ねざめ堂

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『小林さんちのメイドラゴン』感想:イシュカン・ディスコミュニケーション

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 先日最終回が放映された『小林さんちのメイドラゴン』(公式サイト)。

 あまりにも愛おしいアニメだったので完全にドラゴンロスになってしまい、春アニメに頭がうまく切り替えられない状態です。ずっと前から言われてることだけど、放映されるアニメが多すぎて、もうちょっとこう前クールの作品を咀嚼する時間ほしいですよね?まあ、自分で観る本数をセーブすればいいという話ではあるんだけど。

 そんなわけで、ここのところ『メイドラゴン』を自分なりに咀嚼するべく、気負った長めの記事を書いてたんですが、かなり筆を進めたところで収集がつかないことに気付く…という頭の悪い失敗の仕方をしてしまいました。なのでそっちは諦めて、もうちょっとふわっとした感想を書きたいとおもいます。

 ネタバレがありますのでご注意ください。

                     ◯

 『小林さんちのメイドラゴン』では、ドラゴンと人間に象徴される「異なるバックグラウンドをもつ者同士」が「相手のことをもっと知りたい」「自分のことをもっと相手に知ってほしい」という「異種間コミュニケーション」を図るんだけど、必ずしもそれが成功しない…というところがすごく好きでした。

 たとえば第5話の、トールがスプーン曲げをマスターしようと奮闘するエピソード。あるいは第8話のお弁当対決で、小林さんがカンナの弁当のおかずにベーコンエッグを提案するシーン。これらはそれぞれ「小林さん、ひいては人間のことをもっと知りたい」「自分が子供のころに好きだった味を、カンナに食べて欲しい」という相互理解へのささやかな試みですが、双方ともあえなく頓挫してしまいます。

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(第5話)

 それで、このアニメは「それでもコミュニケーションへの努力を地道に続けたら、最後にはお互いわかり合うことができました」…という方向には必ずしも向かわないんですね。

 これについては、ランゲージダイアリー・相羽さんの記事が素晴らしくて、私もこの記事を読んで「このアニメは ”コミュニケーションの不完全さ” をある程度受容していこう…という方向性をもった作品なのだなー」ということに気付かされたのでした。

 

小林さんちのメイドラゴン/感想/第10話「劇団ドラゴン、オンステージ! (劇団名あったんですね)」(ネタバレ注意):ランゲージダイアリー

 

 上の記事中で当ブログ感想記事への言及リンクをいただいていますが、「コミュニケーションの不完全さの受容」という意味では(京都アニメーションの近作でいえば)『映画 聲の形』と近いベクトルをもった作品なんですね。

 第10話の「劇団ドラゴン」とお年寄りたちの「異種間コミュニケーション」のエピソード。演じる「劇団ドラゴン」はドラゴンと人間の混成部隊で、メンバーそれぞれが「自分の好きな物語」の要素を劇にぶちこんでいくものだから、お話がもうキメラ状態のひっちゃかめっちゃかなものになっています。まず「劇団ドラゴン」のメンバー間で、コミュニケーションのすれ違いが発生している。

 そして、その劇の内容はお年寄りたちに誤解含みで伝わってしまう…ここでもコミュニケーションに「ズレ」が発生しているんだけど、でも、演じる側も観る側も、みんなすごく楽しそうなんですよね。相羽さんの記事にある通り、このエピソードをよく見ると、コミュニケーションは必ずすれ違う…という切なさを読み取ることができて、でもトータルでは「みんな笑顔ならいいよね」という暖かいトーンが出ている。

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 コミュニケーションにおいて、精度の高い相互理解の成立「だけ」を目標にすると、しんどくなってしまうことがあります。そういう「完全さ・純粋さ」への希求がおかしな方向にいくと、自分とは異なるバックグラウンドを持つ相手とのコミュニケーションの遮断、ひいては異質な他者の排除に向かいかねない。ピュアなものを求める生真面目さって、こじらせると危ないですよね。

 それに対して『メイドラゴン』では「相手のことをきちんと理解したい・されたい」という気持ちは大事なものとして描きながら(相手のことを理解したいけどできない...というもどかしさとか、ときに発生する摩擦も含めて)、その一方で良い意味での「いい加減さ」というか、もうちょっと大らかな方向性もあっていいよね、というオファーもある感じがします。

 最終回で、小林さんが(命賭けの?)決闘で白黒つけようとしていたトールトール父親に言った「ドラゴンってなんでそう…もっと折り合いつけてかないと物事って進まないじゃん!」というセリフにも、純粋なヴィクトリー・オア・ダイとかオール・オア・ナッシングばかりじゃない「いい加減さ」は大事でしょ?…という「調停者」小林さんの信念があらわれていました。

