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軟着陸は可能か? ~『ゴーン・ガール』感想

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 面白かった!

 149分かけて、物語のスタート時には想像もしなかった奇妙な地点まで連れていかれてしまう、ワープホールみたいな映画でした。

 公式サイトのリンクを貼りましたが、もし観にいく予定があれば、内容に関する事前情報は一切シャットアウト(もちろんこの記事も)するのがおすすめです。

 ここからの本文は、ネタバレを含みます。

 

◯軟着陸できない大人たち

 まず映画の冒頭に提示される、エイミーの父親が(エイミーをモデルとした少女が主人公の)人気児童文学シリーズの作者である、という設定が作品のテーマと大きく関わっていました。

 このシリーズの主人公の少女は、現実のエイミーとは違って、何でも完璧にこなす「理想の女の子」として描かれます。

 子供が小さいうちに「末は博士か大臣か」的に自分の理想を託してしまうのは、どこの親でもやりがちなことだと思いますが、この父親は娘が成人してからも現実とは乖離した「完璧な娘」の物語を書き続けている。

 そして、その本がベストセラーになることで、架空の少女の実在感が「読者=不特定多数の他者の視線」によって担保されていきます。大勢の人々が少女の存在を認めることで、まるで少女が現実に存在しているかのような錯覚が起きていく(映画では、本のなかの少女の結婚記念パーティーの様子が描かれます)。

 結局父親は、子供が生まれたときに抱いた、あまりにも高すぎる理想から現実への「軟着陸」に失敗したんですね。母親の態度も父親と似たり寄ったりで、等身大の娘を認めてくれる感じではありません。『ゴーン・ガール』で描かれるのは、このような、高すぎる理想から現実への「軟着陸」がうまくできない人々の姿です。

 

◯表層の優位性

 内心この両親に反発するエイミーもまた「高い理想」に強いこだわりを見せます。具体的には、恋愛の初期に感じられる「高揚感」。

 付き合い立てのカップルって、相手に好意をもってほしくて、お互いにある程度相手の好みに合わせた「自分」を演じたりすることありますよね。

 映画では、エイミーの「女は、相手の男がオタクなら自分もマンガ好きを、相手の男がAV好きなら ”性に奔放な女” を演じる」みたいなモノローグがありましたが、そこまでいかなくても、好きな相手に良い印象を与えたいという気持は自然なものです。そういう「相手にとっての理想」をお互い演じている時期にしか感じられないラブラブな高揚感というのは、確かにある。

 たいていは数ヶ月でそういう無理は息切れして、「まあこんなとこか」というあたりに関係が軟着陸していく(もしくは着陸に失敗して破局する)ことになるんだけど、エイミーは表層的な「演技」でいいから、その高揚感、理想の「高度」を維持したいと思っています。

 彼女は、父親の小説に登場する少女、「 ”内面” の有無とは無関係に、他者からの視線によって実在感を担保される ”表層” 」を、成長の過程で「(目障りな)自分の分身」として意識し続けてきました。

 そんなエイミーにとっては「表層」、つまり「自分が他人から見て幸せそうにみえること」がすなわち「自分の幸せ」に直結しているようです。

 「自分が幸せを感じているから、その気持ちが表層に現れて、他人の目にも幸せそうに映る」のではなくて、「表層を他人が ”幸せそう” と認識・評価してくれるから、自分も幸せを感じる」という順番みたいなんですね。

 

◯カメラが切り取る表層の「断片」

 映画のなかでは、エイミーが指向するような、現代社会における表層的な「演技」の優位性が何度か描かれます。

 たとえばエイミーの夫、ニックが、カメラの前で反射的に笑顔を浮かべてしまい、それを「不謹慎だ」と批判されるシーン。あるいは、エイミーが別荘の防犯カメラの前で、レイプされたという「演技」をするシーン。血まみれで帰宅したエイミーが、マスコミのカメラの前でドラマチックに夫の腕のなかに倒れ込むシーン。

 ここでは、実際に起きた出来事や、そこに至る文脈、それに関わった人々の心情よりも、カメラによって断片的に切り取られた表層的な映像のほうが、力をもっています。

 ニックの笑顔もエイミーの絶望も「演技」で、ストーリーのつながりの中でそれを見ている観客には、表層で起きていることと、彼らの内心とのズレがわかりますが、断片的・表層的な映像だけを与えられる映画の中の大衆には、その文脈が伝わらない。

 ニックの笑顔の写真が、ネットによってあっという間に「シェア」されて炎上するという流れは、「文脈」を汲まない表層的・断片的な情報が圧倒的に力を持つという、現代の「生の断片化」・「表層の優位性」を反映していました。


◯演技の自覚

 エイミーはこのような現代の「表層の優位性」に過剰に適応したヒロインです。*1*2

 彼女にとっては「表層の幸せそうな演技」が「リアルの幸せ」に直結している。だから、付き合い立てのころに見せていた、エイミーの好みに合わせた「理想の男」という「演技」を放棄したニックが許せない。これが、彼女の犯行動機でした。

 彼女は「演技」を放棄したニックを罰するために、自らは「演技」を駆使して彼を罠にはめる。ところが、テレビで「浮気を後悔する夫」の役割を完璧に「演じきった」ニックに惚れ直し、彼の元に戻るために殺人まで犯します。

 「誠実な夫」の外見を「演技」だとわかったうえで、だからこそニックのもとに帰ってくるエイミーと、そんな彼女を恐れながらも、しだいにその関係性に魅力を感じていくニック。彼が双子の妹に「彼女といたいのね?」と指摘されるところは、ちょっと鳥肌ものでした。

