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ねざめ堂

アニメ・映画・音楽

『ゴーン・ガール』感想  ~「外面」が勝利する世界

デヴィッド・フィンチャー 映画

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 デヴィッド・フィンチャー監督『ゴーン・ガール』(2014年)の感想です。この映画については、公開当時に記事を書いたんですけど↓

軟着陸は可能か? ~『ゴーン・ガール』感想

 今回の文章は、そのときボツにしたバージョンです(さいきん文書フォルダを整理していて発掘)。いくら趣味でやってるブログとはいえそんなもん載せるなよな、という感じもするんですけど、読み返してみたらこっちのバージョンも捨て難い気がしてきたので。

 前回の記事が作品全体を網羅しようとジタバタしているのにたいして、こちらはテーマを一つに絞ってできるだけスッキリ書こうとがんばってる感じです。ネタバレがありますのでご了承ください。

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『がっこうぐらし!』感想 ~丈槍由紀と「かれら」の失楽園

がっこうぐらし! 「日常系」について アニメ

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 アニメ版『がっこうぐらし!』の感想です。この作品については、リアルタイム放映時(2015年秋)にも記事を書いていたんですが↓

丈槍由紀は堕天する、のか? ~『がっこうぐらし!』雑感  

丈槍由紀の(半)堕天 ~『がっこうぐらし!』雑感 その② 

 今回はあらためてのまとまった感想です。リンク先の記事と重複する個所がある点、作品のネタバレを含む点をご了承ください。


◯ベタな「メタ日常系」としての『がっこうぐらし!

 『がっこうぐらし!』の舞台となるのは、地上がゾンビたち(作中での呼称は「かれら」)に覆われ、それまでの「日常」が崩壊した世界。そんな中、平穏な「日常」がまだ続いている…という妄想のなかに生きる主人公・丈槍由紀

 このキャッチーな設定に表れているように、『がっこうぐらし!』は非常に明快な「メタ日常系」作品である…と(とりあえずは)いえます。由紀の妄想のなかの「平穏な日常( ≒ 日常系まんが・アニメ的世界)」の外側を「過酷な現実」がとりまいている、という世界設定。

 

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 無自覚に「日常系ごっこ」というゲームをプレーする由紀*1と、彼女がその「ごっこ遊び」の世界に浸っていられるように、周囲から支える「学園生活部」のメンバーたち(「学園生活部」という名称も、毎日の生活を「部活動」として対象化・メタ化…「ごっこ遊び化」したネーミング)。

 この構図は「日常系作品のファン(由紀)と、日常系作品の作り手(学園生活部)」の関係を表しているようにも、あるいは「日常系作品そのもの(由紀)と、日常系作品の作り手・ファン(学園生活部)」の関係を表しているようにも、いろいろに受けとれます。いずれにせよ「日常系」のほんわかとした世界と、その外側の過酷な現実世界の双方が『がっこうぐらし!』というひとつの作品のなかに構造化されて収まっている。

 『がっこうぐらし!』の原作マンガは2012年夏から連載がスタートしており、2011年の震災がこの作品のメタ構造に幾分かの影響をおよぼしている…と想定するのはそれほど無理のないところだと思うのですが*2、ここで連想されるのは、2013年の1月から放映されたアニメ『たまこまーけっと』です。

 「日常系」の大ヒット作『けいおん!』を送りだした京都アニメーションが制作した「メタ日常系アニメ」*3

 

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 上の図は「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』 という記事に載せたものですが、『たまこまーけっと』の作品世界も「うさぎ山商店街=日常系アニメ的世界」と「その外側=ややリアル寄りの世界」の二層構造になっています。

 作品は基本的には日常系的世界の「内側」の良さを描きながらも、ときおりそこに「外側」から批評的なツッコミが入るという「メタ日常系」アニメ。

 ただし『たまこまーけっと』ではそのメタ構造がさりげなく仕込まれているのにたいして、『がっこうぐらし!』では「売り」として前面に押しだされて、「日常系的想像力(妄想力)」と「過酷な現実」とのあいだの緊張関係が強調されている。そういう意味で、より明快な(ベタな)「メタ日常系」作品になっています。

 