 以前のエピソードでも、小林さんの「調停者」性は何度か描かれてましたよね。そういう意味では、小林さんは『たまこまーけっと』の北白川たまこ的な主人公です*1*2

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(左:『たまこまーけっと』第1話 右:『小林さんちのメイドラゴン』第3話)

 クライマックスで描かれた、トールと小林さんの感動的なやりとり……「全部、全部あげます」「そんなにいらん」にも、上述したようなバランス感覚が表れているように思いました*3

 ナズナ花言葉に寄せて伝えられる「あなたに私の全てをささげます」という気持ちは尊いものとして描きながら、そのいっぽうで「どんなにお互い想いあう間柄でも、”全部” をあげたりもらったりすることはできんよ」みたいなニュアンスも感じられる。「そんなにいらん」というセリフを言った小林さんの心情説明的なシーンは一切ないので(いいよね!)、ここはほんと見る側の解釈なのですが。

 小林さんとトールのどっちが「正しい」ということではなくて、二人あわせて作品全体のトーンが形作られているという話ですね。

 ラスト、小林さんが、トール・カンナとともに実家に向かうシーン(「家族」の形成)で、トールは小林さんと自分たちドラゴンのあいだの寿命差に思いを巡らせますが、その寂しさは小林さんと完全には共有できません(ここは、第11話で年が明ける直前に小林さんが何気なく「あっという間だなー、時が経つのは」と言ったときに、トールが一瞬だけ寂しそうな表情を見せるシーンを想起させます。ここでも、小林さんはトールの気持ちに気付きません)。

 そんな風に、すべてを共有することは不可能なドラゴンと人間が(人間同士の関係もそうだけど)見方によってはお互いに孤独なままに、それでも一瞬のあいだだけ「家族」として共に歩いている…という忘れ難いラストシーンでした。黒沢清の『回路』*4で大泣きしてしまう人間なので、こういうのには弱いです。ほんと良いアニメだった…。

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*1:京都アニメーションの作品はぜんぶ、テーマ的にどこかしら関連があるよ」みたいな記事を書いたことがあるのですが(『無彩限のファントム・ワールド』と、10年代京アニの現在地点)『メイドラゴン』についていえば、ドラゴンと人間の種族差、人間とドラゴンが対立する異世界の存在の設定によって「いまある ”日常” は自明のものではない」…という「メタ日常系」的な視点が導入されている、という点では『たまこまーけっと』からのテーマの流入が(北白川たまこの孤独と、その解消 )、いっぽうで「コミュニケーションの不完全さと孤独を受け入れる」という要素には『映画 聲の形』(感想①   感想②)からのテーマが流入している作品だったなー、と思いました。

*2:北白川たまこの「調停者」性について→ 『たまこまーけっと』を振り返る 第1話 

*3:原作マンガにもまったく同じやりとりがありますが、そこに至るまでのストーリーやシーンの組み立て方(文脈)が異なるので、セリフのニュアンスにも変化がみられます。

*4:「異種間の寿命差」とかで泣かせるのはあざとい…と基本的には身構えてしまう方だけど、『メイドラゴン』みたいに、根本的には「孤独」は解消できないことをきちんとふまえてやられると弱い(その要素で強引に泣かせようとはしてないし)。『回路』については、同じく黒沢清監督の『トウキョウソナタ』の感想 のなかでちょっと触れています。田中ロミオの『CROSS†CHANNEL』にも影響を与えたはずだ!…と勝手に確信している(証拠はない)名作です。

『けものフレンズ』感想:人類の夜明けぜよ。

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 正直なところ、第11話まではずーっと「なんでここまで人気なんかな?」と首を傾げながら視聴しておりました『けものフレンズ』(公式サイト)。

 面白さに惹かれてというより、自分には魅力が理解できない人気作を「でも視野を狭めたらアカンよな」という動機で「社会見学」として観ていた感じだったのです(たまにそういうことをやる)。

 でも、最終回!あれで自分がいままで抱いていた『けものフレンズ』への認識が見事にひっくり返されて「ようこそジャパリパークへ!」状態に(おっそい入園だな)。ほんと良い最終回だったね…。

 というわけで、にわかのフレンズによるシリーズ全体の簡単な感想です。さまざまなメディアミックスがなされ、作品ごとに少しずつ設定が異なる『けものフレンズプロジェクト』ですが、当記事はアニメ版の設定・ストーリーを対象にしています。ネタバレがありますのでご注意ください。

