『スプライス』感想:抑圧と反発の連鎖
ヴィンチェンゾ・ナタリ監督『スプライス』(2009年)の感想です。
この監督は『キューブ』だけの一発屋扱いを受けてしまうことが多くて、実際『スプライス』も興行的には恵まれなかった映画。
…ではあるんですが、でもこれは『ザ・フライ』とか『インビジブル』などに代表される「研究室(ラボ)ものホラー」(今適当に考えたジャンル)の佳作の1本だと思います。もっと当たっても良かったのになー。
以下の本文では『スプライス』にくわえて、同監督の『キューブ』『カンパニー・マン』『ナッシング』のネタバレをしていますので、ご了承ください。
◯ヴィンチェンゾ・ナタリのテーマ
『スプライス』の感想に入るまえに、話の「まくら」として、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督が一貫して描いているテーマについて簡単に触れておきたいと思います。
ナタリ監督が『スプライス』の前に撮った映画は、短編やドキュメンタリーを除くと3本。
・『CUBE キューブ』(1997年)
・『カンパニー・マン』(2002年)
・『NOTHING ナッシング』(2003年)
寡作ですね。「撮らなかった」というよりは、予算などの問題で「撮れなかった」という事情もあるようですが、とにかくこの3本の映画では「システムと、システムの抑圧を受ける個人の関係」という共通したテーマが描かれています*1。
*1:もちろん、さまざまな作品で取り上げられる極めてポピュラーなテーマですが、ナタリ監督は一貫してこのテーマに拘っている、という点を重視しています。
『バージニア・ウルフなんかこわくない』感想:世界の底は抜けている
『バージニア・ウルフなんかこわくない』(映画版 / マイク・ニコルズ監督 1966年)のネタバレ感想です。
◯
超有名作品ですが、恥ずかしながら私はタイトルと「なんか派手な夫婦喧嘩の映画でしょ?」ぐらいの予備知識しか持たずに観始めてしまい、結果的にかなりびびらされました。
映画には二組の夫婦が登場して、このうち主人公の中年カップル(エリザベス・テイラーとリチャード・バートン)がもう一組の若者カップルの前で、一晩中延々と、それはもう壮絶な口論を繰り広げます。二人の激しく生々しいやりとり(演技合戦)は確かに映画の吸引力になっています。
私は「ああ、この映画には、古き良きハリウッドとは違った60年代後半的なリアリズムが流れ込んでいるのだなあ」とか「でも、こういう路線だったらジョン・カサヴェテスの『フェイシズ』のほうがざらっとした肌触りがあってかっこいいかもなー」なんて思いながら観ておりました。油断していたわけです。
夫婦の口論からは、息子の存在が徐々に浮かび上がってきます。その息子は何らかの事情でいまは家におらず、そのことが夫婦の諍いの原因になっているらしい。でもその「事情」が具体的にどのようなものかは明らかにされず、断片的な情報の提示による「ほのめかし」があるのみ。
この展開を見て私は「ああ、この映画はその ”事情” の全貌の暴露がクライマックスに設定されていて、最終的には夫婦のトラウマ解消の物語になっていくのかな」とか「うーん、 ”トラウマの解消” って、映画やドラマのネタとしてはあんま興味ないんだよなー」なんて思っておりました。高を括っていたわけです。
ところがクライマックスに明らかになるのは「この夫婦には息子なんて最初からいなかった」という事実。夫婦は「存在しないもの」をめぐって壮絶な口論を繰り広げていたんですね。この展開には「え、なに、どういうこと?」とアワアワしてしまいました。それまでなんとなくこちらが想定していた「作品内リアリティ」がぐにゃりと歪む感覚。
そして怖いのは、その暴露のあとで、あれだけ激しくやりあっていた夫婦の口論が凪のようにパタリと止んでしまうことで、この静けさがもう鳥肌モノ。二人は「息子の存在」という「虚構」をベースにしてコミュニケーションをとっていたんだけど、その虚構性が暴かれると、コミュニケーションも途絶えてしまう。文脈違いかもしれないけど、『風の歌を聴け』の有名な一節が頭に浮かびました。
文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、文明は終る。パチン……OFF。
よく言われることだけど、世の中は虚構というかけっこうあやふやなモノの上に成り立っていて、たとえば「”時間” ってなに?」とか「”お金” ってなんで使えてるの?」とか「 ”コミュニケーション” って本当に成立してるんかな?」みたいな疑問を人類全員がマジにシリアスに受けとめようとしたら「世界の底は抜けている」という事実に直面して、おそらくは社会が成り立たなくなってしまいます。
