『淵に立つ』の浅野忠信をみて考えたこと
『淵に立つ』(公式サイト)を観た。素晴らしかった。「夫婦や親子といってもやっぱり理解しあえない他人同士だし、そういう人たちがなんか一緒に暮らしてる家族って不思議」という映画で、でも「しょせんは家族なんて」みたいな幼稚な露悪趣味は感じさせず、えぐいストーリーに反して語り口はどこまでもフラットで、だからこそ余計にイヤーな感じが立ちあがってくる…というバランス感覚が素敵な映画だった。
『クリーピー』(感想 )といい『聲の形』(感想1)(感想2)といい、心ある作り手たちが「まずはキサマの孤独を直視しろ。話はそれからだ」という誠実な作品を送りだしている2016年だが、『淵に立つ』もそのような流れに属する1本といえるだろう。まあほんとはそんな「流れ」なんかなくて、私がその手の映画に勝手に反応してるだけなんだけど。
リンク先は、素晴らしい発言連発の監督インタビュー。記事のタイトルにピンときた人はぜひ観にいくと良いことですよ。
現代の人間観で重要なのは、自分自身が本音を話しているつもりでも果たしてそうなのか。それは自分自身でも分かる訳ないじゃないかという世界観が好きなのです。だから僕は、登場人物の本音が良くわかる映画は前時代的映画だと思ってしまいます。
ところで、これは色々な人が言及していることなので今更感があるけどやっぱり書くと、この映画の浅野忠信が尋常ではなく凄い。浅野忠信はいつも凄いが、とくに今回は黒沢清がコメントしているように「底知れない役を演じる浅野忠信の決定打」で、どうしてこの人はこんなに「底知れない役」がハマるのかと考えてみたのだが、一番はやはりあの切れ長の目なのだと思う。
そもそも「底知れない役」を演じる俳優が、メソッド・アクティング的に「底知れない人物」になりきる…ということはあり得ない。「底知れない人物」とは、その感情の動きや行動原理の「底が知れない人物」であって、それを演じる俳優が「ここで彼 / 彼女の気持ちはこのように動いている」「こういうトラウマがあるから、このように行動する」ということを把握してしまったら、そのキャラクターはもう「底知れない人物」ではない。そのような「理解」や「共感」や「同化」が不可能だから「底が知れない」のだ。
『羊たちの沈黙』で、アンソニー・ホプキンズがどういう役作りのうえでレクター博士を演じたのかは知らないが(ホプキンズはメソッド・アクティングを批判している)、あの映画のレクターはたしかに、行動原理も心の動きも、常人には理解不能の「底知れない人物」だった(『ハンニバル』や『ハンニバル・ライジング』で、彼の「内面」やら「幼少期のトラウマ」やらが説明されてしまったときのガッカリ感!)。
映画における「底知れない人物」は、あくまで「外面的」にそれっぽく見えれば良いのであって(というか「内面的」なアプローチは不可能なので)、その役を演じる俳優が内心で何を考えていようが無関係だ。カメラに人間の心は映らない。ゴダールは「キャラクターが何を考えているのか、を考えるのは俳優ではなく観客の仕事」みたいなことをいっていたけれどそういうことで*1*2*3、ある俳優の外面をみて、観客は勝手に「ああ、このキャラクターは底が知れないな」という感じを「生成」する(俳優の内面から滲みでる「底知れなさ」を「感じとる」わけではない)。
だからそのような役を演じる俳優にとって大事なのは、観客に「底が知れない」という感じを与えやすい外面を備えているかどうかで、その点で浅野忠信の、能面を思わせるあの切れ長の目は強力だ。
(『淵に立つ』)
ある種の能面は、それひとつで様々な感情を表現できるように中間的な表情をもつが、この写真の浅野忠信の顔からも、怒り・悲しみ・悔しさ・嘲り・無感動など、さまざまな感情を読み取ることができる(というか、見る側がそういう「感じ」を勝手に読み取ってしまう)。しかしそれらの「感じ」の境界はひどく曖昧で、どこまでいってもこれという着地点を見いだすことができず、それが見る者に落ち着かない気分を呼び起こし「底が知れない」という感覚に繋がっていく。「わかった」という安心感を与えてくれない顔なのだ。
