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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

立体作品としての音楽  ~ブライアン・イーノ『シュトフ・アッセンブリィ』感想

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 BRIAN ENO『THE SHUTOV ASSEMBLY』(1992年)の感想です。

 昨年末に、このアルバムを含むブライアン・イーノの90年代4作品が、ボーナス・ディスクを追加してリイシューされておりました。目玉はやっぱり『NERVE NET』に付属の、幻のアルバム『MY SQUELCHY LIFE』でしょうか?

 

ブライアン・イーノ、未発表曲“Prague”の音源公開 (2014/10/31) | 洋楽 ニュース | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイト

 

 じつはこの記事もその再発に合わせて書いていたんですが、なんとなくタイミングを逸してしまい、なんの話題もない今頃になってアップするという間の悪さ。なんだかなー。

 数々のプロデュース業(ディーヴォトーキング・ヘッズU2、コールドプレイetc)、「Windows 95」の起動音の仕事と並んで有名な「アンビエント・ミュージックの提唱者」としてのイーノのタイトル(?)。

 でも、この『THE SHUTOV ASSEMBLY』は、いつもの「アンビエントもの」とはちょっと違った狙いで作られていたのではあるまいか?という内容になっています。

 

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 このアルバムでのイーノの狙いは、「音を、彫刻やオブジェを眺めるように楽しむ」という聴き方の提案ではないか?と思います。

 イーノが開催した美術展で、一点ずつゆっくりと作品を見て回る感覚で聴くと、楽しいアルバムではないでしょうか。3~4分台の短い曲をメインにアルバムが構成されているので、「曲 / 立体作品」としての能動的な鑑賞がしやすくなっています。

 エリック・サティの『家具の音楽』初演時の有名なエピソードに、演奏に耳を傾けようとした観客にたいして、サティが「音楽を聴かないで!おしゃべりを続けて!」と呼びかけて回ったというものがありました。

 『家具の音楽』がそのように「日常生活に溶け込み、そこにあっても能動的に聴かれない音楽」を目指し、それを発展的に継承したのがアンビエント・ミュージックだとしたら、このアルバムはその路線からはちょっと外れて、再び音楽への注目を促したものなのではないか。

 家具が、あまりその存在を意識されることのない「モノ」であるのにたいして、彫刻やオブジェは人々の鑑賞の対象になることを意図された「モノ」で、イーノがここで作ろうとしているのは、そのような「立体作品としての音楽」なのではないかなー、と。

 そして、美術学校出身で「ノン・ミュージシャン」を自称するイーノとしては、時間芸術としての「曲」ではなく、あくまで空間芸術としての「立体作品」的に鑑賞されることにこだわりがあったりして。これはちょっと邪推かもしれませんけど。

 

                    ◯

 

 超個人的な妄想ですが、アルバム1曲目の『TRIENNALE』から連想したのは、ガラス張りの壁面から庭が見渡せる静かな展示スペースの中央で、ゆっくりと形を変えつづける緑の半透明のぐにゃぐにゃした作品でした。

 


Brian Eno - Triennale (Album Version) - YouTube

 

 アルバム中では比較的長尺の『IKEBUKURO』(16分50秒)は、部屋をまるごと使ったサウンド・インスタレーションという感じでしょうか。

 アンビエントを「空間の雰囲気をそっと変化させる、あるいは音が空間に調和することを目指す、主張の控え目な音楽」と考えるなら、1曲は長いほうが適切とも考えられます。

 短いと、曲が変わるごとに空間のムードも変わる、つまりそこに「音楽」が流れていることを、聴き手に意識させる度合いが高くなる。その意味では、この次にでたアルバム『NEROLI』(1曲57分の長編)のほうが、本来的な「アンビエント機能」をそなえた作品といえるかもしれません。

 おなじアンビエント路線に聴こえても、イーノのなかではこの『THE SHUTOV ASSEMBLY』と『NEROLI』は、異なったコンセプトで作られたアルバムなのではないか?と思うわけです。

 

                    ◯


 もちろん、いくら「空間性」を志向したところで、音楽はどこまでいっても、直線的に前へ進んでいく「時間芸術」なんですけど、そういう「時間」にまつわる表現に避けがたく付随してしまう「物語性」や「意味」を振り払おうとするような表現はとても面白くて。

 たとえば、坂本龍一はメロディを物語になぞらえて、こんなことを言っています。

 

6歳ぐらいだったとおもうけど、あたかもこの音から始まらなきゃいけないようにメロディが始まり、ここに行かないといけないかのように展開部があり、で、終わる。そんなメロディには本当に耐えられなかった。オーバーに言えば、西ヨーロッパの音楽というのは、リニアな時間性上での起承転結という「物語性」というか「小説構造」を持っていて、それがダメだった。


坂本龍一後藤繁雄『skmt』)


 ホモフォニー的なメロディ、物語に置き換えれば、ウラジーミル・プロップが民話から抽出したような「構造」に従ってリニアに展開していく物語が「耐えられない」。このようなメロディ(主旋律)と「物語」の関連については、以前「線的な物語/面的な物語 」という記事にちょっとだけ書いたことがありました。

 もうひとつ、坂本龍一が敬愛するグレン・グールドの、ラジオのドキュメンタリー番組に関するこんな発言。

 

ラジオのお決まりのドキュメンタリーに私はいつも不満でした。つまり、たいてい、その聞こえ方というのは…仕方ない、マクルーハン氏(引用者註:マーシャル・マクルーハン)の用語を借りましょうか。線的(リニア)なのです。「そちらどうそ、さて司会者に戻します。さあここでまとめますと…」という調子で一本につながって聞こえます。先が見えてしまうのです。


(オットー・フルードック『グレン・グールドの生涯』)