だから、そこら辺を上手くぼやかしてくれるフィルターが「認識」にかかっていて、おかげで私も呑気に生きてるわけですけど、そのフィルターを外して、ほんとうは世界の底は抜けているよ…ということを突きつけてくる映画があります。このブログで感想を書いた作品だと、『クリーピー 偽りの隣人』(感想)とか『ゴーン・ガール』(感想 )とか。
そして、この『バージニア・ウルフなんかこわくない』も、そういった作品のひとつだと思いました。「息子の存在」の虚構性が暴かれて、パチン……OFFとコミュニケーションが途絶えたあとにむき出しになった「底が抜けた世界」を前に涙を流すエリザベス・テイラー、でも朝日は容赦なく昇ってくる…という残酷なラスト。こういうベクトルで「こわい」映画だとは思わなかったことですよ。あーびっくりした…。
『小林さんちのメイドラゴン』感想:イシュカン・ディスコミュニケーション
先日最終回が放映された『小林さんちのメイドラゴン』(公式サイト)。
あまりにも愛おしいアニメだったので完全にドラゴンロスになってしまい、春アニメに頭がうまく切り替えられない状態です。ずっと前から言われてることだけど、放映されるアニメが多すぎて、もうちょっとこう前クールの作品を咀嚼する時間ほしいですよね?まあ、自分で観る本数をセーブすればいいという話ではあるんだけど。
そんなわけで、ここのところ『メイドラゴン』を自分なりに咀嚼するべく、気負った長めの記事を書いてたんですが、かなり筆を進めたところで収集がつかないことに気付く…という頭の悪い失敗の仕方をしてしまいました。なのでそっちは諦めて、もうちょっとふわっとした感想を書きたいとおもいます。
ネタバレがありますのでご注意ください。
◯
『小林さんちのメイドラゴン』では、ドラゴンと人間に象徴される「異なるバックグラウンドをもつ者同士」が「相手のことをもっと知りたい」「自分のことをもっと相手に知ってほしい」という「異種間コミュニケーション」を図るんだけど、必ずしもそれが成功しない…というところがすごく好きでした。
たとえば第5話の、トールがスプーン曲げをマスターしようと奮闘するエピソード。あるいは第8話のお弁当対決で、小林さんがカンナの弁当のおかずにベーコンエッグを提案するシーン。これらはそれぞれ「小林さん、ひいては人間のことをもっと知りたい」「自分が子供のころに好きだった味を、カンナに食べて欲しい」という相互理解へのささやかな試みですが、双方ともあえなく頓挫してしまいます。
(第5話)
それで、このアニメは「それでもコミュニケーションへの努力を地道に続けたら、最後にはお互いわかり合うことができました」…という方向には必ずしも向かわないんですね。
これについては、ランゲージダイアリー・相羽さんの記事が素晴らしくて、私もこの記事を読んで「このアニメは ”コミュニケーションの不完全さ” をある程度受容していこう…という方向性をもった作品なのだなー」ということに気付かされたのでした。
小林さんちのメイドラゴン/感想/第10話「劇団ドラゴン、オンステージ! (劇団名あったんですね)」(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー
上の記事中で当ブログ感想記事への言及リンクをいただいていますが、「コミュニケーションの不完全さの受容」という意味では(京都アニメーションの近作でいえば)『映画 聲の形』と近いベクトルをもった作品なんですね。
第10話の「劇団ドラゴン」とお年寄りたちの「異種間コミュニケーション」のエピソード。演じる「劇団ドラゴン」はドラゴンと人間の混成部隊で、メンバーそれぞれが「自分の好きな物語」の要素を劇にぶちこんでいくものだから、お話がもうキメラ状態のひっちゃかめっちゃかなものになっています。まず「劇団ドラゴン」のメンバー間で、コミュニケーションのすれ違いが発生している。
そして、その劇の内容はお年寄りたちに誤解含みで伝わってしまう…ここでもコミュニケーションに「ズレ」が発生しているんだけど、でも、演じる側も観る側も、みんなすごく楽しそうなんですよね。相羽さんの記事にある通り、このエピソードをよく見ると、コミュニケーションは必ずすれ違う…という切なさを読み取ることができて、でもトータルでは「みんな笑顔ならいいよね」という暖かいトーンが出ている。
