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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

「分人」の視点からみる『ゆゆ式』 ~『ゆゆ式』感想 その②

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 ※その①はこちら→ 『ゆゆ式』感想 その① 

 

 今回は「分人」という視点から、アニメ『ゆゆ式』を見てみます。

 「分人」は作家の平野啓一郎が提唱しているあたらしい言葉・人間観で、それについて書かれた新書(『私とは何か 「個人」から「分人」へ』)は話題になったので、ご存知の方もいるかもしれません。

 記事ではまず、この「分人」がどのような概念なのか?を確認します。それから、この概念を通して『ゆゆ式』を解釈してみることで、作品のなかで人間関係がどれだけ精密に描かれていたか、を確認していくという流れで進んでいきます。

 けっこう「分人」という発想におんぶに抱っこの記事です。またもや1万字ぐらいの長さになっているので、時間のあるときにのんびり読んでいただけたら嬉しいです。

 

◯分人とは

 まずは、分人という言葉の説明から。「平野さんの本なら読んだよ」という方は、次の「分人という単位の細かさ」に進んでいただいて大丈夫です。

 

                    ◯

 

 私たちは、毎日の生活のなかで様々な相手とコミュニケーションをとり、その相手によって見せている顔は異なります。

 たとえば、会社の上司といるときと、友人といるとき。相手に見せる顔は全く違いますよね。『ゆゆ式』でいえば、ゆずこは、仲良し3人組でいるときとそれ以外のときでは態度が変化します。

 普段はこのような顔の変化を「ペルソナ(仮面)のつけかえ」とか「キャラの使い分け」というモデルでなんとなく了解している場合が多いと思います。まずは根本にたったひとつの「本当の自分」というものがあって、相手により、場面により、それぞれに相応しい仮面をつけ替えている、という理解。

 

・「たったひとつの、本当の自分」モデルで腑に落ちないこと

 でも、この「本当の自分/ペルソナをかぶった自分」というモデルで人間関係をさらに細かくみていくと、腑に落ちないことが出てきます。

 いったん「本当の自分」というものを設定してしまうと、人が当然のように持っているさまざまな「顔」は、すべて表面的に使い分けられた「ペルソナ」であり「ニセモノ」ということになります。ということは、私たちは世界の誰とも「本当の自分」でコミュニケーションをとることができません。

 たとえば、ある女性が母親として幼い子供に接するときと、妻として夫に接するとき。当然、態度は変わりますが、このどちらも「ペルソナ」で「ニセモノ」ということになります。

 個人的な例をあげると、私にはAさんとBさん、全くタイプの異なる友人がいます。Aさんはすごく穏やかなタイプで、Aさんと対しているときの私は、比較的ポジティヴで丁寧な性格をしていると思います。いっぽうBさんといるときの私は、ネガティヴで毒のあるセリフを吐く、けっこうひねくれた性格。この2人の「私」はまったく正反対のタイプ。

 「たったひとつの、本当の自分」がいる、という発想にたつと、どちらかの私は(というかどちらの私も)「仮面をかぶった偽物」になってしまいます。でも私自身の実感として、AさんとBさん、どちらと対しているときの「私」でいる時間もともに自然体で楽しくて、まったく無理しているつもりはない。「ペルソナをかぶって演技している」という解釈は、私自身の実感に則しません。

 さらにいえば「たったひとつの、本当の自分」というのはどこにあるのか。誰かと接しているときの「自分」には実体がありますが、「本当の自分」には実体がありません。「これが "本当の自分" で、この ”自分” がベースになって、その上にペルソナをかぶっているのだ」という、あらゆる関係性(人との関係性のみに留まらず、読んでいる本、聴いている音楽、見ている景色など、周囲の環境全てとの関係性)から完全に独立した「自分」というものを指し示すことはできない。

 このような違和感は「たったひとつの本当の自分/それ以外のニセモノの自分」という区分を作ることで出てくる弊害です。ここで「分人」という考え方が登場します。

 

・「分人」とは

 「分人」は、人が対人関係ごとに見せる複数の顔をすべて「本当の自分」ととらえて、「たったひとつの本当の自分」というものがある、という固定観念から離れよう、という発想です。