もちろん素人がただ能面をつけても能楽師のような効果が出せないのと同様に、目が細ければ「底が知れない」感じを出せるわけではなくて、そのマスクを効果的に見せる技術(演技力)が必要になる。その点でギョッとさせられるのが、たとえばこの立ち姿だ。
(『淵に立つ』)
どことは上手く指摘できないのだけど、色々なことがすこしずつ、だが取り返しのつなかいほどにおかしい(手の開き方?腕の角度?胸の反り方?)。ただ立っているだけでこんな異物感を醸しだすことができる俳優は、現代ではビートたけしとこの人ぐらいではないかと思う。
つまり浅野忠信は、能面のように不定形な感情を想起させる恵まれたマスクと、それを自在に観客に提示することのできる優れて身体的な技術とを兼ね備えた、現代映画界の能楽師なのだ。真面目な気持ちで書きはじめた文章なのに、非常にうさんくさい結論に到達してしまった。すみません。
*1:ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール 映画史Ⅰ』「たとえばスチーブ・マックィーンですが、彼がなにかを考えているかのようなカットをよく見かけます。でも彼を考えさせているのは、じつは観客なのです。彼自身は、そのときも、あるいは週末にも、なにも考えていません。<君はぼくになにを考えてほしい?>と言っているだけなのです。そしてカットとカットを頭のなかでつないで<彼はこれこれのことを考えている>と考えるのは観客なのです。たとえば,彼が裸の娘を見てなにかを考えついたようなふりをすれば、観客は<ああ、彼はあの裸の娘のことを考えてるんだ。彼は彼女とやりたがってるんだ>と考えるわけです。仕事をするのは観客の方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです。」
*2:とはいえ浅野忠信は『ダゲレオタイプの女』(公式サイト)にこんな推薦コメントを寄せている。「写真撮影を通じて感情を相手に残すところがとても面白く、映画撮影でも我々俳優の気持ちが映ることを確信しました。」この記事ダメじゃん。
*3:いっぽうでこんな発言も。『インビジブル・ウェーブ』公開時インタビューでの「英語のセリフに感情を込めるのは大変だったのでは?」という質問にたいして。「感情を込めようが込めまいが、それは監督とかカメラマンの人がうまく撮ってくれるので(笑)。日本語でも一緒なんですよね、感情を込めていなくても、込めているように見える映像を、僕じゃない人たちが作ってくれるんですよ。僕はもう、へらへらやってるだけです(笑)」→『インビジブル・ウェーブ』浅野忠信、ペンエーグ・ラッタナルアーン、プラープダー・ユン単独インタビュー - Yahoo!映画
映画『聲の形』感想メモ:「スキ」と「バカ」
※ちょっとした「気付き」についてのメモ的記事。ネタバレあり〼
先日行われた『聲の形』の舞台挨拶で、山田尚子監督がこんなエピソードを披露していたそうです。原作にはないアニメオリジナルのシーン…学園祭での硝子と植野の「バカ」のやりとり、手話(指文字)について。
じつは植野の手話は間違っていて「ハ、カ」になっちゃっているんです。濁点は手をスライドさせるんですが、それを硝子が教えてあげるんですが結果、植野に「バカ」って言ってしまっているような感じなんです。
映画『聲の形』大ヒット御礼舞台挨拶に入野自由、早見沙織、悠木碧らメインキャスト&山田尚子監督が揃って登壇。| アニメレコーダー
私は、植野と硝子が対等な位置に立って「バカ」と言いあっている...ささやかなコミュニケーションが成立した、というシーンだとずっと解釈していたんだけど(会場にいたお客さんも、この話をきいて驚いていた方が大勢いたようなので、似た解釈をしていた人は多そう)じつはそうではなくて、ラスト近くのあのシーンに至ってもコミュニケーションのすれ違いが(それまでと変わらず)発生していた。
そして手話のわからない観客は、あそこで植野同様に硝子の意図を受け取り損ねてしまう…というメタな仕掛けがほどこされていたシーンだったんですね。
以前の感想でも書いたように、『聲の形』は「ヒロイン・硝子の直接的な心情描写や、行動の意図の説明を排除する」という姿勢で演出されている作品で、将也(と観客)は、硝子の外面から彼女を「解釈」するしかない*1。
