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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

「物語の力」についての物語 〜 Wake Up,Girls! 感想

アニメ Wake Up,Girls!

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 先日、最終回が放映された『Wake Up, Girls!』。

 地元・仙台が舞台になっているということで、ちょっと贔屓しつつ、いろいろとハラハラしながら応援していたのですが、良い作品でした。緑の多い街並の雰囲気とかもすごく上手く出ていて。

 街を歩いていると、普通のパン屋さんのウインドーに『Wake Up, Girls!』のポスターが張ってあったりして「おお、ご当地アニメ…」と感慨に浸ったりしていたので、放映が終わってしまったのは寂しいです。とくに冬アニメって、最終回がちょうど卒業シーズンなので、終わったときの喪失感が強い気がするんですね(学生時代なんて遠い昔の話なんですけど)。

 というわけで、今回は3ヶ月の間楽しませてもらった『Wake Up, Girls!』の感想です。劇場版から最終回までのネタバレを含みますので、ご了承ください。

 

                    ◯

 

 この作品を象徴するセリフのひとつとして、0話である劇場版と、最終回、二度にわたって口にされた「アイドルは、物語」がありました。このセリフをキーワードにして、話をすすめてみたいと思います。

 

 

◯アイドルは、「物語」

 

 ところで、じつは私は劇場版を観る前に第1話を視聴して、あのパンチラにびっくりしたクチです。あれ、お色気アニメの「サービス」としてのパンチラとはずいぶん雰囲気が違いましたよね。

 スカートにはさまれたシャツの裾まで描かれていて、すごく生々しい。「みえ」とか単純に喜べる感じじゃなくて、逆に見ているこちらに居心地の悪さを感じさせるような描き方。*1

 「なんだこれは?」と思ったときに、助けになってくれたのがこの記事でした(こちらのブログに、毎週素晴らしい考察がアップされていて、アニメ同様楽しませていただきました)。

 

Wake Up, Girls!/感想&トラックバックセンター/第1話「静かなる始動」(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

 

 

 この考察を読んで「なるほど!」と腑におちたのですが、つまり劇場版を観た人は、なぜ彼女たちがアンスコも履かずに、やぶれかぶれのノリで、あそこでライヴをやっていたかがわかる。彼女たちがその状況に至る文脈、「物語」を共有しているからです。

 でも、私のようにいきなりテレビの第1話を観た人間は、「物語」を共有していないので「えっ、なんでパンモロなの?」と戸惑うことになる。*2そして、その温度差はおそらく計算のうえで、コンセプトとしてつくり出されていた。

 これは、「ハルヒダンス」や「聖地巡礼」などを通じて、二次元と三次元の垣根を超えるような現象をつくり出してきた山本寛監督らしい演出だなあ、と思いました。

 ライブシーンには、「おいおい、あの子たちパンツ見えちゃってるよ」みたいなあきれ顔をするモブキャラが登場しますが、彼らの立場と、テレビ版の第1話だけを観て呆気にとられた現実の視聴者の立場が重なっている。この時点では、視聴者はまだ「傍観者」です。

 これから12話かけて彼女たちとの「物語」を共有することで、視聴者のなかに、彼女たちへの共感が芽生えていってほしい。そのような意味を込めた演出だったのではないかと思います。彼女たち一人一人の「物語」を知っていくことで芽生える共感(それをパンチラで宣言する、というのがまた素敵)。

 

◯「個」に寄り添う

 

 Wake Up, Girls!に最初の曲を提供した女性デュオ、Twinkleのメンバーは「アンナ」と「カリーナ」でした。アンナ・カリーナといえば、初期のジャン=リュック・ゴダール映画のミューズ(にして、あのゴダールを振った女!)。

 そのゴダール監督の『気狂いピエロ』に、こんな場面があります。カーラジオのニュースから、戦争のニュースが流れてくる。ヴェトコンが115名死亡。それを聴いて、アンナ・カリーナ演じるヒロインが「無名って恐ろしいわね」とつぶやく。

 

「ゲリラが115名戦死というだけでは何もわからないわ。一人ひとりのことは何もわからないままよ。妻や子供がいたのか?芝居より映画の方が好きだったか?まるでわからない。ただ115名戦死というだけ」

 

 このセリフは、村上春樹神の子どもたちはみな踊る』の冒頭に引用されたことでも有名です。『神の子どもたちはみな踊る』は、阪神大震災の余波のもとに書かれた短編集でした。

 震災でどれだけの被害が出たのか、という客観的なデータはもちろん大切です。いっぽうで「物語」にできるのは、データに反映されない、ひとりひとりの個別性を描いていくこと。徹底して「個」に寄り添うこと。それが「物語」のもつ力(のひとつ)である、という認識。*3

