ山商店街」という地域共同体。

 たまこが維持したい商店街は、子供から老人、性的マイノリティーや外国人といったさまざまな人々が共存し、思想的に保守の豆大と、革新の吾平が衝突を繰り返しながらも、なんだかんだで一緒に暮らしている場所です。

 作品のオープニングや第1話で描かれる、ケンカする豆大と吾平のあいだに割って入るたまこの姿。

 

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 これは「けんかをやめて~♪」(古い)という仲裁というよりも、ときに意見の違いから衝突が起こりながらも、日常が続いていく商店街という「場」そのものを、たまこが愛している、という表現。

 たまこは、おそらく思想的には「革新」の吾平よりなんですよね(おもちの話ですけど)。「時代の変化をうまく取り入れないと、置いてきぼりになっちゃう」という考え。

 そういう自分自身の考えはあるんだけど、それはそれとして、いろいろな意見をもった人々が共存できている商店街が好き。だから、豆大と吾平のあいだに入っていくたまこを見て、もち蔵は「そこ好きだなー」と笑う。

 たまこが真剣に仲裁に入っているわけじゃなくて、たんに意見の違う二人の「あいだ」の場所が「好き」で、そういう場所があることが嬉しいんだ、ということをわかっているんですね。さすが幼馴染み!

 

◯「トラウマの告白」の回避

 そして『たまこまーけっと』は、「商店街という “日常の基盤” を守りたい」という、上に述べたようなたまこの個人的な意思よりも、基盤の上で、さまざまな人々によって展開される「日常そのもの」にカメラが寄っている作品でした。

 これまでの記事にも何度か登場した、この構造ですね。カメラの位置は、作品が物語を切り取る「視点」です。

 

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※図は第9話のもの


 以前「ストーリーアニメ」と「日常系アニメ」の違いについて記事を書いたことがあるんですけど、

線的な物語/面的な物語 

 「日常の基盤を守りたい」というたまこの意思を作中で明確に打ち出すとすれば、『たまこまーけっと』は「イオンと戦う商店街を率いる主人公・たまこの物語」という「ストーリーアニメ」になったかもしれません(あ、一面的に大型ショッピングモールが悪いと思ってるわけじゃないですよ。あくまで「例え」なので念のため)。

 ただ、作品としてその方向性をとると、たまこが守りたいと思っている日常の「何気なさ」は消し飛んでしまう。日常は、ことさらに意識されることなく、何気なくあるからこそ「日常」たり得ます。

 これは、以前 『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 ㊥  という記事にも引いたことのある文章なんですが、

 

「一見、日常に没入し、日常を空気のように呼吸しているかのように見える表現者も、その穏やかな日常がいつか終わるかもしれないことを当然のことながら知っている。日常にただ埋没しているだけの者に、日常が書けるわけがない。日常を表現する者が、日常の由来するところに対して、ナイーヴであり得るはずがない。」

 

「坊ちゃん自身は無口である。坊ちゃん、そして日常は、戦争や災害のように声高に叫びはしない。人々にある行動を無理矢理取らせたり、特定の世界の見方を強いたりはしない。そのような事情を了解し、珊瑚礁のなかの美しい平穏と、外洋の荒々しい波の両者を見渡せる者だけが、日常を表現し得る。」

 

茂木健一郎 『脳のなかの文学』)

 

 あくまでこれは、夏目漱石『坊ちゃん』についての文章なんですけど、個人的には『たまこまーけっと』も、このような作品だったんじゃないかな、と思います。

 たまこは過去の経験から、日常の大切さや儚さを痛感している主人公なんだけど、作品はそれを声高に叫びはしない。それを強調して訴えることは、作中で描かれる「日常」の「何気なさ」を霧散させてしまう。

 だから、たまこが、日常の大切さを認識するに至ったきっかけである「母の死にまつわるトラウマ」を告白しそうになると、すかさずデラが身体をはって止めに入ります。それも2回も。

 

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(左・第1回 右・最終回)

 

 デラは『たまこまーけっと』が「日常系アニメ」であるためのギリギリのラインを死守するストッパー役なんですね。

 

◯走るデラ

 さきほどちょっと話が出た『けいおん!』(1期本編)の最終回では、主人公の唯が仲間たちの待つステージに向けて走り、そこに唯のモノローグが被さります。

 

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 とくにやりたいこともなくボーっと生きてきた自分が、音楽や一緒にいたいバンド仲間(共同体)と出会った…という、『けいおん!』が唯にとってどんな物語だったのかを総括するモノローグ。

 名場面なんですが、いっぽう『たまこまーけっと』の最終回で走るのはデラ。お前かよ!

