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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

「身も蓋もない」という誠実さ ~ 『ソーシャル・ネットワーク』感想

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 『ソーシャル・ネットワーク』(2010年)は、マーク・ザッカーバーグFacebookを立ち上げ、それが巨大化していく様を描いた作品で、つまり実在の人物・出来事を題材にとっていました。

 とはいえ、さまざまな出来事の断片からなる誰かの人生を、一本のストーリーの形にまとめあげる=「物語化」するとき、そこには意識的・無意識的を問わず、様々な取捨選択や操作が入りこみます。それは、第三者が「物語化」を行う場合であろうと、「自伝」のような形で自らの人生を語る場合であろうと同じことです。

 人間がそのような偏見に満ちた(と言ってしまう)「物語化」を通じてしか物事を理解できない以上、事実に基づいていようといなかろうと、全ての物語は等しく「フィクション」である…というような一般論をふまえたうえで、マーク・ザッカーバーグの人生を『ソーシャル・ネットワーク』という「物語」にまとめるにあたって、制作者が参照点にした映画(フィクション)が2本あったのではないか?と想像しました。

 ひとつは『ゴッドファーザーPART2』(1974年)。もうひとつは『エリン・ブロコビッチ』(2000年)。どちらも、ある程度まで事実への取材に基づいて作られた映画です。

 べつに、このふたつが『ソーシャル・ネットワーク』の元ネタだ、とかそういう話しではなくて、この2本と『ソーシャル・ネットワーク』は、似ている部分が多いからこそ、ますますその差が際だつ、という関係にあると思うんです。とくに違うのが、主人公の描き方。

 そこで今回は、この2本との対比を通して『ソーシャル・ネットワーク』が描いた主人公像を確認してみたいと思います。『ソーシャル・ネットワーク』『ゴッドファーザーPART2』『エリン・ブロコビッチ』のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

 『ソーシャル・ネットワーク』がスタート早々に提示するのは、「オタクvs.リア充」の構図です。主人公のマークは天才肌のコンピューターオタクで、頭の良さを鼻にかけて常に他人を見下し、社交スキルは壊滅的。それが祟って、美人で性格の良い、リア充タイプの彼女にふられてしまいます。

 そこで彼は一足とびに「女なんてみんなロクでもない」という復讐心(というか逆恨み)に捕われてしまう。ブログに自分を振った元カノへの悪口を書き綴るだけでは飽き足らず、女性全体への復讐として、大学の女学生の「顔のランクづけサイト」なんてものを開設します。また、才能はあるだけに仕事が速い。

 ここで示されるのは、社交スキルの低さの裏返しにも見える、マークのミソジニーと病的な承認欲求の強さです。ネガティブな形でも構わないから自分の存在を認識させてやる、という、開幕早々かなりの最低主人公っぷり。

 いっぽうマークの通うハーバード大学には、選ばれたメンバーしか入れないエリート専用クラブがあって、そこはいわば超リア充の巣窟。マークはそのクラブのスノッブさを軽蔑しながらも、友人のエドゥアルドがそこに入れるかも、という話しにはムッとしてしまう。

 そしてそのクラブのメンバーから、大学の学生を対象にしたSNS立ち上げへの協力を要請されたマークは、その計画を乗っ取る形で「The Facebook」をつくります。ここでもリア充への復讐。「ちゃらちゃらしたあいつらに自分の存在を認めさせてやる」。マークを突き動かしているのは、復讐心と承認欲求です。

 

 

 『エリン・ブロコビッチ』の主人公もまた、承認欲求が満たされない存在として描かれます。

 エリンは無職のシングル・マザーで、求職活動もうまくいかない。かつてはミス・コンテストで優勝したりもして、周囲から存在を求められた経験もある。でも離婚を経験して、求職活動でも断られ続けているいまの自分は、もう周囲から必要とされていない...?という気持ち。

 「若者・オタク・男性」のマークと、「中年・バツイチ・女性」のエリン。対照的な2人ですが、他者からの承認を求めている、という点は共通しています。承認欲求をめぐるドラマ、という観点からみれば、主人公のキャラ設定的に『ソーシャル・ネットワーク』は『エリン・ブロコビッチ』のネガ・バージョンです。

