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『3月のライオン』(アニメ版)感想①:「競争」と「共同体」のバランスゲーム

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 NHK総合で毎週土曜日に放映中のアニメ『3月のライオン』(公式サイト)。

 じつは私はまだ羽海野チカの原作を読んでいないのですが(『ハチミツとクローバー』は大好きだったので、こちらもそのうちまとめ読みしたい)、数々の賞を受賞し大ヒット、今春には実写映画2部作の公開も控えるなど、とても注目度の高いタイトルですね。

 アニメ版は全22話予定で、先日放映された第12話からすでに後半戦に突入していますが、この記事は昨年末まで放映された前半分・第1話~第11話までについての感想です。ネタバレがありますのでご注意ください。

 

◯三月町(暖かな共同体の世界)と六月町(孤独な競争の世界)

 物語の主人公・桐山零が暮らす「六月町」と、ヒロイン・川本三姉妹の住む「三月町」。

 零が、橋でつながったふたつの町(世界)を行き来することで『3月のライオン』のストーリーは動いていきます。「六月町」は、冷え冷えとした孤独感が漂うモノクロームの世界。いっぽう「三月町」は、暖かく賑やかでカラフルな世界。

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 このふたつの町が、それぞれ「人と人との繋がりのある世界」と「孤独な勝負の世界」を表している…というのは、これは見たままですよね。

・三月町=(広義の)共同体の世界
・六月町= 勝負・競争の孤独な世界

という対照関係。

 

◯家庭への競争原理の介入

 零は幼いころに交通事故で家族を亡くし、父の友人で、プロ棋士である幸田の家に内弟子としてひきとられました。やがて将棋の才能を開花させた零は、幸田からの愛情を幸田の実子よりも受けるようになり、しだいに家庭はギクシャクしていく。

 やがてそのギクシャクした雰囲気と「自分が幸田家を壊した」という罪悪感に耐えられなくなった零は中学卒業後に独立、六月町で一人暮らしをはじめた…と、ここまでがアニメ第1話開始前までの『3月のライオン』のプレ・ストーリーでした。

 零が将棋をはじめたそもそものきっかけは、生前の実父が趣味でやっていた将棋の相手をつとめたい、という気持ちから。

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「将棋は苦手だったけれど、忙しい父と一緒に過ごせる大事な時間だったから、一生懸命がんばってた」(第5話)

 

 零が将棋をはじめた動機の根っこには「父親と繋がりたい」という欲求があったんですね。人と人とを繋げる、コミュニケーションツールとしての将棋。これは、二海堂が川本姉妹に将棋を教える幸福なシーンでも表現されていました。

 そして内弟子に入った幸田家でも、零は将棋の腕前によって養父からの愛情をうけることになるんですが、でもそのことが、幸田家に軋轢をひき起してしまいます。

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「養父は将棋を愛していた。良くも悪くも、全てが将棋中心だった。だから彼を愛するものは、強くなるしかなかった。彼の視界に入り続けるために」(第5話)

 

 血の繋がりの有無に関係なく、もっとも将棋が強くなった子供に愛情が注がれ、それ以外の子供たちには関心が向けられなくなる…という、父親からの愛情をめぐるゼロサムゲーム

 これは、家族という「共同体」にネオリベ的価値観、「勝ち負けが全て」という競争原理が介入してきた状態です。

 「全てが将棋中心」な幸田の関心が、将棋の才能を開花させた零に向けられた結果として、実子たちへの関心が薄くなっていることは、子供達へのクリスマスプレゼントのチョイスにも露骨にあらわれていました。

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 そして零は、将棋の「勝負」に勝って養父の関心と愛情を勝ち取ることによって、逆に幸田家という「共同体」から自らを追放せざるを得ないというポイントまで追いつめられてしまう。その結果彼がたどり着いたのが、六月町の、あの冷え冷えとしたマンションの一室でした。

 そもそも零は「人との繋がり」を求めて将棋をはじめたのに、自分が将棋の勝負(競争)に勝つ事が、人と人との繋がり(共同体)を破壊してしまい、自らも孤独に落ちていく。『3月のライオン』の根底にあるのは、このような「競争と共同体の相克」というテーマです。

 人が「個」として自らの勝利や進歩を追求すること(それ自体はもちろん良いことです)と、そうした「個」の集まりとしての「共同体」(これもまた、人間の生存には必要不可欠)とがなかなか相容れない…という難しさ。

 この作中の二大要素…「競争」と「共同体」をそれぞれ代表しているのが、六月町と三月町です。

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『ゴーン・ガール』感想  ~「外面」が勝利する世界

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 デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』(2014年)の感想です。この映画については、公開当時に記事を書いたんですけど↓

軟着陸は可能か? ~『ゴーン・ガール』感想

 今回の文章は、そのときボツにしたバージョンです(さいきん文書フォルダを整理していて発掘)。いくら趣味でやってるブログとはいえそんなもん載せるなよな、という感じもするんですけど、読み返してみたらこっちのバージョンも捨て難い気がしてきたので。

