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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

わからない、を楽しむ ~中山康樹の訃報によせて

雑感 音楽

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 こちらのニュースを受けて書いた記事です。

 「スイングジャーナル」元編集長の中山康樹さん死去:朝日新聞デジタル

 以前マンションで一人暮らしをしていたころ、自室のユニットバスに「フロ・トイレ専用文庫」を設置していた。といってもトイレの給水タンクの上に100円均一で買ってきたブックスタンドを置いて、そこに古本屋で買ってきた本を何冊か並べただけのもの。

 そこにはトイレに座ったり、湯船につかったりしているときに、気軽にパラパラと眺めることができる本を選んで置いていのだが、結果、品揃えのメインを占めたのがディスクガイドだった。ロック、クラシック、ジャズなどさまざまなジャンルの「名盤」と呼ばれるアルバムの演奏・録音データや、短いレビューが掲載されているアレだ。

 ディスクガイドはどこから読みはじめてどこでやめてもいいし、「情報」と「読み物」の中間という性質があるせいか、同じページをくり返し読んでも飽きない。こんどはこのアルバムを買ってみようかな?みたいな疑似ウィンドウショッピング感覚も楽しめる。活字中毒の気がある自分は、パッと手にとりやすい場所にこういう本を何冊か置いておくととても重宝する。

 その中でもとりわけよく手が伸びたのが、中山康樹*1の『マイルスを聴け!』だった。マイルス・デイビスの全アルバムを、公式・海賊盤を問わずに完全レビューするという本で、つまり海賊盤が追加発売されれば、それにともなって本もバージョンアップしていくという仕組み。

 1992年の初版は344ページだったのが、2008年の「バージョン8」ではなんと1100ページ超え。そして2011年に出た『新・マイルスを聴け!』では、ついに1冊に収まりきらずに分冊化、という凄まじいシリーズだったのだが、うちの「フロ・トイレ専用文庫」に置いてあったのは2001年に出た文庫版。文章が軽妙で楽しいので、湯船に浸かりながらたびたび手にとり、湯気にもあてられて、すっかりページがよれよれになってしまった。

 

 中山康樹は文章のなかで、しばしば大胆な断言を多用した。たとえば『マイルスを聴け!』の『コンプリート・ライブ・アット・ザ・プラグド・ニッケル』のレビューでは、当時マイルスのやっていた音楽に対比させて、フリー・ジャズをこんな感じで切り捨てている。

 

ちなみにフリー・ジャズというのはハチャメチャやるジャズのことで、まあ簡単なことをむつかしく書くヘタな文章みたいなもの。


 じゃあ中山康樹フリー・ジャズが嫌いなのか、といえばそんなことはなくて、他の本ではセシル・テイラーオーネット・コールマンらを高く評価していたりする。ひとつの本、レビューという完結した「枠」のなかで、文章のメリハリや主張をくっきりとさせ、「読ませる」ための芸としてこういう断言をしているみたいにみえる。

 もちろんこれはけっこう危うい手法で、ヘタをすれば「Aを持ち上げるためにBをけなす」という、低レベルかつ「逆に読み手のなかでのAの評価をさげる」ような効果しかない文章になってしまう危険もあるのだが、中山康樹の場合は言い切り方が豪快で、嫌な感じがしない*2。また、この人の本を何冊か読んでいくうちに、読み手の方にもだんだん「中山さんの書くことだから」みたいな了解ができてくる。

 この『マイルスを聴け!』も良いけど、新書の形で何冊か出た「ジャズ入門」系の本も面白かった。どの本を読んでも結論は「マイルスとブルーノートを聴け!」じゃないか!と思ったりもするのだが、ジャズに限らず、音楽、ひいては趣味全般とどういう姿勢で付きあっていくかについて、いろいろハッとさせられた。

 とくに印象深かったのが、「いったんはジャズに興味をもったにも関わらず、結局挫折する人が多いのはなぜか?」という疑問についてのこんな記述。

 