 Wake Up, Girls! というアイドルユニットは、雑多な「個」の集まりです(それは劇場版のライブシーンで、着ている制服がバラバラだったことにも表れています)。そして、回を重ねるごとに、そんな彼女たちがそれぞれに抱える事情、「物語」が語られていく。

 Twinkleの「アンナ」と「カリーナ」は、「Wake Up, Girls! らしさって何でしょう?」という質問にたいして「それは見ている人たちが決めてくれるんじゃない?」と、彼女たちの不揃いさを肯定するような発言をします。バラバラな「個」の持ち味が出ているユニットだからこそ、見る人ごとのWake Up, Girls!らしさがある。

 いっぽう、ライバルのI-1クラブは、「個」を抑圧し、完璧な統制を誇るプロフェッショナル集団として描かれます。もちろん彼女たちのひとりひとりにもそれぞれの「物語」がありますが、徹底した「成果主義」のI-1クラブはそれを認めず、「個」の「物語」を排除します。

 何度か描かれる「はい、◯番と◯番は明日から来なくていいよ」という、「個」の事情を斟酌しないシビアな選別もそうですし、そもそも真夢がI-1クラブを追い出されたのは、友達の恋愛という「個」的な「物語」を守ろうとしたのが原因でした。

 これはこれで、プロフェッショナルとして正しい姿勢なのかもしれません。でも真夢はそこに馴染めなかった。そこでは「自分自身を幸せにすること」ができなかったのです。

 

◯「過程」と「成果」

 

 ところで、ここまで書いておいてなんですけど、私はアイドルについてほとんど知識がありません。積極的な興味がないかわりに、とくに悪い感情も抱いていない、比較的フラットな立場の人間です。

 AKBも、ももクロもよく知らず、『あまちゃん』も未見。アイドルアニメも『ラブライブ!』(2期、楽しみですね)と、この『Wake Up, Girls!』ぐらいしか見た事がない。アイドル論の本なども読んだことはありません。

 これは「その程度の知識・見識しか持たない人間の話」として読んでいただきたいのですが…

 アイドル評論家の中森明夫(「おたく」の名付け親。ちなみに劇場版『Wake Up, Girls! 』を評価するツイートをしていました)が、読売新聞に書いた記事の中で「アイドルとは、皆を元気にさせる人」と書いたことを受けて、こんなツイートをした人がいました。

 

「同感である。もはやアイドルの定義はこれだけだ。容姿、技術、年齢などは全く意味がないのだ」

 

  これに対して、こんなリアクションをした人がいました。

 

「歌やダンスが上手だと元気にならないのかな、日本人」

 

 このやりとりは面白くて、芸能に対するふたつの評価軸を明確に表しています。

  前者はWake Up, Girls!寄りの価値観で、歌やダンスの技術的なところはまだ未熟かもしれない。でも、すこしでもパフォーマンスを向上しようと必死に頑張る姿=「物語」性が、ファンを惹きつける。

 この「物語」は、アイドルたちがステージに立つまでに至る「過程」を実際に見たり、想像したりする中にあります。

 後者はI-1クラブ寄りで、最終的にアウトプットされたパフォーマンスが全て、という「成果主義」です。じつは私は最初、どちらかといえば後者のツイートに共感したんですね。

 ただ、アイドルにこの「成果主義」をあてはめたときに、素朴な疑問が湧いてきます。「他のジャンルと比較したときに、アイドルの歌やダンスは圧倒的に負けてしまうのではないか?」という疑問です。

 たとえば、フレッド・アステアマイケル・ジャクソンのような天才のダンスと、アイドルのそれとを比較して「後者のほうが優れている」という人はほとんどいないと思います。「成果主義」のみで語ったら、「アイドル」の存在そのものが否定されてしまう。

 でも「マイケル・ジャクソンよりも、AKBのダンスを見ていた方が感動するし、元気になる」という人々は確実にいるわけです(もちろん逆の人もいますよ)。その人たちは、パフォーマンスの質ではなくて、彼女たちの「物語」に感動しているのではないかと想像します。*4

 批評家の東浩紀は、最近アイドルのプロデュースを手掛けることを発表した批評家・濱野智史のアイドルに対する考え方を、このようなものなのではないか?と要約していました。

 

「人間がいちばん感動するのは子供が運動会に出てるときですね。アイドルはそれです」

 

 さきほどの「アイドルは技術じゃない」というツイートをした人も、このようなことが言いたかったのだと思います。*5

 子供が運動会に出て頑張る姿は、それまでの成長「過程」という「物語」を共有する親だからこそ、感動への引き金になるんですね。見ず知らずの子供が運動会に出ていたところで、その姿に感動して涙する人はあまりいないでしょう(かわいらしい、ぐらいは思うかもしれませんけど)。