 「個人」は英語で「individual」=直訳すると ”分割できない” となり、この言葉には「社会を構成する最小単位」という含みがあります。組織/社会/国家を構成する要素としての、それ以上分割できない最小単位としての「個人」。

 そのような「個人」という言葉に対して、「個人」の中の分割された複数の顔を「分人(dividual)」と呼んでみる。

 

一人の人間は複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』)

 

 中心のないネットワークという意味では、インターネットのようなイメージで人間を捉える発想なんですね*1

 そして、対人関係だけではなく、観た映画や目にした風景など、人間以外の対象や環境も、分人化をうながす要因になります。それらの分人を、すべて「本当の自分」と認めること。

 

・あるのは「表面の関係性」だけ?

 ひとつ注意したいのは、「分人」は、ふた昔ぐらい前にポストモダンの俗流解釈として喧伝された「自我 /本当の自分などない、あるのは表面の関係性だけだ!」という発想とは違う、という点です。この「関係性 ”しか” ない」説もまた、「生の実感」からは離れています。

 

分人をベースに自分を考えるということと、単に「自我を捨てる」ということとはどこが違うのか?私たちは、生きていく上で、継続性をもって特定の人と関わっていかなければならない。そのためには、誰かと会うたびに、まったく新しい自分であることはできない。出社する度に、自己紹介から始めて、一から関係を結び直すという、バカげた話はない。


平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』)

 

 「本当の自分などない」のではなく、「ただひとつの、本当の自分がある」のでもなく、「対人関係ごとに見せる様々な顔がすべて本当の自分」。これが「分人」の発想です。

 「個人」という概念は、ひとりの人間と、組織/社会/国家といった大きな存在との関係を対置して、大掴みに捉えるさいには有意義です。

 でも、これまで見てきたように、人間関係を仔細に点検していくと、「ただひとつの、それ以上分割できない、本当の自分」をイメージさせる「個人」という概念では大雑把すぎて、うまく説明しきれない部分が出てくる。そこをカバーするのが「分人」です。

 

◯「分人」という単位の「細かさ」

 著者自身も書いていますが、「分人」はとくべつ斬新な認識というわけではありません。皆がなんとなく感じている「人間の多面性」について整理するために、まず、思考の土台になる言葉を作ろうという試みです。現実をどう認識し、整理すればより生きやすくなるのか?という問題。

 この「分人」という仮説、ものの見方に全面的に納得するかどうかはさて置いて(私は良い仮説だと思っているのですが)。

 ただひとつの、それ以上分割できない「個人」という単位は、もともと「社会と人間」との関係を前提にした*2大掴みなもので、それをそのまま「人間と人間」の関係にあてはめていくと、「人間の多面性」について、うまく理解できない局面がでてくる。

 そして、「人間の多面性」を非常に細かく捉えた『ゆゆ式』には、この「分人」という言葉を意識しながらみていくことで「ああ、そうか!」と納得のいくような描写が多々登場する。

 この記事を読み進めるうえでは、この部分を了解していただければOKです。「分人」という人間観の「細かさ」が、『ゆゆ式』をみるうえでの助けになってくれる、ということ。

 

◯分人の混乱 

 「分人」の説明がずいぶん長くなっちゃったんですけど、ようやく『ゆゆ式』の話に移ります。

 ここからは、『ゆゆ式』に「分人」的な発想の描写がしばしばみられることの指摘を通して、『ゆゆ式』でどのように精密にコミュニケーションが描かれていたか、を見ていきます。

 

                    ◯

 

 前回の記事で「テーマ提示回」と書いた第3話ですが、同時にこの回は、主人公3人グループ(ゆずこ、唯、縁)の人間関係のリンクが外に広がっていくきっかけが描かれた、転換回でもあります。具体的には『ゆゆ式』に登場するもうひとつの3人グループのメンバーである、相川とゆずこの接近。