「ジャズに挫折する人が多いのは、自分が ”好き・きらい” さえ判断がつかない段階にあるにもかかわらず、あくまでも ”好き・きらい” で対処しようとし、理解できないことを ”きらい” として片づけることによる。」

 

「そこで、こう考えるとしよう。ここには自分が理解できない世界がある。しかし、それは自分が知らないだけのことであり、それは、たぶん自分が知らなければならないことなのだろう。」

 

「もちろん、ジャズにかぎらず、音楽は ”好き・きらい” なのかもしれない。しかし、一方でその個人の嗜好は、多くの場合、きわめて狭い許容量でしかない。したがって ”好き” か “きらい” かといったことだけを基準にしているかぎり、出会うことのできる音楽も限られてくる。」

 

「即座に理解できるような愛想のいい音楽よりも、疑問や謎にみちた音楽のほうがおもしろい。そして、その巨大な “ ? ” を解明していくこと、その過程もまた “ 音楽を聴く” ということの楽しみのひとつだろう。」

 

「したがって、音楽を ”好き・きらい” という基準だけでしか聴こうとしない人は、音楽を聴く楽しみの半分しか知らないことになる。」

 

中山康樹 『挫折し続ける初心者のための最後のジャズ入門』)

 

 実体験に照らしあわせても、最初「なんだこりゃ?」と理解不能だった音楽の魅力が「わかった!」ときの喜びには、格別なものがある*3

 ゴリゴリのメタル少年で「ヘヴィに歪んだギター以外認めないぜ!」とかほざいていた暗黒の高校時代(ああ…)、はじめてレッド・ツェッペリン『ギャロウズ・ポウル』のアコースティック・ギターの暴力性がわかった瞬間。あるいはロック一辺倒だった大学時代、ブラックドッグを聴いて「テクノ耳」が開いた!と確信できた瞬間(わかる人には世代がわかってしまう音楽的履歴である)。それまでは「なんだこりゃ?」だった音楽のいちジャンルが、たちまち未踏の「宝の山」に変貌する。

 つまりは「自分の現在もっている ”物差し” を絶対化せずに、”未知のもの” にたいしてオープンでいるほうが結果的に面白いよ」ということなのだが、同時にこの難しさもよくわかる。

 子供のころシャーロック・ホームズを読んでいたら、ホームズがゲーテの引用として「人は自分の理解できないことを嘲笑するものだ」というセリフを言っていて、当時は「ほー」ぐらいの感想だったけど、あらためて思い返すとこれは名言だと思う。自戒をこめて。人間の性向はゲーテの昔からネット全盛の現代まで、たいして変化していないらしい。


 自分が理解できないのものを前にして、いったん謙虚になるのはとても難しい。人間は「宙ぶらりん」の状態、「わからない」という思考のノイズが苦手で、手っ取り早く白黒をつけて安心したくなる生き物なのかもしれない。だから、自分の理解できないものを排除しようとする。

 でも「わからない」の前に謙虚に立ち止まることが、新たな世界の獲得につながることがある。グレン・グールドの演奏がはじめて日本に紹介されたとき、その斬新なスタイルに、ほとんどの批評家は拒絶反応を示したらしい。そんな中、吉田秀和はグールドの革新性を絶賛し、日本でのグールド評価の基盤を築いた。

 

初めてきく演奏、知らない演奏にぶつかった時、そんな時、私はまず、演奏家にはそれぞれみんな理由があって、こうひいているのだと、最初から思って、きく。わからない演奏、気に入らない演奏にぶつかった時は、もちろん楽しめない。でも、私は、これは嫌い、これは違うと、まず、きめてかかるのは好きじゃない。そこには、何か私の今まで知らなかったものがあるのだ。それを、できるだけわかるようになりたい、と思う。ことに今までさんざんきいてきた曲が違ってきこえてくるときは、むしろ、良かったと思う。さあ、ききましょう、と思う。