そのことによって「他人を理解することの難しさ」があぶりだされるという作劇になっていて、その姿勢はラストの植野と硝子のやりとりのシーンでも維持されていた。そして、そうした難しさ(不可能性?)は、「健聴者」同士がおこなっているコミュニケーションにおいても同じことなんですよね。
それで、山田監督の話をきいて遅ればせながら気付いたのは、植野と硝子の「バカ→ハカ」のやりとりは、硝子が将也に告白する「スキ→ツキ」のくだりと対応していたのだなー、ということ。
告白シーンでは、(相手の声がよく聞こえるように?)耳をさらけだした硝子が、将也に寄り添ったコミュニケーション手段=「声」によって自分の気持ち(好意)を伝えようとするけれど、その必死の試みは失敗してしまいます(「スキ→ツキ」への意味のズレ)。
硝子の言葉が上手く聞きとれずに戸惑った将也は「手話使ってよ」と伝えるけれど、でも硝子は、頑なに手話も文字も使おうとしません。将也に気持ちを伝える手段は声以外にもあるのに、ここでの硝子は「 ”健聴者” と同じ方法で気持ちを伝え、その返事を受けとめることができなければ」と、痛々しく自分自身を追いつめてしまっているように見えます*2。
いっぽう、「バカ→ハカ」のくだりは、植野が硝子に寄り添ったコニュニケーション手段=「手話(指文字)」によって自分の気持ち(敵意)を伝えようとするけれど、その意味がズレてしまう…という、告白シーンとは立場を入れ替えたシチュエーション。ここでメッセージの発信に失敗しているのは植野のほうです。
硝子は植野の言いたいことを察して「バカ、はこうだよ」と教えようとするけれど、またしてもコミュニケーションのすれ違いが発生し、まるで硝子が植野に「バカ」と言っているかのような雰囲気になってしまいます。硝子の意図は植野(そして多くの観客)に正確には伝わらない。でも、ここで硝子はすごく楽しそうな笑顔を浮かべています(愛想笑いが癖になっていた硝子が、唯一心から笑っているシーン?)。
一見コミュニケーションが成立しているようでいて、じつはすれ違いが起きており、でも硝子は笑顔を浮かべている。この事態をどのように解釈するかはほんとうに観る人ごとに異なると思うし、『聲の形』は全体がそういう重層的な作品なのですが。
私の感想だと、ここでの硝子は「 ”健聴者” と同じ方法で気持ちを伝え、受けとめることができなければ」という思い込みから解放され、自分のコミュニケーションの不完全さを、少し許すことができているように見えました*3。
そして『聲の形』は、「健聴者」「聴覚障害者」の別にかかわらず、人と人とのコミュニケーションは完全には成立し得ない…という認識がまず根底にあって、それでもなんとか他人と関わろうとするキャラクターたちの姿を肯定的に描いた作品だと思います*4。
最近オンエアされているテレビCMの「その想いは、きっと伝わる」という「感動的」なキャッチコピーとは裏腹に、『聲の形』は「ときには伝わらないことも、努力ではどうにもできないこともある」という点をフラットに見据えた作品です(将也が「目と耳を開く」クライマックスシーンで「よく学校来れるよね」というネガティブな声が彼に投げつけられているのは印象的)。
でも、そうした不完全さを受け入れたうえで、それでもどうにか他人と関わっていこう...という境地を、硝子の晴れやかな笑顔とともに描いていること(「完全」には成立し得なくとも、他人とのコミュニケーションは互いのあいだに何らかの相互作用ーーポジティヴなものも、ネガティヴなものもーーを生み出す意味があるということ)、そして作中一番の硝子の笑顔が、将也ではなくて、硝子を敵視している植野とのコミュニケーション(正確には、コミュニケーションの「すれ違い」)の中においてもたらされること。
こういった点がとても美しい作品だなー、と、あらためて思いました。
*1:山田監督のインタビューより。「(原作者の)大今先生からは、この作品はあくまでも将也の物語であって、硝子の物語にはしたくないというか、硝子の一人称は使ってないとも聞いてたんですね。だから、技術的な面でも、結絃がいてくれてすごく助かったんです。結絃がいることで(将也と一緒にいない時の)硝子にカメラが振れるんですよ。」(映画「聲の形」監督に聞く「開けたくない扉を開けてしまった感じでした」 - エキレビ!)