 両作品の監督は、プライベートでの交流があることも知られますが、デビッド・フィンチャーは『ソーシャル・ネットワーク』を作るにあたって、スティーヴン・ソダーバーグを意識したのではないか?というのはちょっと考え過ぎでしょうか。

 そのあたりの真偽はさておき。ストーリー作りのマニュアル本的なものを読むと、主人公は作品のスタート地点でなにかしら「求めるもの」をもっていて、それに向かって彼/彼女が歩きだすことでストーリーが始まる、みたいなことが書いてあります。

 マークもエリンも、映画のスタート時点ではその「求めるもの」が、他者からの承認の「欠落」という形で表れており、それを埋めるために歩き始めるわけです。

 

 

 マークは、友人のエドゥアルドとともに「The Facebook」を大きくしていくことに執心し、その過程で「Napster」の創業者、ショーン・パーカーに出会います。マークは、ショーンの才覚にどんどん心酔していく。物語には、オビ=ワン・ケノービのような、主人公を導き、アイテムを与える「賢者」に相当する人物がよく登場しますが、彼はそのバリエーションにも見えます。

 ショーンは、ライトセーバーのような「アイテム」のかわりに、「The Facebook」の冠詞「The」をとった「Facebook」というネーミングの方がクールだ、というアドバイスをマークに授けます*1

 この「Facebook」が巨大になっていくのに反比例するように、マークのただでさえ少ない人間関係は壊滅していきます。決定的なのは、友人・エドゥアルドの切り捨て。ショーンが加わって、どんどん大きくなっていく組織のなかで、自分の存在感が低下していくことに焦りを感じたエドゥアルドは、会社の銀行口座を凍結します。

 創業メンバーのひとりである自分の存在をアピールしたいという、承認欲求から出た(僕にもかまってアピール的な)デモンストレーションに見えるのですが、組織を危険にさらしたとして、彼は「Facebook」から事実上追放される。

 

 

 組織を巨大で強力なものにしていくために、近しい人を切り捨てていく、という展開は『ゴッドファーザーPART2』でも印象的に描かれました。

 この映画のマイケル・コルレオーネは前作で、自分の家族を守るために、本来は望んでいなかったマフィアの組織(ファミリー)のドンの座に就任します。

 そのマイケルとは対照的に気弱な性格の実兄フレドは、ファミリーの中で自分が重要な仕事をまかされないことに不満を抱き、裏切りを働きます。この行為の動機も『ソーシャル・ネットワーク』のエドゥアルドと似ていて、金や恨みではなく承認欲求からきているように見えるのですが、結果マイケルに始末されてしまう。

 家族を守るためにドンになったマイケルは実兄を手にかけ、世の人々にギークな自分の存在を認めさせるために「Facebook」を大きくしたマークは、最も近しい友人を追放してしまったわけです。

 やがて、ショーン・パーカーも物語から途中退場し(未成年とのドラッグ吸引容疑で逮捕、というセコくも情けない理由)、マークはますます孤独になります。

 

 

 いっぽう『エリン・ブロコビッチ』のエリンはひょんなことから、大企業の公害隠蔽工作がらみの集団訴訟に関わっていきます。

 原告である公害の被害者たちとの対話を積み重ねる中で、自分が彼らから必要とされている、という充実感を感じるエリン。彼女の承認欲求が満たされていきます。自分の足をつかって、何度も直接原告たちに会いにいくという、リアルなコミュニケーションのなかで醸成される信頼関係。

 エリンが映画の後半で口にする「これまで、こんなに自分が人々から必要とされている、と実感できたことはなかった」みたいなセリフが印象的で、マークが承認欲求を満たすために、人々が交流するためのネット上のアーキテクチャの整備に尽力し、その結果孤立していったのと、これは対照的です。

 エリンは最終的に巨額の報酬を手にしますが、その金額の大きさは彼女にとって、社会とのつながり、社会への貢献の大きさを意味します。だから、予想をはるかに上回る金額が記載された小切手を上司から渡された彼女が目を丸くするラストで、観客は暖かい気持ちで彼女を祝福することができる。