丈槍由紀の天使性

 ゾンビまみれの「過酷な現実」から目を背け、想像のなかの「平穏な日常」に逃避しているように見える主人公・由紀。

 ...と書くとなんだか全面的に悪い印象がありますけど、由紀は、想像の世界に生きているからこそ過酷な現実のなかでも天真爛漫にふるまうことができており、彼女の明るさは「学園生活部」のメンバーたちの精神的な支えになっている側面もある…という両義的な描かれ方がなされています。

 そのような由紀の明るさの根拠となっている現実とのコミットの薄さ…Keyの美少女ゲームKanon』のメインヒロイン・月宮あゆとの共通点(天使性)については、以前の「丈槍由紀は堕天する、のか? 」という記事にも書きました。

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※両ヒロインに共通するアイテム:耳つき帽子&羽根つきリュック(月宮あゆの画像は2006年アニメ化の際の京都アニメーション版)

*1:由紀は意識の深層では現実を認識できているけれど、自己防衛的に「日常系ごっこ」を続けている…みたいに受けとれる描写もありますが(めぐねえの存在とか)、ここでは「すくなくとも意識の表層では現実を認識しておらず、その意味において ”無自覚” に日常系ごっこを続けている」という見方を重視します。

*2:もっとも、震災がなくてもいずれは出て来たタイプの企画だとも思います。

*3:たまこまーけっと』については記事を書きすぎてるのですが、この記事が比較的「総論」っぽい体裁なので読んでいただけると嬉しいです。→『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」 

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『淵に立つ』の浅野忠信をみて考えたこと

浅野忠信 映画

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 『淵に立つ』(公式サイト)を観た。素晴らしかった。「夫婦や親子といってもやっぱり理解しあえない他人同士だし、そういう人たちがなんか一緒に暮らしてる家族って不思議」という映画で、でも「しょせんは家族なんて」みたいな幼稚な露悪趣味は感じさせず、えぐいストーリーに反して語り口はどこまでもフラットで、だからこそ余計にイヤーな感じが立ちあがってくる…というバランス感覚が素敵な映画だった。

 『クリーピー』(感想 )といい『聲の形』(感想1)(感想2)といい、心ある作り手たちが「まずはキサマの孤独を直視しろ。話はそれからだ」という誠実な作品を送りだしている2016年だが、『淵に立つ』もそのような流れに属する1本といえるだろう。まあほんとはそんな「流れ」なんかなくて、私がその手の映画に勝手に反応してるだけなんだけど。

 リンク先は、素晴らしい発言連発の監督インタビュー。記事のタイトルにピンときた人はぜひ観にいくと良いことですよ。

現代の人間観で重要なのは、自分自身が本音を話しているつもりでも果たしてそうなのか。それは自分自身でも分かる訳ないじゃないかという世界観が好きなのです。だから僕は、登場人物の本音が良くわかる映画は前時代的映画だと思ってしまいます。

観客にとって共感できる映画より「共感できない他者」でありたい。 『淵に立つ』深田晃司監督インタビュー 

 ところで、これは色々な人が言及していることなので今更感があるけどやっぱり書くと、この映画の浅野忠信が尋常ではなく凄い。浅野忠信はいつも凄いが、とくに今回は黒沢清がコメントしているように「底知れない役を演じる浅野忠信の決定打」で、どうしてこの人はこんなに「底知れない役」がハマるのかと考えてみたのだが、一番はやはりあの切れ長の目なのだと思う。

 そもそも「底知れない役」を演じる俳優が、メソッド・アクティング的に「底知れない人物」になりきる…ということはあり得ない。「底知れない人物」とは、その感情の動きや行動原理の「底が知れない人物」であって、それを演じる俳優が「ここで彼 / 彼女の気持ちはこのように動いている」「こういうトラウマがあるから、このように行動する」ということを把握してしまったら、そのキャラクターはもう「底知れない人物」ではない。そのような「理解」や「共感」や「同化」が不可能だから「底が知れない」のだ。

 『羊たちの沈黙』で、アンソニー・ホプキンズがどういう役作りのうえでレクター博士を演じたのかは知らないが(ホプキンズはメソッド・アクティングを批判している)、あの映画のレクターはたしかに、行動原理も心の動きも、常人には理解不能の「底知れない人物」だった(『ハンニバル』や『ハンニバル・ライジング』で、彼の「内面」やら「幼少期のトラウマ」やらが説明されてしまったときのガッカリ感!)。

