ねざめ堂

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他者/ノイズ ~坂本龍一『Beauty』

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 「毎年、夏になるとこれ聴きたくなるんだよねー」という定番的なアルバムは誰にでもあると思うけど、自分にとってはこの『Beauty』(1989年)がその筆頭にあがる。

 アルバムのオープニングを飾る『Calling From Tokyo』のねばっこく腰のあるドラムと、その上をアイヤ~と漂うユッスー・ンドゥールの声を聴くと「夏だなー」という感じがしみじみと。

 

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 「時間」を杵と臼でぺったんぺったんと叩いて引きのばしていくような、一度聴いたら忘れられない呪術的なドラムは、スライ&ロビーのスライ・ダンバー(エフェクトもいい感じ)。元々レゲエ畑の人だけど、ボブ・ディラン『インフィデル』(1983年)等での名演も忘れがたい。やっぱり独特なタイム感。

 

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 サビでドッカーン!と派手に盛り上がるんじゃなくて、繰り返しのなかでジワジワと、0.1度ぐらいずつパフォーマンスの温度が上がっていくところが粋であります。

 話題がそれちゃったけど、『Calling From Tokyo』の他の参加メンバーを挙げていくと、さきほどのユッスー・ンドゥールに加えて、ブライアン・ウィルソン(『イマジネーション』で復活する約10年前!)、古謝美佐子に玉城一美の沖縄勢、加えて作詩にアート・リンゼイetc。さらにアルバムの他の曲には、ロビー・ロバートソンやロバート・ワイアットも参加と、あまりに豪華、かつごった煮なゲスト陣。

 制作の約10年後に本人が振り返るに、こんな動機で作られたアルバムだったらしいんだけど、

 

コンピュータは、自分の脳を外化するわけだけど、ネットワークがない場合、結局クローズド・サーキットなんだよね。そこには ”他者” が出てこない。出てこないってことは、ポストモダン的。ちょうど80年代的なんですよ。当然のことながら、神秘主義にいってしまう。

他者と触れ合わないといけない。”言葉” の通じない他者と。それで89年頃、コンピュータを使うのをやめて、沖縄の人たちと一緒に『Beauty』をつくってみた。

 運悪く、ワールド・ミュージックと同じ頃つくっちゃったんで、なんか類似品だと思われちゃったんだ(笑)。で、磁石のN極どうしみたいに、反発しあって、スタコラと逃げ出したわけ。

坂本龍一後藤繁雄『skmt』1999年)


 後付けでいえば、オウム真理教化しないために…みたいな感じ?『Beauty』の数年前には『Esperanto』(傑作!)みたいな密室的なアルバムを作っているわけで、いろいろと極端な人ですね。

 

自分のことは好きだけど、信用はしてない。自分が絶対だとか、世界と対立しようなんて気はさらさらない。信用してない。

僕は放っておくと、「自分だけでいい」ってことになりやすいから、一種の治療行為として、他者の侵入、呼び込もうという気持ちが強い。

坂本龍一後藤繁雄『skmt』1999年)

 

 この「他者」への意思が、ごった煮的・メルティングポット的*1なゲスト陣の招聘につながった模様。もちろんその他にも、セールス的な目論みなども色々あっただろうとは思うけど、結果としてすごく風通しの良いアルバムになっている。

 アルバムは『Calling From Tokyo』みたいなカラフルな曲と、影のある美しさを湛えた曲が交互に配置されていて、たとえば2曲目の『Rose』。

 

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 この曲なんか、昔は「地味でつまんないな」と思っていたけど、年をとるにしたがって『陰翳礼讃』的にグッとくるようになってしまった。梅雨の昼間の薄ら暗さ、あるいは夏の強烈な日差しの谷間にできる、ものすごく濃い日陰、みたいな感覚。

 そしてその次に、まるで暗い雲が吹き払われるように、必殺の『安里屋ユンタ』カバーがくる…という感じで、飽きさせない構成。冒頭のピアノの「ご〜ん」というコード一発で、名演だという確信が。

 