 

◯サンドスターとセルリアン

 考察が捗るさまざまなネタが仕掛けられた『けものフレンズ』の作品世界ですが、なかでも大きな仕掛けは「サンドスター」と「セルリアン」。このうち「サンドスター」は接触した動物を「フレンズ化」。いっぽう「サンドスター・ロー」が無機物に接触することで発生する「セルリアン」は、フレンズを本来の動物の姿に戻す…という役割を担っていました。

 サンドスターによるフレンズ化は、「人間化・文明化」作用です。フレンズ化した動物たちは、言葉を話し、簡単な絵文字を解し、ジャパリまんという「加工食品」を主食にすることで自然本来の捕食ー被食関係から脱却し、平和に共存する*1。そのような進化をもたらすという意味では、サンドスターは『2001年宇宙の旅』のモノリスをちょっと連想させる物質です。

 いっぽう、セルリアンが果たしているのは「人間化・文明化」の解除、「自然状態へのリセット」作用。フレンズを吸収して本来の動物の姿に戻していくという、自然界にはないものを打ち消していく存在です。

 人間やフレンズたちの立場から見れば、セルリアンは「敵」「災厄」で、実際過去に人間はサンドスター・ローをフィルタリングして、セルリアンの発生を抑えようとしたようです。でももうちょっと視点を引いて、作品世界全体で捉えると、サンドスターとサンドスター・ロー(≒ セルリアン)はセットで「明と暗」「陰と陽」のような「対」を形成しています。『もののけ姫』のシシ神が生命を与え/奪うように、サンドスターとセルリアンは文明を与え/奪う。

 このような世界設計のもと、「さばんなちほー」に「ヒトのフレンズ」として誕生したかばんは、サーバルとともに人類の文明の創造過程を追体験する旅に出、その道程をとおして「ヒトらしさ」を獲得していきます。

 

◯かばんとピノキオ

 第11話、身を呈してサーバルを救った結果セルリアンに取り込まれた彼女は、「ヒトのフレンズ」から「ヒト」への変化を遂げます。

 これは「出来事」としては、かばんの正体が判明した…ということですが、同時に物語上の「意味」としては、人間的な価値観に基づく行動をとったことで、かばんがセルリアンの体内で「死と再生」を経て「本物の人間」になった…というシーンだったようにおもいます*2*3

 このあたりは『ピノキオ』のクライマックスがベースになっているのかもしれません。木彫りの人形・ピノキオが、ゼペットじいさんをかばった結果死んでしまうけれど、その人間的な行動を讃えたブルー・フェアリーの力によって「人間の子供」として蘇る。「ヒトのフレンズ」から「ヒト」になったかばんには身体的な変化はみられないけれど、彼女のなかでは「自分が何者なのか」というアイデンティティーが確立されています。

 (最終回のラスト、かばんはミライの所持品だった帽子を脱いでいますが、これは元々はミライの「クローン」のようなものとして誕生した彼女が「かばん」としての「個」を確立した...という表現にもとれる感じでした。)

 かばんのそのような行動は、周囲のフレンズたちにも影響します。第1話で「ジャパリパークの掟は、自分の力で生きること。自分の身は自分で守るんですのよ」と「自然の摂理」を説いていたカバは、最終話では「本当に辛いときは、誰かを頼ったっていいのよ」と、人間的な助け合いの価値を認めています。

 ただし作中では、ヒトのみせる「人間らしさ」の価値がひたすら掲揚されているだけではありません。ジャパリパークから人間が避難し、放置され荒れ果てたパークにフレンズたちが取り残されている…という不穏な作品の設定からは、自然災害や原発事故などで発生した避難区域内に、動物が取り残された状況をうっすらと連想させます*4

 

◯あらたな人類

 サンドスターとセルリアンが「対」で全体を形成するように、この作品では「文明」「人間らしさ」と「自然」は分ち難いものとして存在しており、二項対立的には描かれていません(「言葉を喋り、捕食ー被食関係から脱却した、でも野性の特徴をとどめたフレンズたち」の存在自体が、両者の混合物です)*5

 最終回、かばんが海のむこうに向けて出航するラストシーンは、未知のフロンティアに踏み出さずにはおれない「人間」の可能性を映し出して美しかったし、その傍らに「動物」としての野性を留めたサーバルの姿があるのも嬉しかったです。はたしてジャパリパークの外側に人間は住んでいるのか、あるいは、行き過ぎた文明が自壊したあとの荒廃が待ち構えているのか。