 相川は元々、しっかり者の唯に憧れをもっていました(最終回で描かれますが、学校ではしっかり者のあいちゃん、家ではけっこうだらしないんですね。だがそれがいい)。いっぽう、エキセントリックなゆずこと縁にたいしては、ちょっと苦手意識があった。

 そんな相川とゆずこが、たまたま本屋に居合わせて、本の話題などで意気投合、メアドの交換までした模様。相川は「なんだ、野々原さん(ゆずこ)って、話してみれば普通の子なんだ」と思ったことでしょう。

 しかし第3話ラスト、ゆずこからとつぜん意味不明のシュールなメールが送られてきて、困惑する相川。

 「んんー、本屋さんではあんなに普通だったのに?」

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                    ◯

 


 ここで起こっていることは「分人の混乱」である、と説明するのがしっくりきます。本屋で相川と会話したときのゆずこは、相川向けの分人で応対していたんですね。でも、メールを出したときのゆずこは、唯や縁といるときに出てくる「ヘン」な分人。

 その「ヘン」な分人のままで文面を打ったから、相川は本屋で話したゆずこの分人とのギャップに戸惑った。

 ここで強調したいのは、相川といるときと唯・縁といるとき、2人のゆずこはどちらも「本当のゆずこ」である、という点です。もちろんこの時点では、相川とはまだ距離もあるので、それを探っている部分も大きくて、今後距離が近づくにつれて関係のあり方も変化していくでしょう。

 でもだからといって、すごく仲良くなった後も「相川と2人きりでいるときのゆずこ」が、「唯・縁といるときのゆずこ」とまったく同等のエキセントリックさを発揮する、というのはちょっと想像しにくい。あのゆずこは、唯や縁との関係性の中でこそ出てくるゆずこです(さきほど出した私の例...Aさんの前ではポジティヴになり、Bさんの前ではネガティヴになる、という関係と似ています)。

 家で家族とすごしているときのゆずこは、また違った分人を生きていることでしょう。そのゆずこと「唯・縁といるときのゆずこ」、どちらかが「ニセモノ」ということではない。

 

                    ◯

 

 唯に関しても同様です。第3話、唯の家での、唯のお母さんとゆずこの会話。

 

ゆずこ「すいません、お騒がせしちゃって」

唯の母「いいのいいの。普段あの子もの静かだから、騒がしいとホッとするの」

 

 だからといって、3人でいるときの唯が「本物」、家族といるときの唯は「ニセモノ」なわけではないですよね。

 その①でも引用した小倉プロデューサーのインタビューから。 

 

唯もそうですよね。ゆずこに対しては激しくツッコミしますけど、相手がゆずこじゃなかったらあんな厳しい言葉使いはしない子です。かといって、普段がおとなしぶってるだけでゆずこたちと接しているときが素なのかというとそんなこともなくて、あの3人の間でのルールに従って、ああいうリアクションをしているだけなんです。

 (15年2月1日追記:アニメ専門サイト『AniFav』の『ゆゆ式スタッフインタビュー』リンクを載せていたのですが、サイトの閉鎖にともない、記事が読めなくなってしまっていました。残念。)

 

 「普段がおとなしぶってるだけでゆずこたちと接しているときが素」でもない、というのは「普段も、ゆずこたちと接しているときも本当の唯」という分人の発想とはちょっと違った表現ですが、「ただひとりの、本当の唯」という存在を設定していない、という意味では同じですね。

 そして「あの3人の間でのルール」は、「3人でいるとき向けの、それぞれの分人」と言い換えることができると思います。ゆずこ・唯・縁が、3人でいるとき向けの分人をエンジョイしている姿を描いたのが、『ゆゆ式』という作品でした*3

 

◯「キッ・・・」

 もうひとつ、「分人の混乱」の例。
 第12話、唯の家。3人で「アイスをとりに台所へいこう」という流れになるシーン。

 

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縁「じゃあ、キッ・・・台所いこー?」

唯「キッ?いま、キッチンやめただろ。なんで?」

縁「へ?あれ?(汗)」

 