 

◯「物語」は「過程」のなかにある

 

 この作品では、「過程」(に含まれる「物語」)を重視するWake Up, Girls!と、「成果」を重視するI-1クラブの対比が描かれます。

 第7話で描かれた藍里の脱落もそのひとつで、彼女は歌やダンスの完成度という「成果」をなかなか出せない。

 脱退を口にする藍里に、真夢は「藍里の頑張っている姿を見たから、自分ももう一度アイドルをやろうと思った」と言います。「頑張っている姿」への感動は、「過程」のなかにある「物語」性への感動です。

 いっぽうで、I-1クラブは、もともとはWake Up, Girls!用に作られた難曲で、精度の高いパフォーマンスを見せます。音楽プロデューサーの早坂はその「成果」を賞賛しますが、「でも、面白いかって言われると、ねえ?」。

 早坂は、海外からも仕事の依頼がくる売れっ子という設定です。彼の目から見たら、「このレベルで歌やダンスの完成度を追求しても、もっと技術的に凄い人ならいくらでもいるよ」という含みもあるのかもしれません。

 最終回で、佳乃のケガをかばい精一杯頑張るWake Up, Girls!の姿を見て、I-1クラブのプロデューサー、白木はショックを受けた表情を見せます。その彼に、早坂が掛けた言葉。「白木さんが昔やってた吾妻橋のゲリラライブって、こんな匂いだったのかな」。

 その頃のI-1クラブは、おそらく歌もダンスも、今よりも全然レベルが低かったでしょう。それでも次第にファンを獲得していった。ファンたちを惹きつけたのはパフォーマンスの質ではなく、「懸命に頑張る彼女たちを、自分たちが支えていくんだ」という「物語」への参加欲求だったのかもしれません。

 劇場版のクライマックスとして描かれていた、Wake Up, Girls!のファーストライブ。ここで彼女たちは精一杯歌って踊りますが、まだ彼女たちのパフォーマンスはその「質」で観客を惹きつけるレベルには達していません。*6

 そんな中、唯一彼女たちのパフォーマンスに感動し、声援を送ったのは、I-1クラブ時代から真夢を知る古参のファンでした。

 彼は、真夢がI-1クラブを追われたことを知っている。かつてトップアイドルグループのセンターだった彼女が、地方都市の冬の野外ステージで、まばらで無関心な観客を相手に、精一杯のパフォーマンスを披露している。彼は、その「物語」に感動したのではないかと思います。

 最終回のライブで、I-1クラブのファンたちが、かつてのセンターである真夢にたいして冷たい反応をする描写がありますが、あれも逆にいえば「物語」の存在を感じ取る準備が観客にできていることを示しています。

 「I-1を追い出された真夢が、地方のアイドルグループで必死に頑張って、この舞台までたどりついた」という物語。もちろん、観客の「物語」への参加を後押ししたのは、Wake Up, Girls!全員の懸命なパフォーマンスでした。

 

◯「物語の力」についての「物語」

 

 最終回で、佳乃はリーダー、そして初センターとしてのプレッシャーから、本番前の大事なときにケガをしてしまいます。これは「成果主義」の視点から見れば、「自分をコントロールできない未熟さ」です。クラシックバレエの世界や、I-1クラブであれば、彼女は絶対にステージには立てないでしょう(くり返しになりますが、それはプロとしては正しい姿勢でもあります)。

 地方でモデル活動をしていた彼女は、いままでもそのようなメンタルの弱さで、全国で活躍するチャンスを逃してきたのかもしれません。でも、今回はそんな彼女を支えてくれる仲間がいます。真夢は、佳乃のケガを知って「棄権しよう」と即断します。7人が揃わないと、Wake Up, Girls!ではない、と。

 これは、パフォーマンスという「成果」よりも、一緒に頑張ってきた仲間との時間という「過程」「物語」を重視する態度です。

 そして、クライマックスの佳乃のジャンプ。このジャンプに含まれている膨大な「物語」については、こちらの素晴らしい考察を読んでいただきたいのですが、

 

Wake Up, Girls!/感想&トラックバックセンター/第12話(最終回)「この一瞬に悔いなし」(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

 

 

 パフォーマンスの完成度、という「成果」を追求するのであれば、ここは安全策をとって飛ばないほうが良い。でも、佳乃は飛んだ。そして「物語」を共有してきた視聴者には、その凄さがわかる。直前の「真夢、飛ぶ」というセリフも含めて、ゾクッときました。