 若いころに人生に抱く高い理想、新婚の時期に夢想する輝かしい家庭生活、子供が生まれたときに託してしまう高すぎる期待。

 普通は「まあ現実はそうもいかないよね」と、しだいに理想の「高度」を落としていくものなんだろうけど、エイミーとニックは「演技」を通して、その「高度」を保つことを選択するんですね。エイミーの父親が小説を通して「理想の娘」のビジョンを追い続けたのと同じように。

 

◯メディアからの承認

 それで、「演技」は観客を必要とします。

 もちろん人は孤独な状態でも、心の中に「仮想の他者=観客」の視線をもっています。

 でも、エイミーとニックの、内心ではまったく心を許しあっていない「理想の夫婦」という「演技」は、彼らの内心ではなく表層だけを見る、現実の他者の視線を通してはじめて意味を持つ。彼らがベストカップルだ、という、第三者からの「承認」が必要になります。

 エイミーの父親の小説がベストセラーになるという形で多くの他者からの「承認」を得ることで、本の主人公の「理想の娘」が実在感を獲得したのと同じように。

 エイミーたちにその「承認」をあたえる役割を果たすのが、テレビ番組の女性司会者。もともとエイミーとニックが所有していた玩具=ニセ物のロボット犬に、司会者からプレゼントされたもう一匹が加わることで、カップルが誕生する。メディアを通した「ベストカップル」誕生の儀式です。

 そしてこの後のシーン、テレビ番組の収録中に、ニックがエイミーの妊娠を発表することで、大衆の視線を通して「承認」される「理想の家族」の誕生が予告される*3

 

◯むすび

 映画のなかでは、たびたびSNSリアリティTVの存在が強調されますが、これは常に他者の視線を意識して、他者からの「承認」を欲して行動する現代人の姿を反映しています。たとえばこの記事からだって「いま話題の『ゴーン・ガール』を見てきたよ!アピール」という自意識が読み取れたりして(めんどうな時代ですね)。

 ただ、こういう風潮を「うすっぺらな現代人」みたいな感じで風刺的に描いているだけの作風だったら、この映画にそこまで凄みは感じなかったと思います。

 風刺は対象とメタ的に距離を置くことで成立するもので、もちろんそういう表現にも場合によって有効性はあるんだけど、風刺の対象が「他人事」になってしまう危険も同時に孕んでいます。風刺する側とされる側の間に線をひいて、「こんなバカな奴らがいる」で話が終わってしまうおそれがある。

 でも『ゴーン・ガール』は「誇張されてるけど、これは自分たちの話だ」とちゃんと感じられる。さらにいえば、このカップルの築いた新たな関係性が「これ、ある意味理想かも」とちょっと思えてしまう(すくなくとも、自分には思えた)あたりが面白いところ。

 だって、たぶん倦怠期とかと無縁ですよ、この夫婦。「演技」を通した共犯関係と、「相手の気持がわからない」という(それ自体はまっとうな)断絶の自覚の中に、どこかしらスリルと奇妙な幸福感を感じているように見えて、これはなんか凄い。

 

                      ◯

 

 この映画と同じくデヴィッド・フィンチャーが監督した『ソーシャル・ネットワーク』(感想 )では、他者からの「承認」を求める主人公が、巨大SNS(「承認」のネットワーク)を築く過程で逆に周囲の人間関係を崩壊させていき、最後にはたったひとりの女性からの「承認」を求める姿が描かれました。彼の姿は、切実であると同時に、どこか滑稽さを感じさせます。

 いっぽう『ゴーン・ガール』のカップルは、メディアを通した他者からの「承認」を利用して、表層的・演技的に自分たちの理想の「高度」を保とうとしますが、その描き方に批判的なトーンは感じられません。もっとニュートラルというか、善悪の価値判断を超えた不敵な描き方がされている。

 あの結末からうっすら感じられる、不穏なハッピーエンド感。そして、そんなヘンな場所まで運ばれた挙げ句にポイッと放り出される感覚が、心地良いような悪いような。ちょっと味わったことのない、奇妙な後味を持った映画でした。

 

※この記事のバージョン違いも書きました→『ゴーン・ガール』感想 その② ~「外面」が勝利する世界 

 

*1:エイミーの「演技」へのこだわりが炸裂したのが、血まみれでニックのもとへ帰ってくるシーンでした。衆人環境のなかで、オーバーに、ドラマチックに夫の腕のなかへ倒れ込む。この映画は、こういった作為的な「演技」を意識させるシーン以外では、いわゆる「名場面」「名ショット」をまったく撮ろうとしていなくて、映像はひたすら淡々とスムーズに、ストーリーを伝える役割に徹しています。音楽(トレント様!)やクレジットのタイポグラフィも徹底して非ドラマチックで、それらが一体になって醸し出される、すごくアメリカ的、アップルコンピュータのデザイン的な洗練のされ方が気持よかったです。

*2:逃亡先で出会った女だけは、彼女の演技性を見破り、金を奪います。童話などでみられる、無垢の子供が大人の欺瞞、演技を見破るという展開のひとひねりバージョン。

*3:この結末は、ハンナ・アーレントが指摘したような、古代ギリシアのポリスの人間観をちょっと思い起こさせます。現実的なゴタゴタは「家=私的領域」に押し込んで、「広場(アゴラ)=公的領域」で模範的な「市民」としてふるまうときの演技性、「仮面」こそを「人間らしさ」とみなす人間観。『ゴーン・ガール』でマスコミやSNSはアゴラの役割をはたし、そこで流通するのは「理想の夫婦」という表層の演技性です。