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 ここでひとつ注意したいのは、輸入盤にはサミュエル・バーバー『弦楽のためのアダージョ』のカバーが収録されていない、という点。 

 かわりにジル・ジョーンズが参加した『You Do Me』が入っていて、これはシングルにもなっていたので、当時アメリカ市場進出を狙ううえでは重要曲だったのかもしれないけど、明らかにアルバムからは浮いている。やはりこのアルバムは『アダージョ』で締めないと!というぐらい、この曲のアレンジが素晴らしい。

 演奏は教授のピアノ、JIANG JIAN HOAという奏者による二胡アート・リンゼイのギターによるトリオ。静謐な空気のなかで、二胡とピアノが交互にあの「この世の終わり」みたいな旋律を奏でて、そのバックでアート・リンゼイがざらりと錆びついたノイズを本当にうっすらと、でもおそろしく効果的に重ねていく。

 

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 5分30秒あたりで鋭く切り込んでくるギターノイズにゾクっときます。 

 以前、坂本龍一が司会をつとめていた音楽番組(『スコラ 音楽の学校 シーズン4』)で、中学生のときに聴いたドビュッシー弦楽四重奏曲(ブタペスト弦楽四重奏団の演奏)のレコードについて、こんなことを話していてーー

 ドビュッシーの音楽自体にもすごい衝撃を受けたんだけど*2、そのレコードには弱音部分で弦がこすれる音や、録音環境に起因するノイズが入っていて、そのノイズが良かった。

 子供のころに耳にしたレコードへのノスタルジーではなくて、ノイズ、音のテクスチャへの愛着。

  


Claude Debussy-String Quartet in g minor ...

 ※番組で言及されていた第3楽章は10分20秒あたりから

 

 同じ番組内で、坂本龍一シンセサイザーでキレイな和音を弾いてみせて「でも、これじゃつまんないでしょ?」と、音を操作してわざと濁らせていたけれど、そのような音の肌理への嗜好・愛着が表れたのが『アダージョ』のアレンジだと思う。

 このギターがなくてももちろん「曲」としては成立するんだけど、でも「この」演奏からはもう外せない。小津安二郎の映画から「空ショット」をカットしても「ストーリー」を理解するぶんには差し支えないけど、それはもう別モノになってしまう、というような意味において。

 逆にいえば、このアレンジによってバーバーの曲が、メロディはそのままに「別モノ」に組み換えられてしまっている感すら。ノイズの侵蝕による変質。

 夏の真っ昼間に携帯プレーヤーでこの演奏を聴きながら人気のない通りを歩いていると、まるで自分が幽霊になって、あてどもなく地上を徘徊しているような気分に襲われる。たまに誰かとすれ違っても「この人には自分は見えていないんじゃないか?」と疑いたくなってくるような、世界から切り離された感覚が心地よい。

 とはいえ、「他者」への呼びかけで幕をあけるこのアルバムが、最後には孤独の極地に至って幕を閉じる…なんて「ストーリー」を仕立てあげるのは見当違いなんでしょうね。

 

ほとんどの人が、物語性に回収されても不快に思わないのはなぜだろう。

坂本龍一後藤繁雄『skmt』1999年)

 

 

※2022年12月 映像リンクを修正しました

*1:メルティングポットとサラダボウル → 「この二つの思想と実践は、社会がともに必要としているレイヤーである。文化が混ざり合うこと自体は、このネット時代に最早否定できない。しかし、そうして何もかもが混ざり合って、遠く隔たったもの同士がぶつかり合う緊張感がなくなってしまえば、最後には世界中で同じようなものばかりが生み出される、という事態にもなりかねない。どこかで、ローカリズムに徹底した文化が存続し続けるということもまた、重要だろう。」平野啓一郎『私とは何か "個人"  から "分人" へ』)

*2:ドビュッシーに出会うのは、中学2年のときです。初めて聴いたのは、もう一人の叔父のレコード・コレクションにあった弦楽四重奏曲でした。これにもすごい衝撃をうけて、夢中になり、それからしばらくの間、自分はドビュッシーの生まれ変わりだと、本気で信じていたぐらいです。」坂本龍一『音楽は自由にする』)