 もし後者だったとしても、「文明」や「人間らしさ」というものを少しずつ再検証するように(空のかばんに荷物を詰め直すような慎重さをもって)、フレンズたちの野性の力も借りながら歩みを進めてきた「あらたな人類」であるかばんなら再出発できるはず。まるで、一生のうち数度しか拝めないような見事な初日の出を眺めているみたいな、晴れやかな気持ち。掛け値無しに素晴らしいラストシーンでした。

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*1:もともとは肉食獣であるサーバルとかばんが最初に交わした会話は「食べないでください!」「食べないよ!」で、これは自然の摂理には反していますよね。

*2:ときには野性動物も身を呈して仲間を助けたりすることがあるようですが、それはさておき。

*3:追記:リアルの非常時にどのような行動を取れば「人間的な価値観」に基づいているといえるのか...という話じゃなくて(そんなのわかるわけない)、あくまで物語上のイニシエーションについての話です。

*4:パークでは「ジャパリまん」の供給は止まっていないので(どういう仕組みなんだろう?)食料の心配はないようですが。

*5:もちろん「人間はゼロから何かを生み出すことは不可能で、どんなに "人工的" な物でも、結局は自然に手を加えたものなのだから自然の一部である(たとえそれが一時的には自然を壊すようなものであっても)」という見方は可能です。

『クズの本懐』感想(前編):代替可能な恋愛関係

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 現在ノイタミナ枠で放映中のアニメ『クズの本懐』(公式サイト)。

 昼ドラばりの扇情的なエロ展開を連発しているようでいて、根っこの部分では青春ものの王道テーマをきっちりとふまえた良作で、毎週楽しく観ております。花火ちゃん愚かわいい。

 この記事は、原作マンガ・実写ドラマ版は未見状態での、アニメ第1話~第6話までの感想です。1万字近くあるので、お時間のあるときにのんびりと読んでいただけると嬉しいです。

 ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

◯代替可能な恋愛関係

 『クズの本懐』は、普通は「かけがえのない=代替不可能」なものである、とされている恋愛関係を「かけがえのある=代替可能」なものとして扱う…という点がフックになっている作品ですよね。

 この「恋愛関係の代替可能性」は、第1話冒頭から、ヒロイン・花火のモノローグによって明示されます。

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「私たちは付き合っている。でも、お互いがお互いの、かけがえのある、恋人」

 花火も、そしてパートナーの麦もそれぞれに「本命」の相手が別にいて、でもその相手には手が届かないので、寂しさを埋めあわせるための「代わり」としてお互いを利用している。そういう契約関係としての「恋人(仮)」。

 なので、キスやペッティングをしているときも、お互いの頭のなかに思い浮かべるのは「本命」の姿。あくまで「本命」がいるうえでの(仮)の恋人なので、花火にとっては相手は麦じゃなくてもいい、麦にとっても相手が花火である必然性はない…ということで、花火は自分に想いを寄せる早苗と、麦は中学時代のセフレとそれぞれ寝たりもする。

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 かけがえのない「本命」がいて、それ以外の人間は本命の「代わり」でしかない。ゆえに「代わり」の人間たちはすべて等価で、代替が可能…という関係性。

 花火にとって本命の「お兄ちゃん(鐘井先生)」がどれだけ「かけがえのない」存在であるかは、第1話で告白してきた相手を花火が振ったときのセリフにも表れていました。

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「興味のない人から向けられる好意ほど、気持ちの悪いものってないでしょう?」

  お兄ちゃん以外からの好意なんてキモいだけだからいらん、と。

 このセリフは、幼いころから鐘井に好意を向け続ける自分にもブーメランとして帰ってきてしまうんですがそれはともかく、ここに表れているのは花火の純粋さ・潔癖さです。

 「本命」への気持ちが一途すぎるがゆえに、その感情を持て余してこじらせた結果として「代替可能な恋愛関係」という泥沼に足を踏みいれてしまった花火。このアニメのキャッチコピーは「私たちはまっすぐに、歪んでいく。」ですけど、まさにそういう感じです*1

*1:花火に恋愛相談を持ちかけてきたクラスメイトたちが、スペックを基準に二股中の彼氏を「どっちがいいかな~」と悪意なくナチュラルに比較するシーンがありましたが(その彼氏のほうも彼女に同じようなことをしている)、「普通」っぽいこの子たちに比べたら「クズ」の自覚をもって歪んでいく花火たちはほんとまっすぐに見えます。

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