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成長と、その失敗の物語 〜『思い出のマーニー』感想

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※映画・原作のネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 正直あんまり期待してなくて「一応おさえとくか」ぐらいな感じで先日やっとこさ観た『思い出のマーニー』…ところが、これがめちゃくちゃ良かった。エンドクレジットを眺めながら「 ”おさえとくか” なんて上から目線ですみませんでした!」と心の中で詫びました。映画館で観られてよかった。

 ジブリとしてはかなり地味な作風で、(いつものジブリ基準からすると)そこまで大ヒットしていないのもわかるんですが、でも全てがものすごく丁寧に、神経を張りめぐらせて作られていることが伝わってきて、観ていて嬉しくなる作品でした。

 とくにグッときたのが、メインヒロイン=杏奈視点ではまっとうな「少女の成長物語」を描いているんだけど、それと並行して、もうひとりのヒロイン=マーニー側では「成長の失敗」を描いている点。だから観賞後に作品を反芻するときに、スパイスとしてジワジワと効いてくるのは、マーニーの存在のやるせなさのほうだったりする。今回はそのあたりを中心に感想を書いてみたいと思います。

 

◯杏奈:やり直し・成長の物語

 『思い出のマーニー』は、ジョーン・G・ロビンソンの児童文学(1967年出版)をアニメ化した作品です*1。舞台はイギリスから現代の日本へ、メインヒロインの「アンナ」は日本人の「杏奈」に変更されています。

 記事中では、アニメと原作の表現していることが一致している、と思われる部分に関して「アンナ」と「杏奈」が混在している個所がいくつかあります。ご了承ください。

                    ◯

 さきほども書いたとおり、メインヒロインである杏奈サイドから見ると、この作品は極めてまっとうな「成長物語」です。心を閉ざし、日常に満足していない主人公が保護者のもとを離れ、異郷での特殊な経験を通じて成長し、もとの日常へと帰還する。

 ストーリーの型としては『千と千尋の神隠し』に近い作品です。物語のもっとも基本的な型ともいわれる「行きて帰りし物語」。そして、『千と千尋』が「そうはいっても、この規範が消失した現代でストレートに "成長" を描くのは調子良すぎるよね」という屈折を抱え込んでいたのと比べると(ラストの、千尋の異界での経験がリセットされてしまったように見えるショッキングな描写!)、『思い出のマーニー』はもっと素直な成長譚としてみることが可能です。

 物語の出来事を時間軸の順に並べなおすと、幼い杏奈はまず、老・マーニーの死によって、冷たい世間に放り出される。そこで杏奈は「自分は誰にも受け入れられないのではないか?」という傷を負い、心を閉ざします。彼女のなかでは、世のなかの人間は「輪の中」にいる人と「輪の外」にいる人、2種類に分かれています。

 

パーティとか、仲よしの友だちとか、お茶のお呼ばれなどは、ほかの人たちに向いていることだ。だってみんなは「中」にいるからーー目に見えない、魔法の輪のようなものの中に。でもアンナは「外」にいる。だからパーティやなんかは、アンナにはぜんぜん関係がない。そう、簡単なことだ。

ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』1967年 越前敏弥・ないとうふみこ 訳)

 

 「リア充」と「非リア充」。アニメ版でも、冒頭のモノローグによって、杏奈のこのような二項対立っぽい世界認識が早々に提示されます。「この世には目に見えない魔法の輪がある。輪には内側と外側があって、わたしは外側の人間」

 やがて少女・マーニーと出会った杏奈は、彼女に留保なしに存在を受け入れられることを通して心を開いていくけれど、あるときマーニーは突然姿を消してしまう。幼いころに続いて、杏奈は再びマーニーに放り出されたわけです。でも今回は、杏奈はマーニーを許し、その許しが杏奈の成長につながっていく…という「やり直しと成長の物語」。

 後日談もきっちりと描かれ*2、杏奈がマーニーとの交流を通じてどう変化したのか、マーニーが縁になって得た新しい人間関係をどう発展させていくことができそうなのか、というあたりまでが丁寧に描かれる。原作の最後では、アンナは「リア充 / 非リア充」という単純な二項対立の図式から抜けだしています。