 これも、「家では ”キッチン” という言葉を使っている ”いいとこのお嬢さん” としての縁の分人が出てきてしまった例」ととれます。

 この場面の解釈で「たったひとつの、本当の自分」説を採用してしまうと、唯たちといるときの縁は「庶民派の仮面を被った、ニセモノの縁」になってしまう。

 たしかに、縁のなかで「唯やゆずこといるときは、お嬢様な自分は出したくない」という意識はあるでしょう。でも、「家にいるときの縁」と「唯・ゆずこといるときの縁」のあいだには、「本物」や「ニセモノ」という価値の序列はない、と考えたほうが自然です。

 (逆にいえば「たったひとつの、本当の自分」を設定しないことで、「どの分人が自分にとって、より大切なのか」を自分で選択することができます。これは「分人主義」の利点です。)

 

◯「私だけかー」

 「その①」でも触れた、第3話の中の一場面。

 唯にいたずらを仕掛けたゆずこと縁。しかし、鉄拳制裁をくらうのはゆずこだけ。ゆずこの呟き「私だけかー」

 

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 この場面も「たったひとつの、本当の自分」というブレない存在を設定してしまうと、ゆずこが差別されているという悲しい場面になります。唯はいたずらに対して怒っているのだから、本当はゆずこと縁、両方を殴らなくてはフェアじゃないのに、実際に殴られたのはゆずこだけ。

 でも、べつにゆずこは差別されているわけじゃないですよね。もう一度、さきほどのプロデューサーの発言。「あの3人の間でのルールに従って、ああいうリアクションをしているだけなんです。」

 唯のゆずこ向けの分人は、縁向けの分人と違うということ。もっと厳密にいえば、唯のなかでは「ゆずこ・縁と3人でいるとき向けの分人」があって、さらにその下に「ゆずこ向け」と「縁向け」の分人が階層化されている、ということでしょうか(だから、ゆずこと2人きりでいるときの唯は、またちょっとだけリアクションが違う=分人の構成比率が変わってくる)*4

 このような人間関係の機微と、差別は分けて考えるべきです。ゆずこも、たぶんそこらへんはわかっているんだろうけど、それでも「わかっちゃいるけど」的不安がこみあげてきて、それが彼女のコミュニケーションへの原動力になっている、というのは「その①」に書いた通りです。

 

                    ◯

 

 この場面から連想されるのは『けいおん!!』(2期)の第14話、律と紬のエピソード。律のように皆からハードなツッコミを受けてみたい紬は「リゾートな服装で塾の夏期講習にあらわれる」などの作為的なボケを連発しますが、しかし期待どおりのツッコミを受けることができません。

 

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 でも、じゃあ気軽に頭をどつかれる律のほうが、皆に「より一層」受け入れられていて、紬はそうじゃないのか?というと、そういうことではないですよね。これもまた、人間関係の機微を精密に描写したエピソードでした。

 

◯コミュニティの接近

 ところで、平野啓一郎の本では「分人」を通じて、価値観の異なるコミュニティ同士が接近する可能性についても触れています。

 AとBという、対立する価値観をもったコミュニティがあるとします。大きな括りとしてのコミュニティ単位で考えると、このふたつの勢力の対話は難しい。そして、「たったひとつの、本当の自分」という人間観だと、どちらか一方のコミュニティしか選べません。

 でも、人間の「多面性」をさらに突き詰めた「分人」という発想をとれば、お互い矛盾する価値観のコミュニティにも参加できる(全くタイプの違うふたりの人と友達になるようなものです)。

 双方のコミュニティに参加している人は、Aのコミュニティに参加しているときに、Bのコミュニティでの「分身」がちょっと顔をだすこともある(さきほどみた「分人の混乱」はその一例です)。そしてAのコミュニティでその人と接する人の中には、何かしらBのコミュニティの価値観が影響する可能性がある。

 平野啓一郎は、「非常に微視的」であることは認めつつ、このあたりにコミュニティの融和の可能性をみているようです。

 これについては「コミュニティ同士の融和の必要などない。棲み分ければよろしい」という意見もあって、たしかにある程度の棲み分けも、多様性の確保という意味では必要です。すべてが混じり合ってしまったら、やがて世界が均質化してしまうおそれがある。