コミュニケーションにおいて、精度の高い相互理解の成立「だけ」を目標にすると、しんどくなってしまうことがあります。そういう「完全さ・純粋さ」への希求がおかしな方向にいくと、自分とは異なるバックグラウンドを持つ相手とのコミュニケーションの遮断、ひいては異質な他者の排除に向かいかねない。ピュアなものを求める生真面目さって、こじらせると危ないですよね。
それに対して『メイドラゴン』では「相手のことをきちんと理解したい・されたい」という気持ちは大事なものとして描きながら(相手のことを理解したいけどできない...というもどかしさとか、ときに発生する摩擦も含めて)、その一方で良い意味での「いい加減さ」というか、もうちょっと大らかな方向性もあっていいよね、というオファーもある感じがします。
最終回で、小林さんが(命賭けの?)決闘で白黒つけようとしていたトールとトールの父親に言った「ドラゴンってなんでそう…もっと折り合いつけてかないと物事って進まないじゃん!」というセリフにも、純粋なヴィクトリー・オア・ダイとかオール・オア・ナッシングばかりじゃない「いい加減さ」は大事でしょ?…という「調停者」小林さんの信念があらわれていました。
以前のエピソードでも、小林さんの「調停者」性は何度か描かれてましたよね。そういう意味では、小林さんは『たまこまーけっと』の北白川たまこ的な主人公です*1*2。
(左:『たまこまーけっと』第1話 右:『小林さんちのメイドラゴン』第3話)
クライマックスで描かれた、トールと小林さんの感動的なやりとり……「全部、全部あげます」「そんなにいらん」にも、上述したようなバランス感覚が表れているように思いました*3。
ナズナの花言葉に寄せて伝えられる「あなたに私の全てをささげます」という気持ちは尊いものとして描きながら、そのいっぽうで「どんなにお互い想いあう間柄でも、”全部” をあげたりもらったりすることはできんよ」みたいなニュアンスも感じられる。「そんなにいらん」というセリフを言った小林さんの心情説明的なシーンは一切ないので(いいよね!)、ここはほんと見る側の解釈なのですが。
小林さんとトールのどっちが「正しい」ということではなくて、二人あわせて作品全体のトーンが形作られているという話ですね。
ラスト、小林さんが、トール・カンナとともに実家に向かうシーン(「家族」の形成)で、トールは小林さんと自分たちドラゴンのあいだの寿命差に思いを巡らせますが、その寂しさは小林さんと完全には共有できません(ここは、第11話で年が明ける直前に小林さんが何気なく「あっという間だなー、時が経つのは」と言ったときに、トールが一瞬だけ寂しそうな表情を見せるシーンを想起させます。ここでも、小林さんはトールの気持ちに気付きません)。
そんな風に、すべてを共有することは不可能なドラゴンと人間が(人間同士の関係もそうだけど)見方によってはお互いに孤独なままに、それでも一瞬のあいだだけ「家族」として共に歩いている…という忘れ難いラストシーンでした。黒沢清の『回路』*4で大泣きしてしまう人間なので、こういうのには弱いです。ほんと良いアニメだった…。
*1:「京都アニメーションの作品はぜんぶ、テーマ的にどこかしら関連があるよ」みたいな記事を書いたことがあるのですが(『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点)『メイドラゴン』についていえば、ドラゴンと人間の種族差、人間とドラゴンが対立する異世界の存在の設定によって「いまある ”日常” は自明のものではない」…という「メタ日常系」的な視点が導入されている、という点では『たまこまーけっと』からのテーマの流入が(北白川たまこの孤独と、その解消 )、いっぽうで「コミュニケーションの不完全さと孤独を受け入れる」という要素には『映画 聲の形』(感想① 感想②)からのテーマが流入している作品だったなー、と思いました。
*2:北白川たまこの「調停者」性について→ 『たまこまーけっと』を振り返る 第1話
*3:原作マンガにもまったく同じやりとりがありますが、そこに至るまでのストーリーやシーンの組み立て方(文脈)が異なるので、セリフのニュアンスにも変化がみられます。
*4:「異種間の寿命差」とかで泣かせるのはあざとい…と基本的には身構えてしまう方だけど、『メイドラゴン』みたいに、根本的には「孤独」は解消できないことをきちんとふまえてやられると弱い(その要素で強引に泣かせようとはしてないし)。『回路』については、同じく黒沢清監督の『トウキョウソナタ』の感想 のなかでちょっと触れています。田中ロミオの『CROSS†CHANNEL』にも影響を与えたはずだ!…と勝手に確信している(証拠はない)名作です。