 作中の観客や審査員にとっては、単なる「あぶなっかしいジャンプ」だったかもしれません。そのジャンプに、第1話のパンチラでは呆れていたかもしれない視聴者が感動する。ここでまた、二次元と三次元をまたぐように、「物語」を共有しているか否かでの温度差が、第1話とは逆転した形でつくり出されます。見事な構成。

 いちおうトーナメントで優勝を競ってはいますが、Wake Up, Girls!は、I-1クラブと同じ土俵(「成果主義」という土俵)に上がったわけではないんですね。I-1クラブとは違うオルタナティヴな価値観をしっかりと提示していました。*7

 

                                   

                    ◯

 

 

 「成果主義」の観点から見れば、「過程」=個々の「物語」を大切にする姿勢は「お友達ごっこ」に過ぎないように見えるかもしれません。でも、その「物語」がファンを感動させるという「成果」を、現に出している。ここで「アイドルは、物語」という言葉が結実します。

 たとえば、「精度の高い工業製品を作る」という世界では「物語」は通用しません。いかに短時間で、いかに多くの製品を、高い精度で作り上げることができるか、という「成果」が全てです。

 でも、アイドルは必ずしもそうではない。計量化できない「個」の「物語」が、「成果」を生みだすこともあります。

 『Wake Up, Girls!』というアニメは、震災の余波のなかで生きる少女/アイドルたちの、データには還元されない「個」としての「物語」を語ることを通して、そのような「 "物語の力" を描きだした物語」 だったのではないかと思います。

 

*1:第2話の「観ていて辛い水着回」もそうでしたが、このアニメではお色気シーンは「視聴者サービス」というよりも、むしろ視聴者にたいして、居心地の悪さを突きつけるような描き方がされています。性的なイメージをなにげなく消費している自分の姿を、あらためて意識させるような。実在のアイドルや二次元のアニメキャラが、性的な回路でも消費されている、ということを反映させた演出だったのでしょうか。

*2:ここでは「物語」の共有という、単純化した図式で話を進めていますが、リンク先の考察に書かれているように「生のライブの一回性と、複製映像から受けとる印象の対比」という、さらにメタな意図もあると思います。映画館で観るという一回性・ライヴに近い体験と、テレビとの対比。複製映像で見る被災地の状況と、現実の被災地。複製映像で捨象されるもの。

*3:アンダーグラウンド』で、村上春樹地下鉄サリン事件の被害者への徹底的なインタビューをおこない、その話をひとりひとりの個別の「物語」として描きました。さまざまなデータを統合して、事件の全体図を描きだそうとする「ノンフィクション」とは全く異なる手法に、「ノンフフィクションの書き方がわかっていない」という批判がおこりましたが、村上春樹自身は「そもそも、従来の意味でのノンフィクションを書いたつもりはない」と述べています。徹底して「個」に寄り添おうとするこのような姿勢は、村上春樹の小説にも一貫しています。

*4:ラブライブ!』にも、クラシックピアノを習っていた真姫と、クラシックバレエの世界で挫折を経験した絵里が「アイドルなんて…」と否定的な見解を表明する場面があります。それでも彼女達はアイドルグループに参加していく。このシナリオもまた、「アイドルの強みは、パフォーマンスの質よりも物語性にある」というところに自覚的でした。

*5:東浩紀は、そのあとのツイートで「濱野くんは要は美学の否定のひとなんですね。作品という存在自体を認めない。アーキテクチャ論(コンテンツの否定)からアイドル業への転身はその結果として出てる」「それはぼく自身、高校生のころなんとなく考えていたことで、当時ぼくはドストエフスキーとかに感動しながら、同時にこの感動とおニャン子クラブのライブで得られる感動はどう違うんだろうとか思ってた。」とも発言していて、これは「作品の内在的な価値を認めるかどうか」という相対主義的な(興味深いけれど、ある種泥沼な)議論につながるものですが、この記事の本筋から外れてしまうので、そこまでは深追いしません。

*6:ただ、その設定とは裏腹に作画は素晴らしかった。決して派手な見せ方はしていないんですが、彼女たちの指先に至るまで躍動感が漲っていて、CGでなく手書きにこだわった意義を感じました(さらに、素人ゆえの、ダンスのズレまで作画で再現している。「成果」ではなく「物語」で感動させるダンス・シーンをつくり出すための作画)。このレベルの映像が作れることが証明されていただけに、テレビ版での作画は残念な部分もありましたが、そこは大幅に修正が入っているらしいソフトで補完でしょうか。

*7:この「トーナメントに参加しながらも、ひたすら勝利を目指すのとは違う価値観を提示する」という態度は、2006年の傑作映画『リトル・ミス・サンシャイン』や、京都アニメーションの『Free!』などを思い出させます。なので物語的には最初から、Wake Up, Girls!はトーナメントで「優勝してはならなかった」ともいえます。