 だけど、その棲み分けが上手くいかずにあちこちで暴力的な衝突が起きているのが現状。コミュニティ間の交流・融和と、それぞれの独自性の確保の双方が必要です(本では、このあたりを「文化多元主義」と「多文化主義」、双方のレイヤーが必要、と表現しています)。

 

◯まじゃりんこ

 『ゆゆ式』では、これに似たプロセスでの「2つのコミュニティの接近」が描かれていました。「ゆずこ・唯・縁」と「相川・岡野・長谷川」、ふたつのグループの接近。

 もちろん両者は対立していたわけではないですが、グループ単位の付き合いはなかったし、「その①」でも書いたように、ゆずこと岡野のあいだには微妙な緊張感もありました。

 グループにはそれぞれ、内輪特有の「ノリ」があります。この「ノリ」をひとりひとりの中のレベルで言い換えれば、それぞれのグループ向けの「分人」ということになる。

 一般に「内輪ノリ」がウザいのは、その関係性を共有していない他人に向かって、なんの考えもなくグループ特有の「分人」で接するからですが、ゆずこたちはそのあたりに極めて意識的です。あくまでも、自分たちが楽しむためのものとして「内輪ノリ」を扱ってきた。

 小倉プロデューサーのインタビューから。

 

 ゆずこや唯は基本的に緑に笑ってほしいから色んなネタをしているだけで、3人の外にいる人や、もちろん視聴者的な目線も想定には入っていない。いわゆる一般的なウケは意識していないんです。

 

 それで、さきほども触れた第3話の「分人の混乱」、ゆずこが相川へ出した「ヘンなメール」ですが、これ、ちょっと計算の上での行動という感じもしますよね。

 「内輪ノリ」が外部に通用しない、ということに充分に意識的なゆずこが、あえて自分たちのグループ向けの分人を相川にぶつけてみる。「この人なら」というか、相川が好きなので、自分たちの領域にちょっと入ってきてほしい、という思いがあったのかもしれません。

 このエピソードのあと、じっくりと話数をかけた細かいやりとりの積み重ねで、各メンバーの交流が少しずつ(本当に少しずつ!)描かれます。相川も、自分のグループでゆずこ達の話をしたりするようになり、岡野や長谷川もゆずこ達を意識しはじめる(ゆずこグループの影響が浸透しはじめる)。

 そして両グループが「ノリ」を共有して、一気に接近するのが、第9話『まじゃりんこ』、あの有名な「パン人間か!」のくだり。ここの流れはすごく緻密に描かれています。

 昼休み、弁当を食べながらの会話。まずは、いつも通りゆずこ達グループ特有の「ノリ」(「パン人間か!」)が形成されていて、そこに偶然、岡野が入ってくる(「パン人間ってなに?」)。偶発的な事故のような、ゆずこグループの「ノリ」への外部からの浸食。不覚にも、苦手意識をもっていた岡野に笑わされてしまうゆずこ。

 ゆずこは、以前から繋がりができていた相川に声をかける。そして、この場面でのキーパーソンは、元々ゆずこグループと馴染みのよいギャグセンスを持つ長谷川です。彼女の「パン大臣です」という追い打ちと、「あ、偉くなった」という唯の絶妙なサポート。この、グループの垣根を超えた連携プレーでゆずこが再び笑わされてしまい、ゴール。まるでサッカーの試合のような流れで、両グループ間で共通の「ノリ」が共有されます。

 

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 そして、第9話ラストはみんなで長谷川の家に遊びに行こう!というところで終わりますが、ここでキレイにカップリングができているのがポイントです(原作では、このカップリングが固定的になっていくことが、後のエピソードで示唆されます)。

 

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 グループ同士が接近したといっても、ベースになるのはあくまでも、ひとりひとりの関係。「分人」があくまで、個々の関係性のレベルからコミュニティの融和を考えているのとちょっと共通します。

 

◯むすび 

 今回は「分人」という発想と照らしあわせていくつか例を出しましたが、『ゆゆ式』ではこのような人間関係の機微が一貫して描かれていて「ものすごい精度で、微細な領域を扱ってるなー!」とびっくりする瞬間が何度もあります。