 前回の記事が作品全体を網羅しようとジタバタしているのにたいして、こちらはテーマを一つに絞ってできるだけスッキリ書こうとがんばってる感じです。ネタバレがありますのでご了承ください。

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『がっこうぐらし!』感想 ~丈槍由紀と「かれら」の失楽園

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 アニメ版『がっこうぐらし!』の感想です。この作品については、リアルタイム放映時(2015年秋)にも記事を書いていたんですが↓

丈槍由紀は堕天する、のか? ~『がっこうぐらし!』雑感  

丈槍由紀の(半)堕天 ~『がっこうぐらし!』雑感 その② 

 今回はあらためてのまとまった感想です。リンク先の記事と重複する個所がある点、作品のネタバレを含む点をご了承ください。


◯ベタな「メタ日常系」としての『がっこうぐらし!

 『がっこうぐらし!』の舞台となるのは、地上がゾンビたち(作中での呼称は「かれら」)に覆われ、それまでの「日常」が崩壊した世界。そんな中、平穏な「日常」がまだ続いている…という妄想のなかに生きる主人公・丈槍由紀

 このキャッチーな設定に表れているように、『がっこうぐらし!』は非常に明快な「メタ日常系」作品である…と(とりあえずは)いえます。由紀の妄想のなかの「平穏な日常( ≒ 日常系まんが・アニメ的世界)」の外側を「過酷な現実」がとりまいている、という世界設定。

 

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 無自覚に「日常系ごっこ」というゲームをプレーする由紀*1と、彼女がその「ごっこ遊び」の世界に浸っていられるように、周囲から支える「学園生活部」のメンバーたち(「学園生活部」という名称も、毎日の生活を「部活動」として対象化・メタ化…「ごっこ遊び化」したネーミング)。

 この構図は「日常系作品のファン(由紀)と、日常系作品の作り手(学園生活部)」の関係を表しているようにも、あるいは「日常系作品そのもの(由紀)と、日常系作品の作り手・ファン(学園生活部)」の関係を表しているようにも、いろいろに受けとれます。いずれにせよ「日常系」のほんわかとした世界と、その外側の過酷な現実世界の双方が『がっこうぐらし!』というひとつの作品のなかに構造化されて収まっている。

 『がっこうぐらし!』の原作マンガは2012年夏から連載がスタートしており、2011年の震災がこの作品のメタ構造に幾分かの影響をおよぼしている…と想定するのはそれほど無理のないところだと思うのですが*2、ここで連想されるのは、2013年の1月から放映されたアニメ『たまこまーけっと』です。

 「日常系」の大ヒット作『けいおん!』を送りだした京都アニメーションが制作した「メタ日常系アニメ」*3

 

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 上の図は「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』 という記事に載せたものですが、『たまこまーけっと』の作品世界も「うさぎ山商店街=日常系アニメ的世界」と「その外側=ややリアル寄りの世界」の二層構造になっています。

 作品は基本的には日常系的世界の「内側」の良さを描きながらも、ときおりそこに「外側」から批評的なツッコミが入るという「メタ日常系」アニメ。

 ただし『たまこまーけっと』ではそのメタ構造がさりげなく仕込まれているのにたいして、『がっこうぐらし!』では「売り」として前面に押しだされて、「日常系的想像力(妄想力)」と「過酷な現実」とのあいだの緊張関係が強調されている。そういう意味で、より明快な(ベタな)「メタ日常系」作品になっています。

 

丈槍由紀の天使性

 ゾンビまみれの「過酷な現実」から目を背け、想像のなかの「平穏な日常」に逃避しているように見える主人公・由紀。

 ...と書くとなんだか全面的に悪い印象がありますけど、由紀は、想像の世界に生きているからこそ過酷な現実のなかでも天真爛漫にふるまうことができており、彼女の明るさは「学園生活部」のメンバーたちの精神的な支えになっている側面もある…という両義的な描かれ方がなされています。

 そのような由紀の明るさの根拠となっている現実とのコミットの薄さ…Keyの美少女ゲームKanon』のメインヒロイン・月宮あゆとの共通点(天使性)については、以前の「丈槍由紀は堕天する、のか? 」という記事にも書きました。

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※両ヒロインに共通するアイテム:耳つき帽子&羽根つきリュック(月宮あゆの画像は2006年アニメ化の際の京都アニメーション版)

*1:由紀は意識の深層では現実を認識できているけれど、自己防衛的に「日常系ごっこ」を続けている…みたいに受けとれる描写もありますが(めぐねえの存在とか)、ここでは「すくなくとも意識の表層では現実を認識しておらず、その意味において ”無自覚” に日常系ごっこを続けている」という見方を重視します。

*2:もっとも、震災がなくてもいずれは出て来たタイプの企画だとも思います。

*3:たまこまーけっと』については記事を書きすぎてるのですが、この記事が比較的「総論」っぽい体裁なので読んでいただけると嬉しいです。→『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」 

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