 

吉田秀和『之を楽しむ者に如かず』)


 吉田秀和と、中山康樹の主張はとても似ている。「これはどうしてこんな風に表現されているんだろう?」ということを、いったん表現した側の立場になって想像してみる。他人のブーツに足を突っ込んでみる。その結果新しい世界が開けるかもしれないし、「やっぱりわかんないや」となるかもしれない。でも「わかんない」に終わったとしても、一瞬でもノイズを受け入れてみるという体験は、自分の世界のなにかを活性化させてくれるかもしれない。

 いっぽうで、もちろん自分なりの「物差し」を確立することも大切で、ニック・ホーンビィが『ソングブック』で書いているように、趣味の分野での偏見という「物差し」は「持っている方が断然楽しい」という面もある(ロック贔屓のこの人は、ジャズやクラシックへの敵意を隠さない。狭いなあ、とも思うけど、自分の映画やアニメの好みの偏屈さを鑑みると、あまり人のことはいえない)。吉田秀和だって、演奏家にたいして、ときにはかなり痛烈な批判を展開した。

 中山康樹が独善的にもとられかねない断定表現を多用するいっぽうで、先に引用したような謙虚さの重要性を主張したのは、自分のなかに強固な「物差し」をつくりつつ、それを「未知のノイズ」の導入によって相対化するという往復運動の連続のなかにこそ豊かな「楽しさ」が立ち現れる、という認識もあったんじゃないかなあ、と、訃報をきいて、そんなことを考えた。というか、自分は勝手にそういう認識を汲み取ろうとおもいました。

 

◯おまけ

 

 リズムの激しい『ビッチェズ・ブリュー』や『オン・ザ・コーナー』はロックやテクノ好きの大学生だった自分にも比較的すんなりと受け入れられたけど、タイトル通りに静か〜なムードの『イン・ア・サイレント・ウェイ』がよくわからなかった。

 でも、下の文章を読んで「聴き方」や「魅力」がストンと腑に落ちました。ブライアン・イーノアンビエントでやろうとしたことに近いこと(関連記事 立体作品としての音楽 )を、イーノよりも前にマイルスもやっていたんだなー、と。そういえば、晩年は絵も描いていましたよね。

 『マイルスを聴け!』のおかげで出会えた名盤はたくさんあるけど、このアルバムはとくに印象が強いです。

 

「(...)マイルスがいつになくトランペットからいろいろな音を出そうと工夫している。一定のフィーリングをたたえたソロではない。明るくもあり暗くもあり、ソロのなかでいろんな表情を出している。色彩にたとえるなら、黒あり赤ありの極彩色のソロをくり広げていく。」

 

「ここでひとつ、結論らしきものが出る。マイルスがやろうとしたのはカラーリングなのだ。音楽を、音としてではなく色で捉えること。」

 

「本作において、リズムはキャンパスなのだ。そこにマイルス以下のミュージシャンが、思い思いの絵の具で色をつけていく。大切なことは、絵を完成させることではなく、プロセスそのものにある。」

 

中山康樹『マイルスを聴け!』)

 

 


Miles Davis - Shhh Peaceful (1/2) - YouTube

 

*1:著名人の名前を素人がブログなどでだすときの「 ”さん” づけするかどうか問題」について→ほぼ日刊イトイ新聞 - ややこしい問題。たしかにちょっと悩ましい。

*2:とはいえ、色々トラブルもあったみたいですけど。

*3:さらに「わかった!」という早漏な快感に身を委ねずに「わからない」という宙ぶらりんを楽しむことを説いた文章。→ ジュリアン・カサブランカス渾身の新作に『ピッチフォーク』が4.9点をつけたことに本気で幻滅した田中宗一郎が綴る、2014年におけるポップの可能性について | the sign magazine 「自分の物差しを絶対化しない、白黒つけて安心したいという誘惑に抗う」という意味では、根っこは共通してるとおもいます。