 『エリン・ブロコビッチ』では、サクセス・ストーリーがそのままポジティヴなものとして提示される。このあたりもまた『ソーシャル・ネットワーク』と正反対です。

 ただし、ハッピーな面ばかりが描かれるわけではありません。エリンは巨大な訴訟の準備にのめりこむあまりに家庭にさく時間が減ってしまい、結果恋人との破局が訪れます。

 「大きなもの」を追い求めた結果、個人としての「小さな幸せ」が壊れてしまう。これは、『ソーシャル・ネットワーク』『ゴッドファーザーPART2』『エリン・ブロコビッチ』の3作に共通して描かれるモチーフです。

 

 

 『ゴッドファーザーPART2』のラストシーンは、枯れ葉が舞う秋の庭のベンチに、孤独に腰掛けるマイケルの姿です。ファミリーは巨大になったけれど、家族からは孤立してしまったマイケル。いっぽう『ソーシャル・ネットワーク』のラストも、広い会議室でひとりぽつねんと腰掛けるマークの姿。

 でもマークの姿には、マイケルのような「孤独のダンディズム」みたいなものは微塵も感じられません。それは、映画の作風とか、マイケルを演じたアル・パチーノと、マークを演じたジェシー・アイゼンバーグのキャラやルックスの差以上に、時代の違いを表しているように思えます。

 『ゴッドファーザーPART2』は、マイケルの父・ヴィトー・コルレオーネが若い頃、20世紀前半のアメリカでファミリーを築きあげていく様子と、20世紀も後半に入ったアメリカでファミリーの維持に苦悩する息子・マイケルの姿を交互に対比させて描く、という構成がとられていました。

 その対比であぶりだされるのは、人々の信頼関係の崩壊や、社会的な「こうあるべき」という理想の喪失、巨大化するシステムに飲み込まれる個人、「神話性」が成り立たなくなった時代の状況。

 『ゴッドファーザーPART2』では、若き日の父・ヴィトー・コルレオーネを演じたロバート・デ・ニーロのほうが、息子・マイケルを演じたアル・パチーノよりも断然カッコいい。それは役者個人の資質の問題ではなく、ヴィトー・コルレオーネが「神話性」をまとった人物として描かれるからです。でも、もはや「神話性」の成り立たない時代で苦悩するマイケルの姿にも、全てを失って孤独に耐える「ダンディズム」みたいなものはまだ感じられた。

 『ソーシャル・ネットワーク』のマークの孤独は、もっと情けないものとして描かれます。彼は、かつてブログに悪口を綴った元カノに、Facebookを通じて友達リクエストを送る。それが受理されたかどうかが気になって、神経質に更新を繰り返すマーク。ここで映画は終わります。

 リクエストを送ることができただけマークが成長したラスト、ともとれますが、どう好意的にみても、カチカチと更新ボタンをクリックし続けるその姿にカッコ良さは感じられません(でも、他人事では済まない切実さはたっぷり)。

 

 

 自分が築いたはずの巨大なシステムに飲み込まれ、孤独になっていく人物を描いた作品として『ゴッドファーザーPART2』と対比させても、自己承認をめぐるドラマとして『エリン・ブロコビッチ』と比べてみても、『ソーシャル・ネットワーク』の身も蓋もなさは際だっています。

 孤独でダンディーな中年男性でも、バイタリティー溢れる中年女性でもなく、現代の「物語」の中で「若い男」であることの身も蓋もなさ。その寄る辺なさをコミカルに誇張することなく、リアルな感覚をキープしたまま、見事にエンタメに昇華した『ソーシャル・ネットワーク』。

 このタイプの主人公で2時間の娯楽映画がもってしまうというのは、けっこう凄いことなんじゃないかという気がします。

 マークに共感できる部分は社交スキルの低さぐらいで、コンピューターはからきしダメな自分のような人間(ひどいなしかし)にもひしひしと迫ってくる、「これはたしかに自分たちの時代の映画だ」という感覚。良い映画でした。

 

◯おまけ

 

 レディオヘッド最初期の名曲『Creep』の合唱カバー(Scala & Kolacny Brothers)。『ソーシャル・ネットワーク』の予告編につかわれて、映画本編には未使用だったんだけど、インパクトありました。ちょっと庵野秀明っぽいセンス?

 

 


Scala & Kolacny Brother - Creep (HD) - YouTube

 

 

*1:いっぽう、マーク・ザッカーバーグの社交関係が崩壊していく様を描いたこの映画の原題は「The Social Network」です。