 

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 じつはたまこもその後から走ってるんですが、映される時間の長さ的にも映像的にも、フィーチャーされているのは圧倒的にデラのほう。走るデラの映像と交互に挿入されるのは、たまこが語った商店街の人々にまつわる思い出の断片。

 ここで走るたまこがフィーチャーされたり、彼女の走る姿にセリフが被さったりしないのが、やっぱり『たまこまーけっと』っぽいバランス感覚です。

 さきほどの「トラウマの告白」と同じで、それをやるとたまこの心情が前に出過ぎなんですね。エモくなりすぎてしまうから、デラさんに「代走」してもらっている(『けいおん!』はあのバランスでいいんですよ。『たまこまーけっと』の場合の話)。

 デラは、作中で「通信機」だったり、人と人とのあいだを「とりもつ」役割を担っている…という話も過去の記事で書きましたが(参考→第8話感想 )、これまではわりと無自覚にそのような媒介役をこなしていたり、通信機としても淡々と役目をこなすことも多かった。

 それが、今回は「伝える」という役割を自覚し、泣きながら走る!最終回にして覚醒!!(デラが...たまこの全力疾走は『たまこラブストーリー』までおあずけ。)

 

◯むすび:天気をメタファーに使わない

 このように『たまこまーけっと』は、「ストーリーアニメ」の主人公になり得る強烈な「動機」をもった北白川たまこを主人公に据えながらも、作中では彼女の心情描写を極力抑え、大勢いるキャラクターたちのワン・オブ・ゼムに近い形で扱うことで「日常系アニメ」としての体裁をキープしている…というアクロバティックな「ねじれ」を持った作品でした。

 むしろ、たまこへの思いに悶々とするみどりやもち蔵のほうが、主人公のたまこよりも心情描写が多かったぐらい。

 

                      ◯

 

 「商店街 ≒ 日常を変わらずに維持したい」というたまこの意思は、続く劇場版『たまこラブストーリー*4で「時間が不回避的にもたらす ”変化”」*5という試練にさらされます(変化は「恋愛」という形でもたらされます)。

 たまこが大事に思っている商店街が、これまでの時間の流れのなかで、どのようにその存在を維持してきたのか。それはじつは『たまこまーけっと』のなかでも描かれているんですが、それにたまこが気付く姿を、彼女の主観に寄り添って描いたのが『たまこラブストーリー』。

 つまり『たまこラブストーリー』では、主人公・たまこの心情に、カメラがぐっと寄っているんですね。

 象徴的なのが作中の「天気」の扱いで、『たまこラブストーリー』では、たまこの心に訪れた「変化」と呼応するように、優しい春の雨が降りはじめます。

 いっぽう『たまこまーけっと』では、雨が一度も降らない。私の思い違いで、降っていたら申し訳ないんですけど、でも天気がたまこの気持ちのメタファーとして使われている場面はないと思います。

 登場人物が密かに悲しい気持ちを抱えていたとしても、空はそれとは無関係に晴れている。『たまこまーけっと』が描くのはそういう世界。

 

                      ◯

 

 同じメインスタッフ陣の手による作品として、ほとんど正体不明レベルの強烈な「磁力」と「濃さ」をもつ『けいおん!』や、口あんぐりものの完成度を誇る『たまこラブストーリー』と比べると、『たまこまーけっと』は理が勝ちすぎているというか、抑制が効きすぎているというか、どこか固い印象があるのも事実です。

 でも、その「固さ」とか、奇妙な「ねじれ」になぜか強烈にひかれて、それらが愛すべき「頑固さ」に思えてきてしまい、結果たくさんの記事を書いてしまいました。これからも、折りに触れて観返す特別な作品になりそうです。

 最後の最後にもう1本だけ、補記的な記事。↓

 

「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』

 

 

◯おまけ

たまこまーけっと』は『けいおん!』ですでに予告されていた…!!(嘘)

 

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 監督かスタッフの誰かがおもち好きなんでしょうか。とにかく、今日の夜はフライングしてお雑煮を食べつつ『たまこまーけっと』の第1話を観ることにしよう。

 

 

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*1:パンチドランク・ラブ』(2002年)(感想 )も、資本主義的な分断の力学の隙をついた、個人の(ささやかな)逆襲を描いた快作。

*2:分断に過剰適応した中年男の悲喜劇『マイレージ、マイライフ』(2009年)もおすすめです。この主人公は、出張で全米を飛び回るのに付随して溜まっていくマイレージが、いつか1000万マイルに達して、その記念に航空会社のマスコットキャラクター「フィンチ機長」と会う日を夢見ています。人との「つながりのなさ」の積み重ねを誇りに思っている点で、商店街のスタンプカードを溜めてメダルを目指すたまことは真逆のベクトル。

*3:続く『Free! - Eternal Summer-』(2期)は、健全な競争と、共同体指向との両立を目指すという方向性。バランス、大事ですね。これをストーリーに落とし込むのは難しかったかな?と思わせるところも多少あったのですが、1期よりもきっちりと高いハードルに挑んでいる姿勢が気持ちよかったです。

*4:アニメは「あらすじ」ではない 〜 たまこラブストーリー 感想① 拡散と凝縮 ~ たまこラブストーリー 感想② 

*5:時間が不回避的にもたらす「変化」とのつきあい方について →「連関天則」の意味するもの 〜中二病でも恋がしたい!戀 感想②