 

(輪の)「中」にいるとか「外」にいるって、不思議だなと思った。そばにだれかがいても、ひとりっ子でも、大家族でも、関係ない。プリシラも、それからアンドルーさえも、ときには「外」にいると感じていることを、今なら知っている。それは、自分の「中」の気持ちと関係してるんだ。

ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』)

 

 アンドルーは原作に登場する快活なリア充タイプの少年ですが、そんな彼でもときには疎外感や孤独を感じているということを、アンナは理解します。人間は「リア充/非リア充」の二種類に分けて考えられるほど単純じゃないよ、という認識に至ったんですね。そして、自分が「非リア充」であることに逆説的にアイデンティティーを求めるという、ルサンチマンっぽい倒錯から脱却する。

 このように、杏奈・アンナ側からみると極めてストレートな成長物語である『思い出のマーニー』ですが、もうひとりのヒロイン、マーニー側の視点に寄りそったとき、作品の様相はガラリと変化をみせます。

 

◯「移行対象」としてのマーニー

 マーニーを「ヒロイン」と書きましたが(そして宣伝でも「ジブリ初のダブルヒロイン」と謳われていますが)、杏奈側から物語を見たとき、マーニーはヒロインというよりも「移行対象」の役割を担っています。

 「移行対象」について。大塚英志は、宮崎アニメで主人公が親許を離れて成長していくときに、主人公のそばに必ず「ただいるだけ」のキャラクターがいることに着目し、このようなキャラクターを心理学でいうところの「移行対象」であると指摘しました。

 

それは、例えば『となりのトトロ』におけるトトロ、『千と千尋の神隠し』におけるカオナシ、『魔女の宅急便』における黒猫などがそうで、子供が母親からの分離不安の心理状況でつくり出す「空想の友だち」や、あるいは傍らにあるだけで安堵できる「ライナスの毛布」やテディ・ベアのようなものとしてある。(...)

このような分離不安の幼児が束の間必要とする何ものかを発達心理学者のドナルド・W・ウィニコットは「移行対象」と呼んだが、宮崎アニメにおいては『千と千尋の神隠し』における湯婆婆や『魔女の宅急便』におけるパン屋の主人、おソノのような母性的庇護者が「賢者」として主人公を庇護し導く一方で、「傍らにいる」キャラクターが必ず描かれることが特徴的だ。

大塚英志 『物語論で読む村上春樹宮崎駿 ~構造しかない日本』)

 

 物語のなかで、杏奈にとっての母性的庇護者=「賢者」はセツ(『魔女の宅急便』のおソノさん直系のキャラクター)。いっぽうマーニーは、杏奈に「ただよりそっている」という意味で「ジジ」や「カオナシ」「トトロ」のような「移行対象」です*3

 引用には「空想の友だち」という表現が登場しますが、少女姿のマーニーが、老婆になったマーニーからきいた話を基にして杏奈のつくりあげた「空想の友だち」のような存在であったことは、物語の最後に示唆されます。

(ただし、マーニーはたんに「杏奈の空想の中の存在だった」という整合性のある理屈だけでは片付けられない、曖昧なものとして描かれているのが、この作品の魅力のひとつです。この点については後述します。)

 杏奈はマーニーとの関わりを通じて、自らの成長へのキッカケを掴みます。そして、杏奈の成長と引き換えるように姿を消すマーニー。『魔女の宅急便』で成長したキキに、黒猫・ジジの言葉がわからなくなるのと同じことで、主人公が成長をとげてしまえば「移行対象」はもう必要ありません。

 『E.T.』で少年がエイリアン( ≒ 空想の友だち)を宇宙に送りかえしたように、『ラースと、その彼女』で主人公の青年が恋人がわりだったラブドールを葬ったように、「移行対象」は物語上(やや意地悪な言い方をすれば)主人公の成長のための捨て石的なポジションにあります。

 

◯マーニー:やり直しの不可能性・成長の失敗の物語

 杏奈の前に登場するマーニーは、勝ち気で生き生きと魅力的、物語のヒロインに相応しい魅力を備えた少女です。しかし作品を最後まで観ると、マーニーがじつは両親のネグレクトや召使いからの虐待に傷ついており、それでも「自分は恵まれている」と思い込むことでなんとか自分を保っている、か弱い存在であったことがわかります。