 映画における「底知れない人物」は、あくまで「外面的」にそれっぽく見えれば良いのであって(というか「内面的」なアプローチは不可能なので)、その役を演じる俳優が内心で何を考えていようが無関係だ。カメラに人間の心は映らない。ゴダールは「キャラクターが何を考えているのか、を考えるのは俳優ではなく観客の仕事」みたいなことをいっていたけれどそういうことで*1*2*3、ある俳優の外面をみて、観客は勝手に「ああ、このキャラクターは底が知れないな」という感じを「生成」する(俳優の内面から滲みでる「底知れなさ」を「感じとる」わけではない)。

 だからそのような役を演じる俳優にとって大事なのは、観客に「底が知れない」という感じを与えやすい外面を備えているかどうかで、その点で浅野忠信の、能面を思わせるあの切れ長の目は強力だ。

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(『淵に立つ』)

  ある種の能面は、それひとつで様々な感情を表現できるように中間的な表情をもつが、この写真の浅野忠信の顔からも、怒り・悲しみ・悔しさ・嘲り・無感動など、さまざまな感情を読み取ることができる(というか、見る側がそういう「感じ」を勝手に読み取ってしまう)。しかしそれらの「感じ」の境界はひどく曖昧で、どこまでいってもこれという着地点を見いだすことができず、それが見る者に落ち着かない気分を呼び起こし「底が知れない」という感覚に繋がっていく。「わかった」という安心感を与えてくれない顔なのだ。

 もちろん素人がただ能面をつけても能楽師のような効果が出せないのと同様に、目が細ければ「底が知れない」感じを出せるわけではなくて、そのマスクを効果的に見せる技術(演技力)が必要になる。その点でギョッとさせられるのが、たとえばこの立ち姿だ。

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(『淵に立つ』)

 どことは上手く指摘できないのだけど、色々なことがすこしずつ、だが取り返しのつなかいほどにおかしい(手の開き方?腕の角度?胸の反り方?)。ただ立っているだけでこんな異物感を醸しだすことができる俳優は、現代ではビートたけしとこの人ぐらいではないかと思う。

 つまり浅野忠信は、能面のように不定形な感情を想起させる恵まれたマスクと、それを自在に観客に提示することのできる優れて身体的な技術とを兼ね備えた、現代映画界の能楽師なのだ。真面目な気持ちで書きはじめた文章なのに、非常にうさんくさい結論に到達してしまった。すみません。

 

*1:ジャン=リュック・ゴダールゴダール 映画史Ⅰ』「たとえばスチーブ・マックィーンですが、彼がなにかを考えているかのようなカットをよく見かけます。でも彼を考えさせているのは、じつは観客なのです。彼自身は、そのときも、あるいは週末にも、なにも考えていません。<君はぼくになにを考えてほしい?>と言っているだけなのです。そしてカットとカットを頭のなかでつないで<彼はこれこれのことを考えている>と考えるのは観客なのです。たとえば,彼が裸の娘を見てなにかを考えついたようなふりをすれば、観客は<ああ、彼はあの裸の娘のことを考えてるんだ。彼は彼女とやりたがってるんだ>と考えるわけです。仕事をするのは観客の方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです。」

*2:とはいえ浅野忠信は『ダゲレオタイプの女』(公式サイト)にこんな推薦コメントを寄せている。「写真撮影を通じて感情を相手に残すところがとても面白く、映画撮影でも我々俳優の気持ちが映ることを確信しました。この記事ダメじゃん。

*3:いっぽうでこんな発言も。『インビジブル・ウェーブ』公開時インタビューでの「英語のセリフに感情を込めるのは大変だったのでは?」という質問にたいして。「感情を込めようが込めまいが、それは監督とかカメラマンの人がうまく撮ってくれるので(笑)。日本語でも一緒なんですよね、感情を込めていなくても、込めているように見える映像を、僕じゃない人たちが作ってくれるんですよ。僕はもう、へらへらやってるだけです(笑)」『インビジブル・ウェーブ』浅野忠信、ペンエーグ・ラッタナルアーン、プラープダー・ユン単独インタビュー - Yahoo!映画