 リニアな「物語」への反発*1夏目漱石の「非=物語 」小説『草枕』を愛好したグールドは、その後「対位法ラジオ」(複数の人物の語りを、同時に流してしまうような手法で制作されたラジオ番組)などを作って「リニアな物語性」に抗おうとします。

 このようにリニア / 単線構造を嫌ったグールドと坂本龍一が、ともにバッハのポリフォニー(「主旋律」が明確でない形式)を愛好したのは納得できますね。

 いっぽう、バッハ嫌いなイーノ*2も、メロディ=リニアな構造が音楽の中心とみなされることには抵抗感があった模様。アンビエントを発想した70年代のイーノは、スタジオ技術の進歩とともに可能になってきた、音の肌理、テクスチャの面白さの追求を、メロディ作りよりも上位に位置づける、という方向に考えが向かっていたようです。

 

「(...)でも、まだ音そのものをいじるのは「ただの」技術的な作業だという先入観があったーーそして曲を書いたり楽器を演奏したりするほうが、真剣で創造的な作業なのだと思われていた。アンビエント・ミュージックで、わたしはこの音づくりの活動こそが新しい音楽の独自の特性であり、それこそが作曲上の関心の中心となるべきだということを示したかった。」

「わたしがおもしろいと思ったのは、これが音楽を、絵を描くプロセスにずっと近づけるものに思えたからだ。」

ブライアン・イーノ『A YEAR』)

 

 メロディ=リニア構造の構築よりも、音の肌理の面白さの追求に重きを置いて、音楽(時間芸術)を絵画(空間芸術)に近づけていこうとする態度。このブログ的にいえば「面的な物語>線的な物語」な感じ。

 もちろん坂本龍一や、クラシックのピアニストとしては異様なほどスタジオでの最新テクノロジーを活用した録音・編集に執着したグールドにも、音の肌理への強いこだわりがあります。この三者には「リニア、単線的な構造への反発」という共通点がありますが、ロック / ポップスのプロデューサーでもあるはずのイーノ教授は、しまいにはこんな境地へ。

 

(…)そしてイーノは、「ヴォーカルが常に中心に存在する事も、歌詞に意味があるという発想も、全てがナンセンスだ」と断言するに至った。自分がプロデュースしたU2の「歌詞こそ我が命」男ボノにすら、ヴォーカルの不毛性を懇々と説教してしまうのだから、仙人としての徹底ぶりは尋常ではなかったのだ。


市川哲史『NERVE NET』日本盤ライナーノーツ)


 けっこう喜んでイーノの講釈をきいていそうなボノの姿が目に浮かんで楽しいですが(笑)、そんな偏屈者のイーノが、「コンパクトな尺」、つまり「聴き手の能動的な注意を喚起する」ポップスのような特徴を備えながらも、ポップスとはまったく違う「彫刻やオブジェを鑑賞するような」聴覚体験を作りだそうとしたのが、このアルバムなのではないかな?と思ったわけです。「絵画としてのアンビエント」から「彫刻としてのアンビエント」へ。

 

                    ◯



 ふっくらとしたアナログな音の厚みをもつ『Discreet Music』などの初期の名作群とくらべて、どことなくデジタルな透明感を湛えたこのアルバム。それだけに音の構造がクリアに見渡しやすく、立体作品的にコンパクトに楽しめるという意味で、イーノの一連のアンビエントものの中でも異色な質感を持っています。すごく好きなアルバムです。

 

◯おまけ  

 ブライアン・イーノ、1983年のアルバム『Apollo: Atmospheres & Soundtracks』に収録の『An Ending』。映画『トラフィック』のラストで印象的に使われて有名になりました。ソダーバーグってデヴィッド・フィンチャーと並んで、一貫して音楽の使い方がかっこいい!(映画界からは引退してしまいましたが)。

 いちおうシンプルなメロディが中心にあるんだけど、背後に重ねられた重層的な音のテクスチャがあるからこそ名曲として響く、というイーノらしい構造。主旋律だけを取り出してみてもあんまり面白くないです。この音の質感で鳴っているからこそ、の名曲。

  


Brian Eno - An Ending (Ascent) - YouTube

 

  「スタジオワークにこだわりまくったグールド」という観点からの到達点(?)であるシベリウスのアルバム。

 ピアノから出た音をダイレクトに捉えられる至近距離から、残響をたくさん含んだ音を拾える遠距離まで、さまざまな位置にマイクを配置。曲の途中でチャンネルを切り替えることで音の質感が徐々に変化していくという、まるでアンビエント / 音響系のような発想で録音、編集された演奏。

 


Glenn Gould plays Jean Sibelius Sonatine in f ...

  

*1:「物語」構造への反発、ということでいえば、坂本龍一は映画の「物語」と「映像」の関係について、こんな発言もしていました。→「映画には、奇跡の一瞬がなくてはならない。例えば、小津安二郎の、ただ青空が何秒か続くだけのカット。物を純粋に見るという視覚的な喜びと、ストーリーが、表裏一体になる瞬間のない映画は大嫌いだ。極端をいえば、ウォーホルの『眠る人』や『エンパイヤ』のように、説明や物語なしに、時間を引きのばすだけで、視覚だけの連続によって映画が成立させられたら、それが理想だろう。」(『skmt』坂本龍一後藤繁雄

*2:『シュトフ・アッセンブリィ』ライナーノーツに引用されたイーノの発言 → 現在の音楽は、あまりにもコントロール下に置かれてるだろ。ハウスやテクノはバッハと同じで、全てが計算づくだ。隙間もありゃしない。まるで怯えてるが為に喋り続けずにはいられないお喋りな人間のようだ。だから僕はアフリカン・ミュージックに魅かれるんだよ、残されてる空間に。