 物語の時間軸のなかで、マーニーの時間はすでに尽き、彼女の人生は定まっています。成人後のマーニーは夫を早くに亡くし、娘ともうまくいかないまま死別、そして愛する孫(=杏奈)の成長を見届けられずに病死、という暗い人生を辿ります。そのルートは固定されており、覆ることはありません。

 マーニーが、作品のラストで杏奈(アンナ)が成長したようには成長できなかった人物であるという点について、原作にはこんな記述があります。

 

「つまり、マーニーは子どものころに愛されなかったから、自分が母親になったときも子どもを愛せなかったってこと?」ジェーンがきいた。
「まあ、そんなところかしらねえ。不思議なことに、愛されることは、わたしたちの成長を助ける大事な栄養なのよ。だから、ある意味でマーニーは大人になれなかった」

ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』)

 

 作中の「現在」を生きる杏奈がマーニーをステップボードにして成長するのに対して、マーニーは「過去」に閉じ込められた存在です。杏奈のまえのマーニーがどれだけ生き生きと魅力的なヒロインに見えても、その事実は変わりません。

 いってみれば、マーニーは成長に失敗した「かつての」ヒロイン。マーニーの成長の失敗は、嵐の夜のサイロ(原作では風車)で彼女が結局、恐怖を克服できなかったことにも表れています。

 マーニーはそのまま大人になりきれず、不遇な人生を終え、『思い出のマーニー』という物語のなかではヒロイン・杏奈にとっての「移行対象」に成り果てた存在です。この作品では、現在形の杏奈の「成長物語」と、過去形のマーニーの「成長の失敗の物語」が並行して走っているんですね。

 

◯ 「入江」と「ソラリスの海」

 ここまで杏奈とマーニーの対比について書いてきましたが、ここでちょっと脇道にそれて、少女姿のマーニーがどのような存在か、についてふれておきたいと思います。

 杏奈の前に現れた少女姿のマーニーは、「老婆になったマーニーから、少女時代の思い出話を聴かされていた杏奈の記憶がつくり出した ”空想”だった 」という説明が作品のラストでなされます。

 ただ、すべてが杏奈の頭の中だけで起きた出来事か、というとそうとも言い切れなくて、マーニーが実体をもって、自律的に存在しているかのような描写もある。頭の中の出来事と現実の出来事をきっぱりとは分けずに描いていて、その虚実入り乱れる感覚が作品の魅力のひとつになっています。

 それで、マーニーの実体化にあたって援用されているのが、アンドレイ・タルコフスキー監督*4の『惑星ソラリス』(1972年)に登場する「ソラリスの海」のイメージ。「ソラリスの海」は、人間の思念を読み取り、頭の中にあるものを実体化する力をもちます。映画の中では、主人公の前にかつて自殺した妻があらわれて、彼を苦しめます。

 『思い出のマーニー』に登場する「入江」も、おそらくはこの「ソラリスの海」のような役割をはたしており、作中では「入江」の潮の満ち引きが、杏奈の意識 / 無意識と呼応している描写がみられます。潮がひいている時間には、杏奈はマーニーのことを忘れそうになり、潮が満ちるとマーニーのもとへと行くことができる。

 米林監督が『惑星ソラリス』を意識していたであろうことは、『思い出のマーニー』エンドクレジット前のラストシーンが『惑星ソラリス』へのオマージュになっていることからも伺えます。

 抱き合う親子(『惑星ソラリス』では息子が父にすがりつき、『思い出のマーニー』では母が娘を抱きしめる)のいる家をカメラが上空から見下ろす。家の周囲の「陸地」は「水」に囲まれている(意識 / 無意識)。カメラはそのまま上昇していき、やがて画面が雲に覆われる。

 

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(左:『思い出のマーニー』 右:『惑星ソラリス』)

 

 また、嵐の夜のサイロの場面で、雨水が上からどんどん漏れ出してくる映像がありましたが(無意識の奔流のイメージ)、ここも『惑星ソラリス』ラストの部屋のシーンを連想させます。