*2:そのように、硝子サイドからすればけっこう悲痛なシーンだと思うんだけど、アニメは(原作も)あくまで将也サイドから演出されているので、あのシーンは軽めなトーンで処理されているんですね。ここで、もろもろ「軽卒・反則」は承知のうえで原作者の発言を参照すると、硝子は「耳が聞こえないことも含めて、周囲が望むような自分に変われないから、みんなに迷惑をかけていると。そんな自虐的な想いが、彼女のなかにある加害者意識に繋がって」しまっているキャラクターだとのこと。「被害者」ではなく「加害者」意識というところが、硝子と将也が「極限で似るもの」たる所以です。(大今良時ロングインタビュー:『聲の形 公式ファンブック』|講談社)
*3:もちろんシンプルに、植野が自分と向きあうために指文字を覚えてくれたことが嬉しかった(敵意を伝えるためであろうと)というのも大きいと思います。
*4:作中何度も映し出される「水の波紋」がイメージさせるように、硝子はコミュニケーションの「タイムラグ」に悩まされているけれど(周囲の人達の会話の内容が、誰かに通訳してもらうまで理解できない)、この「タイムラグ」は「健聴者」同士のコミュニケーションにおいても発生しています。たとえば小学校時代の将也と硝子の母親同士の話し合いのシーンで、将也はふたりの会話の内容を推測するしかない立ち位置に置かれ、硝子がいつも感じているのと同質の不安を感じる。同様に、遊園地の観覧車内での植野と硝子の会話についても、ビデオ映像によって将也がその内容を知るまでには時間差がある。くわえて、入場特典として配布された原作者によるマンガ(10月8日〜再配布予定)も、「母の言葉の真意が、何年ものタイムラグを経て娘に伝わる」という話でした。
『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』記事のまとめ
当ブログでは『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』関連の記事を書きすぎて、どれから読んだら良いのかわかりにくい状態になってしまっているので、比較的まとまりが良いんじゃないかなー?と思われる記事を4本抜粋して宣伝です。
まず『たまこまーけっと』シリーズ全体についての総論的な記事はこちら。
『たまこまーけっと』を振り返る 序論「結局、デラってなんだったの?」
シンプルな『たまこラブストーリー』単体の感想はこちら。
アニメは「あらすじ」ではない 〜 『たまこラブストーリー』感想 (ネタバレなし)
つぎに『たまこまーけっと』と『たまこラブストーリー』の関連性についての記事を2本。
2013年初頭に放映されたテレビシリーズ『たまこまーけっと』は、震災を通過した後にストレートな「日常系アニメ」は作れない…という意識が反映された「日常系アニメを成立させることについての "メタ日常系アニメ"」という側面をもっていました。『たまこまーけっと』のメタ構造については、こちらの記事を参照。
「メタ日常系アニメ」あるいは「共同体アニメ」としての『たまこまーけっと』
それで、主人公・北白川たまこは「うさぎ山商店街=日常系アニメ的空間」をなんとか守らなきゃいけない、「日常」は自明のものではない…という意識を作中で唯一明確にもっているキャラクター。
『たまこまーけっと』におけるたまこ以外のキャラクターたちが、日常系アニメ的空間の「内側」にすっぽりと含まれているのにたいして、たまこだけはそれを「外側(メタ)」から眺める視点を備えたキャラクターなんです。
それで、メタな視点を備えているぶん、『たまこまーけっと』でのたまこは浮いていた。放映当時「主人公なのに何を考えてるのかよくわからない(から、感情移入しにくい)」みたいな意見が散見されましたが、たまこは「日常」を成立させる「日常の土台」への意識が強すぎるあまり、『たまこまーけっと』が描く「なにげない日常の物語」にキャラクターとして没入しきっていないのですね。
ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』でたとえると、天空から人間の営みを見守る天使のポジション。地上の人間の生活(=物語)にコミットしきれていない。
そんなたまこが、もち蔵の告白によって『ベルリン〜』のブルーノ・ガンツさながらに「堕天」する物語...つまり「たまこが物語に全身でコミットしていく物語」が、劇場版である『たまこラブストーリー』だった…という記事がこちら。
◯
ところで、「『たまこまーけっと』は観てないけど『たまこラブストーリー』は評判良いし観てみようかな?」という方にお願いをひとつ。
『たまこラブストーリー』はもちろんそれ単体でも楽しめる作品なんですが、『たまこまーけっと』を観ていない人にとって、本編の前に挿入される短編『南の島のデラちゃん』は謎の存在だと思うんです。
CMなどのイメージから、美麗な映像の瑞々しい青春ストーリーを期待してたのに、突然ヘンな喋るトリ(ちょいウザ)が出てくるのでいきなりめげそうになる人もいるかもしれないけどちょっと待って!おねがい!ちゃんと本編と関連があるのです、この短編も。
長くならないようにかいつまんでいうと、この短編のなかで「お餅=おっぱい=母性」というイメージづけがされていることだけ意識しておいてもらえると、より本編を楽しめると思います。
『たまこまーけっと』では「おもち」は人と人とをつなぐ「きもち」のメタファーだったけれど(関連記事 『たまこまーけっと』第8話感想)、北白川たまこという主人公の心情が掘り下げられる『たまこラブストーリー』ではより直接的に、たまこの追いかける「母親・母性」のイメージが投影されたアイテムになっておりました。
そのイメージが変容していく様子...たまこの中で「過去」の解釈がしだいに更新されていき、クライマックスでは「過去」と「現在」とが二重写しになる...というのが『たまこラブストーリー』の見所のひとつです。
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最後に、『たまこまーけっと』全12話の各話ごとの感想はこちらから。
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