 縁の「笑い」のニュアンスとかも、ホント細かい。ストレートにギャグで爆笑したとき、その場の雰囲気が楽しくて笑ってるときなど、「笑い声」のバリエーションがいくつもあります。

 原作者の三上小又は、人間観察やコミュニケーションを考え詰めてこのような表現に至ったのだろうけど、こんなニッチ領域を4コマ漫画でエンタメとして成立させてしまっているのがすごい。そしてアニメ版も、その微妙な部分を、これ以上は望めないぐらい見事に掬いとっていました。

 

                    ◯

 

 坂本龍一は、1990年代の後半、当時台頭してきたovalなどのエレクトロニカについて「進化の末端にあるものは面白い」と賞賛していましたが、私にとっての『ゆゆ式』もそういう作品です。

 エレクトロニカが、メロディー(リニアな構造)ではなく音の質感にこだわり抜いたように、脱物語としての「日常系」を極めた結果、プロット主導型の物語形式(リニアな構造)では表現し得ない、微細な領域を扱うことに成功した作品。

 たしかにそれは、ある意味では「進化の袋小路」かもしれないんだけど、でも、行き着くところまで行った表現があるからこそ、その「次」も生まれる。そして、次にくる「ポスト日常系」は、たんなる「物語の再導入」とはひと味違うものになるといいな、と思います。音のテクスチャへのこだわりを極めたエレクトロニカ以降の電子音楽が、たんなる「メロディーの復権」には安住できないのと同じように*5

 …とオーバーなことを書いてみましたが、あくまで気軽に楽しめる、かわいくて面白いアニメなところが大事なんですよね。

 そして今回観直してみて、あらためておもったこと。

 長谷川→岡野→相川→唯、の百合版『欲望の翼』な一方通行、いい...。そのままずっと追いかけあい続けてほしいです。

 

 

*1:この記事の主旨とはズレるけれど、興味深かった点をひとつ。「分人」は、近年よくいわれる「複数の共同体へ多重参加することが、生きていくうえでのリスク分散・セキュリティネットになり得る」ということを、一人の人間の中のレベルで捉えてみよう、という発想でもあります。たとえば「会社にいるときの分人」が生き辛くて苦しかったら、それ以外の心地よい分人を「自分が生きていくうえでのメインの足場」に設定して、その分人を生きる割合を増やしていく努力をする(アマルティア・センの言う「アイデンティティの複数性」をさらに精密化した発想、ともいえるかも知れません。)「仕事が辛いから趣味に生きる」と何が違うの?という感じがするかもしれないですが、大きいのは「本当の自分の顔はひとつだけではない」と考えることで、「会社での自分が苦しい→自分の存在を全否定する(極端は自殺)」という思考に陥らずに済む(すくなくとも、その傾向を軽減できる)、というメンタル面でのリスク分散が可能になる点です。本文中で「分人」はインターネットのモデルに似ているという指摘をしました。インターネットが元々は軍事技術をルーツとしていて、もしネットワークのなかの1カ所が攻撃されても、その余波が全体に波及しないように設計された、という有名な話がありますが、それの人間版的な発想です。

*2:本のなかでは、「個人」は一神教の文化圏で「ただひとりの神」と「人間」との対置の中で形成された人間観であることに触れています。

*3:さらに細かくいえば、「3人でいるとき向けの分人」を生きているそれぞれが、さらにボケやツッコミという役割分担=「ロールプレイ」をしている、という二層構造になります。

*4:同じく第3話。ゆずこと唯、ふたりきりのシーン。ゆずこが唯に「私の世界の真ん中は唯ちゃん」と言う場面を頭の中で想像(シミュレーション)しますが、「3人のときだと冗談だけど、2人きりだとマジっぽくてアレだな」と思いとどまります。同じ相手と対していても、その場に誰が居るかによって当然態度は変わる。でも、縁も加えた3人でいるときと2人きりでいるとき、どちらのゆずこがより「本物」かという序列はないですよね。

*5:関連記事→洋楽好きに「日常系アニメ」の魅力を布教してみた。