 水位や潮の満ち引きを意識・無意識と呼応させる、というのは古典的な手法で、原作にも類似の描写がみられます。マーニーの住む屋敷は、通りに面した表玄関に対して、裏側(マーニーの部屋のある側)が入江に面している、という造りになっていて、これは人間の「世間向けの顔=表玄関」にたいしての、「無意識=入江」というイメージ。

 アンナは最初、屋敷の裏側にばかり馴染んでいきますが、物語の後半、屋敷を表から眺めたときに、その親しみやすい雰囲気に驚きます。

 

こんなふうに見えるなんて思ってもいなかった。入江に面した、あのおなじみの屋敷と同じぐらい、とても心がひきつけられる。なぜだかわからないけれど、アンナはずっと表側をなにかぜんぜんちがう場所のように思いこんでいた。それが今になってはじめて、ほんとうは前から知っていたはずのことに気がついた。表側と裏側は、同じ屋敷のふたつの面なのだ。そしてむしろこちら側のほうに、より心がひかれる。思いがけないことに、こちら側には、おとずれた人をあたたかく迎えてくれるふんいきがあった。

ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』)

 

 物語の冒頭、世界や人々を2つに分けていたアンナが、世の中そんなに単純じゃないぞと気付く場面ですね。そして、以前は斥けていた「表の顔」を受け入れる、という成長をみせる。           

                    ◯


 そんな風に、杏奈が順調な成長をみせるいっぽうで、私には少女姿のマーニーが『惑星ソラリス』で「ソラリスの海」によって実体化された主人公の妻のような、過去に閉じこめられた悲しい存在に見えてしまいます。「タルコフスキーの引用がある」とかではなくて、肝心なのはその部分。

 これが、老婆マーニーの記憶を保ったまま現れた幽霊だったら、杏奈の成長はマーニーにとっても救いになるんですよね。老婆マーニーは孫である杏奈の今後を心配しながら亡くなったのだろうから、その心残りを解消 → マーニーも成仏、というような。

 「現在のヒロイン」である杏奈の成長を見届けることで、「過去のヒロイン」であったマーニーの成長の失敗も救済される...という物語。

 でも『思い出のマーニー』はそういう物語ではない。マーニーは成長に失敗して、その失敗を取り返す機会を永久に失った存在です。最後まで作品を観た観客は、マーニーは不遇な人生を送り、失意のなかで一生を終えたことを知っています。杏奈と違い、マーニーの「成長の失敗」はもう取り返しがききません。

 だから、少女姿のマーニーが活き活きとしていればいるほど、両親のネグレクトや召使いからの虐待という自分の境遇に抵抗しようと気丈にふるまっていればいるほど、その後の彼女の人生が意識にのぼってしまい、やるせない気持ちになっていく。もう、マーニー圧倒的に愛おしいです。彼女の失敗も含めて。

 

◯ものごとの白黒

 なんだか作品の暗い側面ばかりを強調して書いてしまったような気はしてるんですけど、だからといってこの物語が「じつは大人向けなんだ」とか言いたいわけではなくて、優れた児童文学は人生の暗い側面にも触れていて、アニメ版もそこをきっちりと踏まえた出来になっていた、ということだと思います。

 マーニーが自分の子供を上手く愛せなかったことについて、原作では老婆と子供のこんな会話があります。 

 

「それって、だれのせいなの?」ジェーンがじゅうたんをにらみながら、きいた。
「そんなことわからないわ。わたしぐらいの年になるとね、これはだれのせい、あれはだれのせい、なんてことは言えなくなるの。長い目で見たら、ものごとはそんなに白黒つけられるものじゃない。責任はなんにでもあるように見えるし、どこにもないようにも見える。不幸がどこからはじまるかなんて、だれに言えるかしら」

ジョーン・G・ロビンソン『思い出のマーニー』)

 

 アンナが「輪の内と外」の二項対立から抜けだしたのもそうですが、この物語には「世界はそんなに単純じゃなくて、いろんな物事は絡み合ってるんだよ」という認識が通底しています。「リア充 / 非リア充」「意識 / 無意識」「マーニーのいない現実 / マーニーのいる非現実」といった対立の図式がくずれ、ひとつに混じりあって提示される。こういった方向性は『風立ちぬ』(感想 )でも、すごく過激な形で追求されていました。

 

◯むすび

 水、賢者、移行対象、「行って帰る」構造など、物語の装置としては宮崎駿的なものを多く取り入れた『思い出のマーニー』ですが、そこで描かれた心理ドラマは非常にきめが細かくて、それまでのジブリとは明らかに一線を画するものでした。物語を捉えるカメラのレンズが、広角から望遠に変わった感じ。

 宮崎駿は「原作は素晴らしいけど、アニメには向かない題材だと思った」みたいなことをいっていましたが、今回、見事にアニメになっていました*5。映像や演出の精度があがるにつれて、アニメが扱うことのできる題材も広がっているなあ、という感じがひしひしと*6

 だからといって、そのようなアニメが単純に実写に近づいているわけではもちろんなくて、デフォルメされたキャラクターで物語を描く時点で、人間が演じるのとは決定的に違う、アニメでしか表現できない質感が出てくる。

 ジブリのとりあえずの最後の長編になりそうなアニメが、それまでの集大成とか、米林監督の演出デビュー作『借り暮らしのアリエッティ』のようにある種手堅いものではなくて、その「先」に向かっていくものだったのはすごいな、と思います。『風立ちぬ』『かぐや姫の物語』(感想 )そしてこの『思い出のマーニー』と、去年から攻めの作品が続いていて、どれも大好きでした。

                    ◯

 あと、思った以上に百合濃度が濃厚で窒息しそうに(嬉)。これ、アニメ版のアレンジかと思いきや、原作もけっこうスキンシップ激しい。あのスキンシップ、解釈によっては杏奈の自己愛の投影とも取れるんだけど、いや、あれは百合ですね。

 米林監督は「マーニーの作画はホントに上手いアニメーターさんにお願いした」といってましたが、マーニーが杏奈をハグする場面とか、肉体の実在感がすごい。マーニーの髪の柔らかさまで伝わってくる感じで、シャンプーのいい匂いとかしそう。

 われながらキモい感想だけど、あそこで「自分は人に受け入れられないのではないか?」と怯える杏奈が、いったん留保なく全肯定される...というのがストーリー上肝心なので、あの描写は必然ですので。おかげであのジブリの作画技術が百合描写に投入されたという…米林監督、GJ。

 

 

*1:原作は、文庫では角川版(越前敏弥・ないとうふみこ 訳)と、新潮版(高見浩 訳)の2種類が手軽。角川版のほうが児童文学「らしい」訳。新潮版の高見浩はヘミングウェイの新訳などで評価の高い人。両者はかなり印象が違うので、買う前の比較をおすすめします(私は角川版をとりました)。原作もめっちゃ良い。

*2:原作はさらに後日談が長くて、全体の1/3ぐらいがマーニー消失後の話です。そして原作で感動的なのは、むしろこの「マーニー以降」に、アンナが現実との接点を作っていく過程。原作を読むと、アニメが「杏奈とマーニー」の関係にフォーカスしながら、巧みにその後の展開も同時進行的にストーリーに組み込んでいることがわかります。原作を読みながら映画を反芻して「うまいことまとめたなあ…」と唸ってしまった。

*3:カオナシ」のモデルは、若いころの米林宏昌監督だそうです。それだけ宮崎監督がずっと気にかけていた?

*4:タルコフスキーは「火・水・風」の描写が有名ですが、同じく風や水の描写を得意とする宮崎駿(米林監督の師匠筋?)も、タルコフスキーについて何度かインタビューで語っています。『思い出のマーニー』に幾度か登場する、水中から離れ小島のように顔を出す地面は『ストーカー』っぽい?

*5:宮崎駿は、アニメ的なデフォルメのきいたダイナミックな感情表現から、『マーニー』的な繊細さを飛び越して、『風立ちぬ』でいきなり「人間の頭のなかなんて、顔見たってわかりゃしない」という領域に行ってしまったわけで、やはりスケールが違うなという感じがします。関連記事→『たまこまーけっと』と『風立ちぬ』 3.11以降の主人公たち ㊤ -

*6:関連記事→『氷菓』で考える、技術と表現の関係